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完全に怒りの表情で帰ってきたリオを見て、リディアは唖然とした。
「どうしたの――― 」
聞かれてもリオは振り向きもせず、息も荒く部屋に閉じこもった。
屈辱と言ってよかった。
口封じのための口付けだ。
唇ではないだけマシだが、知らない男にそんなことをされるいわれはない。
「何なの、もう!」
頭を抱えても冷えるわけはなく。
「リオ」
とんとんと戸を叩いて顔を覗かせたのはオーリエイトだった。
「昼餉よ」
リオは弾けたように立上がり、
オーリエイトを戸の内側に引っ張り入れて、戸を閉めた。
オーリエイトは目を白黒させた。
「何の真似?」
リオはあの少年との「約束」を守る気などさらさらなかった。
言うなというなら、何がなんでも言ってやる。
「あの人、誰なの!あの紫色の目をした人!」
オーリエイトは疑わしそうな表情を隠そうともしなかった。
「会ったの?彼と」
「誰なのよ、あれ。油断ならなそうなあの人」
「何を言われたの」
「会ったことは誰にも話すなって。来たことを知られたくなかったんだろうけど、
あなたは知ってるんだから聞いてもいいでしょ?」
オーリエイトは溜息をついた。
「・・・見ていたのね」
リオは一瞬言葉を途切らせた。そういえば、覗き見だった。
しかし、後に引く気はさらさらない。
「誰なの」
「レインよ。レイン・オースティン。ウィルの部下の一人」
知りたかったことはこれで分かったが、リオの気はおさまらなかった。
「彼、一体何の用で来たの?」
「そのことなんだけど」
オーリエイトは、怒りが微塵もない落ち着いた声で言った。
彼女こそ、唇にキスされたことはもう忘れたのだろうか。
「荷物をまとめて。明日には発つの。ウィルがグラティアに帰ることになったのよ」
これには気をそがれて、リオは目をぱちぱちと瞬いた。
「あ、そうなの・・・」
「どうしてそんなに怒っているの」
リオは返事につまり、ぷいっと横を向いた。
「本人に聞いて」
「大方、口封じにキスでもされたんでしょう」
オーリエイトが溜め息混じりに言った。
リオは黙っていたが、頭に血が上ったことは感じた。
勢いよくオーリエイトのほうを向き、激しい調子で聞いた。
「あの人ってキス魔?」
「キス魔・・・」
オーリエイトは呆然とし、少し笑いをこらえるような顔をした。
珍しいその表情に、リオは一瞬気を取られた。
「そんなんじゃないの。
あの人、どうしたら相手を怒らせられるか、良く知っているだけ」
あまりいい説明にはなっていない。
しかしオーリエイトも、そのレインとやらを良く知っているみたいだ、とリオは思った。
「彼のことは放っておきなさい。どうせそのうち再会することになるから」
あまり嬉しくない慰めだ、というツッコミは心の中だけにしまうことにした。
考えてみれば、一日三食きちんと食事を取れるようになったのは最近だ。
逃亡生活中は、水が見つかったら、それだけで生き返る心地だったのに。
満足行くまでお腹を満たして、リオは部屋に戻って荷物の整理を始めた。
リディアも、今まで大半の時間をリオの部屋に押しかけて過ごしていたので、
リオの部屋にある荷物をとりに、ひっきりなしにリオの部屋に入ってきた。
ノアは姉の周りをついて回って、時折手伝いもしていた。
「少し寂しいわ」
手を止めて、リディアがそっと言った。
「なんだか元からここに住んでいたような気分なの。そう思わない?」
リリスのノートを荷物に詰めるかどうか、リオは少し迷った。
が、プライバシーも何もあったものではなく、出発の準備で皆走り回っていて、
いつ何時誰が入ってくるか分からないので、
仕方なく、迷う暇なく鞄の中に押し込めた。
我ながら泥棒まがいの行為だと思うが、ここはウィルのための屋敷であり、自分の母とウィルは関係ないのだから困らないだろう、と半ば無理やり納得した。
でも、せめてウィルに、面倒を見てくれたお礼だけは言っておこうと思った。
ウィルは書斎にはいなかった。
大抵の時間は書斎にいたのだから、ここでなければ神殿だろうと予想がついた。
それに、今日は安息日で、お祈りの日でもある。
しかし、この屋敷、山奥にもかかわらず広い。
数日で全て探検し尽くしたはずもなく、リオは神殿がどこにあるかを知らなかった。
やはり明日別れる時にしようかと考えあぐねていると、アーウィンが通りかかった。
「やっほ、リオ。探し物?」
気楽に声を掛けてくる。
「ううん、そうじゃないの。神殿ってどこにあるのか知らない?」
すると、アーウィンはああと言って笑った。
「うん。ちょっと遠いけど。庭を抜けて、いつか君と会った東屋のむこうに道があるから、そこをもっと奥にいったところにあるよ」
よく探検したものだ、とリオは目を丸くした。
とりあえず、教えてもらった道を辿った。
神殿がどういうところかにも興味があるので、多少遠くても気にならなかった。
神殿は屋敷とはだいぶ離れたところにあった。
聖なる場所に相応しく、外観は眩しいほどの純白だ。
教会堂とは違い開放的な造りで、
階段を上ると外からでもウィルが祈っているのが見えた。
