■ |
初めて地獄を見たのは、丁度一年ほど前だった。
星が美しかった夜、村の外れで悲鳴がした。
パーン、と聞き慣れない爆発音が聞こえて、
人口が五十人にも満たない小さな村は騒然となった。
教会の鐘撞き塔から夜の海を眺めていたリオは、
異変に最も早く気付いた者の一人だった。
咄嗟に鐘を鳴らした。
鐘撞きはリオの仕事だった。
カラン、ゴーン、カラン、ゴーンという神聖なはずの音は、
その夜に限って不気味に響いた。
悲鳴がする。
誰かが泣いている。
爆発は数回だけだったが、山と海に挟まれて身を寄せ合うように存在していた集落は、あっと言う間に炎に呑まれた。
少しでも村人を避難させようと、リオは駆け回った。
地獄だった。
炎は耳も焼きそうで。
誰かが泣いているのに、小さな家は崩れ落ちて。
火が、人の形に燃えていた。
繋がれて逃げようのない犬が、喉も裂けよとばかりにキャンキャン言っている。
既に村は全滅していて、断末魔を上げている真っ最中だった。
紅い。
紅い。
世界が、紅い。
夕暮でもないのに、世界が紅い。
夏でもないのに、汗が出るほど暑い。
静かだ。
死の静けさだ。
孤独なほどに、身に染みるほどに。
一つ、一つまた燃え散っていく。
揺らぐ空気の向こう、ふらりと異質な人影が現れた。
手には呪符が握られている。
立ち尽くす少女に、残酷な笑みを向けて。
こいつが犯人だ、と悟ってリオは恐怖に呑まれそうになって、
悲鳴もあげることができずに、がむしゃらに教会に逃げ帰った。
神父様、と呼ぶ。
「神父様!」
紅い。
祭壇は真っ二つに折れていて、破壊のあと凄まじく埃が舞っていた。
「神父様、どこなの!?」
「リオ」
呼ばれて、リオは泣きそうになった。
よかった、生きてるんだ。
振り返って抱き付こうとしたリオは、ぞっとして足を止めた。
「神父様・・・?」
「すまないね。もう抱き締めてあげることもできない」
彼はまるで赤いペンキを被ったように血だらけだった。
「怪我をしてるの?薬箱を持ってくる!」
「いいから、リオ、地下道に逃げなさい。隣村の教会に通じてるから。
あの男は皆殺しにする気だ」
「神父様も一緒よ!」
神父は笑った。ひどい笑顔だ。
足下に、またぼたっと赤が落ちる。
「足を折った」
「あたしが支えになる!支えになるから!」
血だらけでも構わない、とリオは神父に抱き付いた。
血の臭いが鼻をつく。
「行かないで」
震えが止まらない。
「行かないで・・・神父様。あたし、神父様が大好きなのに」
愛が呪いだとも知らずに。
神父は一つ溜め息をついて、リオの手をとって、
リオに支えられながら地下道まで辿り着いた。
神父が鍵を開け、リオの手をとって中に入ったので、リオは少しホッとした。
「ね、神父様、あたし達助かるよね」
少しの間の後に返事がきた。
「そうだね」
その答えに安心する間もなく、目の前が光ってリオは倒れた。
神父が後頭部を打って気絶させたのだ。
「すまないね、リオ。お前だけは生かしたいんだ」
また、彼の足下に赤が落ちる。
頬を掠めたキスも、「さようなら、可愛い子」という呟きも、戸が閉まって鍵がかけられる音も、リオの意識の外だった。
目を覚ました時には、もう他に選択肢がなかった。
神父はリオの手に、彼のつけていた飾り紐を遺していっていた。
彼がどうなったのかは明らかだった。
激しく泣きながら、リオは隣村まで地下道を進んだ。
村人達はリオを憐れんで、とてもよくしてくれた。
しかし、三日後にはそこも焼き払われたのだ。
二度目の地獄を、リオは見た。
「お前のせいだ」
と誰かが言った。
4度目で、リオはもういいと思った。
もうどんな好意にも縋ってはいけないと思い知ったのだ。
「お前のせいだ」
そんなの、知ってる。
「お前なんか、呪われてしまえ」
リオの心に、決定的なひびが入った瞬間だった。
:::::::::::::::::::
「また何かお悩みですか?」
突然、「現在」に引き戻されて、リオは一瞬ぼうっとした。
「あ・・・ウィル」
「事情が深そうですね。今、すごく悲痛な顔をしていましたよ」
リオは顔を赤らめた。
「・・・いつから見てたの?」
「五分ほど前でしょうか」
「ひどい」
ウィルは笑った。
「なかなか絵になってましたから。純白の花の中で。リオは白が似合いますね」
お世辞っぽくもなく、気障っぽくもなく、
こんな純粋な物言いは初めてで、リオは少し不意を突かれた。
「そう・・・かな」
「その銀の髪とよく合ってます」
ウィルはそう言って屈み、花を摘んだ。
「ねえ、ウィル?」
「はい」
「あなたとオーリエイトって、どういう関係?
