EVER...
prologue
はじまり
 

 


 契約は、血の署名で行われた。

 この純白の神殿には似つかわしくない契約だ。少年は震える指で、傷口からにじみ出る血で自分の名前を書いた。あたりは目が痛むほどに明るかったが、目くらましの明かりだ、と少年は思う。
 女は魅惑的な唇をほころばせ、にっこりと笑った。
「よかったわね。これからよろしくね」
 鈴の鳴るような声で言って、少年の頬にキスを落とす。くらりとくるような良い香りが漂って、少年は顔が熱くなったが、恐怖の念はやはり消えなかった。
「グラティアはいいところよ」
 女は明るく言う。
「魔力の強い場所だから、暮らしには困らないわ。私は週に何回か会いに行くわね」
 少年は頷いた。保護を願うには、彼女にすがるしかないのは事実だった。
 女は屈んで、彼を引き寄せる。鼻がつきそうなほどに顔を近づけて、甘い声で囁いた。
「約束は守るのよ。そうすれば皆が幸せになれるわ」
――ぼくを除いてね。


 クローゼラ様、と臣下が呼ばわる。少年の髪を、白くて細い指でいじっていた女は目を上げた。興味の対象が自分からそれて、少年は心底ほっとして、一歩彼女から離れた。
「レイン・オースティンが見つかりました」
 まあ、と彼女は嬉しそうに笑う。獲物を前にした獣の微笑み、生け贄を前にした神の微笑みだ。
「明日にでも迎えに行くわ。準備をして」
「はい」
「それと」
 早速命を果たそうと踵を返しかけた臣下は、立ち止まって振り返る。クローゼラと呼ばれた女は目を細めた。

「あいつの……エレインの子が生きているわ」

 臣下が目を見開いた。少年は顔を逸らす。この人は、またやろうとしている。クローゼラは絶対だ。逆らえない。執念と残酷の塊の彼女が下す命は、いつも一つだった。
「探し出して、始末をおし。できなければ、ここに連れてきなさい」
 は、と短く返事をして、臣下は礼をする。クローゼラがスルリと動いて、臣下の頬に手を添えた。はっと顔を上げた彼の唇に、軽く触れるだけのキスが降りる。彼の頬が真っ赤になった。クローゼラは少年に見せたように、魅惑的な唇をほころばせる。
「報酬の半分はこれでいいかしら。続きは成功してから、ね」
 天上の微笑みは、彼の思考を全て止めるのには十分過ぎる輝きだった。
 少年はそれを苦々しい思いで見ていた。

 この人は、蜘蛛だ。美しい蜘蛛だ。相手を魅惑し、絡め取り、一度捕まったら最後、逃げられない。例え誘惑されて彼女に近づいたわけではなくとも、それは同じ。

 少年は天を見上げた。吹き抜けになった天井からは、神殿にふさわしく、神から落とされたかの如くの、光がさんさんと舞い降りている。
 偽者の光だ、と思った。自由を約束するような光だが、こんなの、聖なる幽閉でしかない。



 臣下が神殿から出て行くと、女は再び少年の傍に寄って、手招きをした。クローゼラが膝立ちになると、少年との目線の高さがほとんど一緒になる。そのまま向かい合い、彼女は彼の肩に腕をかけた。そして、微笑んで首を傾げる。
「いつか、あなたも会うことになるかもしれないわ……。エレインの子だもの、きっとあなたを迎えに来る」
 また、彼女の目が細められる。残酷な光が、その中に灯った。
「父親は、天使だそうよ。最高位の熾天使。信じられる?」
 少年は首を傾げる。彼女が語りかけているのは自分ではなく、彼女自身みたいだと思った。


「生まれてはいけない異端の子が、生まれたのよ」


 歴史の歯車は、軋みをあげて狂い始めた――。


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最終改訂 2005.10.02