邪魔しては悪い気がしてウロウロしてると、
ウィルの方から気配を感じて振り向いてくれた。
「リオ」
ウィルは驚きと嬉しさと戸惑いを混ぜた表情をした。
意識してやるとき以外は、ポーカーフェイスはできないらしい。
「ごめんね、お邪魔しちゃって」
リオはおずおずと神殿に足を踏み入れた。
「お祈り中だったの?」
「ええ。でも気にしなくていいですよ。・・・何かご用ですか?」
「お礼だけは言っておこうと思って」
ウィルはきょとんとした。
「お礼?」
「あたしが言うべきことでもないような気がするけど。
とにかく、いろいろお世話になって、ありがとう」
ぺこっとお辞儀をすると、ウィルは笑った。
「そんなにかしこまらなくていいですよ。私こそお礼を言わせてください。
・・・いろいろお相手してくれてありがとう。楽しかったですよ」
リオは笑った。
「お祈りって、何を祈ってるの?」
あとは、好奇心にかられて質問してみた。
「神様に下界の報告をしているだけです」
リオは目を丸くした。
「神様なんて、本当にいるの?」
「いるみたいですよ。もっとも、私は一方的に話しかけるだけで返事をもらったことはないですから、伝わってるかどうかでさえあやしいですけど」
「じゃ、何で祈るの?」
「儀式みたいなものなんです」
へえ、と呟いてリオは天井を仰いだ。
きっと、年に一度ウィルがくるかどうか分からないだけの場所なのに、
見事な壁画が施されている。
その昔、神々がまだ地上にいて、自ら世界創造を行っていたという。
リオが大好きで、よく母や神父に聞かせてもらっていた神話だ。
降魔戦争も神話の一部だが、それはあまり好んで語られない部分である。
今見上げた天井にも、その神話に基づく神々が描かれていた。
明るい陽の光がさんさんと降り注いで、
淡く神殿内の全ての風景をぼやけさせている。
「神様の声って、聞ける人はいないのかな」
「天使なら聞けますよ。天の使いと言うくらいですから」
リオはウィルを振り向いた。
「じゃ、リディアにならできるかな」
ウィルはさあ、というように肩をすくめた。
「リディアはハーフですからね・・・どうでしょうか」
ウィルは少し首を傾げた。
「神と話をしてみたいですか?」
うーん、と言ってリオも首を傾げる。
「そうね、聞きたいことはいっぱいあるかな」
そのとき、ウィルが急にリオの腕をひいて、祭壇の下に押し込んだ。
びっくりして叫ぼうとしたリオを、彼は制する。
「誰か来ます。隠れていてください」
わけが分からないまま頷くと、
ウィルは大丈夫ですよ、と囁いてまた祈っているふりをし始めた。
すぐに、軽やかな足音が響いてきた。
「ウィル」
聞き覚えのある声だ。
ウィルは祈るふりをやめて振り向く。
少し驚いた顔をしたが、これはポーカーフェイスではないだろう。
「レイン。まだ発っていなかったのですか」
ウィルは部下にも敬語を使っている。
聖者でありながら立場が弱いのだろうかと思ったが、
リオは今二人の会話に神経を集中させていた。
レインというのは、あのキス魔の名前だと思い出したのだ。
「少し見て回っていたんだ。ここは全然変わってないね」
「変えようとする人がいませんから」
ウィルは平然と答えて立ち上がった。
祭壇の下のリオには、ウィルの姿だけが見えている。
立ち上がるとウィルは高い。
レインも十分長身だったが、ウィルよりは下だろうと想像できた。
「そうだね。・・・少し報告に来たんだ」
レインが語調を改めたので、ウィルは眉をひそめた。
「資料庫の呪文符にかけられてた呪文が解けてるみたいだよ」
祭壇の下でリオはドキリとし、ウィルはほの少しだけ眉を動かしたが、ポーカーフェイスを貫いた。
「誰か、中に入れた?」
「ええ、まあ。でも、私は資料庫に呪符が埋めてあることすら知らなかったし、
解く方法など持っていませんよ」
レインが黙ったところを見ると、ウィルが言ったのは本当のことのようだ。
「私の見張りにきたんですか?呪符まで調べて」
「クローゼラからのお達しだよ。どっちにしろ、僕たちは逆らえないじゃないか」
ウィルが目を逸らしたのが見えた。
「資料庫に入れたのは誰?」
「オーリエイトです」
存外はっきりした声で、ウィルは答えた。
「オーリエイト・・・」
レインの声が揺れた。
「またそんな、危ないことを・・・」
「クローゼラには言いつけないでしょうね?」
雰囲気で、レインがウィルを非難の目で見つめているのが分かった。
「ああ。そうできないことが分かってて入れたのか?」
「用心のためですよ。リディアなら入れなかった」
くすり、とレインが皮肉げに笑うのが聞こえた。
「相変わらず、無垢な顔して意外と目算するね。
ま、いいけど。ただ、軽はずみなことをするなって言いたかっただけだよ」
「いわれずとも」
ウィルが答えた。
「新しい呪符を用意するよ。呪符担当が僕でよかった。じゃあ、気をつけて」
互いに会釈すると、レインの足音は遠ざかっていった。
リオが祭壇の下から這い出たときには、
ウィルはまだ複雑そうな顔をして、彼の後ろ姿を見送っていた。
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