オーリエイトは教会で働いてるわけじゃないって言ってたけど、
聖者に会える人なんて限られてるでしょ?」
ウィルは憚る様子もなく答えた。
「オーリエイトとは小さい頃からの知り合いです。
彼女は聖城の近くに住んでいて、
時たま私が外に出ると、よく情報提供を頼まれました」
「情報提供?」
「女神の、ですよ」
リオは少しギクッとした。
ウィルが自ら女神のことを話してくれるとは思っていなかった。
「私や守護者たちを、女神が契約で縛り上げる理由が、
悪魔達との活動と関連していると思っていたのでしょう」
「それじゃ、女神は悪魔の仲間だってことにならない?」
「どうでしょう」
ウィルは首を傾げた。
「私に言えることは――― 馬鹿に聞こえるでしょうが・・・
世界が危ない、と。それだけです」
実感はわかなかったが(そりゃそうだ)ウィルが言うのだから本当だろう。
こんな場面で嘘をつくような人には見えない。
どっちにしろ、クローゼラはもうリオの世界を壊したのだ。
あの夜、全部壊して焼き払ったのだ。
「嫌な人」
吐き捨てたリオを、ウィルはじっと見つめた。
「あなたが皆と距離を置いてるのは、その思い出のためですか」
「え・・・?」
「さっきから想っているじゃないですか。女神がそれを奪ったのですか?」
リオは驚いて、眼鏡の奥のウィルの目を見つめ返した。
色違いの視線が、眩しいとまで思えた。
「・・・どうして」
「そんな顔をしていたら、嫌でも分かります」
リオは口を噤んだ。
「もう何も失いたくないから、得ることを拒むのですか?」
一言一言が、リオには強烈だった。
どうしようもない強さでリオを押す。
強い。
花園で涙を零していた青年は、本当はこんなにも強い。
「あなたは――― 」
思った矢先、ウィルが微笑んで言った。
「あなたは、強いですね」
意外なことを言われて、リオは目を瞬いた。
「自分が得ずとも、与えることができる。強いですね」
強くなんかない、とリオは思った。
耐えるのも辛いのも麻痺しているのだから、
ほとんどの時はあまり感じなくて済むだけだ。
そんなのは強いとは言わない。
その分、幸せには弱くなるからだ。
こうして手を差し延べられることに、たくさんのものを受け取ることに、
無償の温もりに。
「そんなんじゃない」
リオは首を横に振った。
「そんなんじゃないよ。そりゃ、あたしは強いよ。強いから、弱いんだよ。
闇に強い分、光には滅法弱いのよ」
もう、ウィルからの強い押しに抵抗する術を失っていた。
「怖いの。分かってるのに、引き込まれていくのよ。受け入れることであたしは皆を傷付けてしまうんだよ?なのに、あたしはまた繰り返そうとしてる」
ふと、肩に重みを感じた。ウィルが肩に手を乗せていた。
「・・・崩れてしまいますよ」
はっとリオは顔を上げた。
彼は、まだあまりよく知らない相手のはずだ。
クローゼラに通じている人だ。
なのに、どうしてこんなに真っ直ぐに、自分を見てくれるのだろう。
「あまりに全てを見つめていると、耐えられなくなります」
ウィルは身を屈めてリオの視線に合わせた。
「目を逸らすこと、逃げることもしないと。あなたは闇を受け入れ過ぎるようです」
リオは顔を上げた。
リオは確かに、闇を拒めない性格だった。全部受け入れて、溜めてしまう。
それを見抜かれていたことにも驚いたし、
その相手がウィルであることにも動揺した。
目の前の顔は柔らかに笑んだ。
その行為自体が、とてつもない強さでリオに沢山の光を注ぐ。
「あなたは、強いですよ」
この人は、とリオは思った。
リオと逆だ。
弱いから、こんなにも強い。
強く強く押してくる。
「目を逸らしてしまってください。
大丈夫、あなたは見なくても、
ちゃんとそれが存在していることを知っているのですから」
ものすごく抽象的な言葉ではある。しかし、的確に要点を突いていた。
奇妙な震えがリオに走った。
この数日間、彼はどれだけリオを見ていたのだろう。
こんな少ない間に、ここまで心中を見抜かれていたなんて。
リオはあふれそうになっていた涙を拭いて、ウィルを見上げた。
「でも、あなたも、強いよ」
そう返すと、ウィルは少々瞠目してから笑った。
「参りましたね。上手く返されました。
あなたの力になればと思ったのに、また与えられてしまいました」
ウィルは少しリオを見て笑み、優しく聞いた。
「でも、あなたも受け取って、くださいましたか?」
リオはどうしようもなくて頷いた。
「では、もう一つ」
ウィルはリオの手をとって、掌に先ほど摘んだ花を乗せた。
そして、リオに囁く。
「――― あなたに」
言葉が、花の香が、リオの中に無限に広がる。
拒否という退路は絶たれてしまった。
リオはウィルの微笑を泣きそうな気持ちで見つめた。
やっぱり、この人は強いのだ。
たぶん、実質的にリオよりずっと。
|
■ |