EVER...
side story
番外編 レインの世界 前編
 

 

「いたの」
 オーリエイトはレインを見て、短くそう呟いた。
「うん」
 レインは静かに頷く。それ以上何も言わず、同じく沈黙を続けるオーリエイトのすることを、レインはじっと見ていた。
 オーリエイトはてきぱきと手際よく杖の手入れをしている。レインから見ても、相当な年代ものと分かる杖だったが、オーリエイトの手入れが良いのか、古くても古臭いわけではなく、むしろ年を経た威厳を感じる杖だった。
 彼女がいつから生きているのか、どれだけの時間を見てきたのか、そして何を胸に秘めているのか、レインは知っている。知っているのは、今彼女ともっとも親しい人間たちの中でも自分だけだろうと思うと誇らしかった。誇らしい一方で、他の感情もあったけれど。
「……なに?」
 オーリエイトに言われ、レインはほんの少し目を見開いて二回瞬き、それからああ、と呟いて微笑んだ。
「少し複雑な気分だったんだ」
「そう。てっきり嬉しいのかと思ったわ」
 嬉しかったのは確かだ。少女を一番良く知っているのは自分だという自信が持てることが。
 レインは彼女の傍に寄り、隣に座った。器用に動く指先を、じっと眺める。しばらくそうしていると、オーリエイトがため息をついてレインを振り返った。ほんの少しだけ困ったような金の色の瞳が、レインにはたまらなく愛おしい。
「あまり見つめないで」
「恥ずかしい?」
「落ち着かないだけよ」
「そうかな」
「あなたはじっと見られていて平気?」
「君に見られているのなら嬉しい。他の人ならどうでもいい」
 オーリエイトは一瞬手を止め、それからわずかに表情をかげらせて作業を続けた。
 そう、彼女を良く知っているからこそ、多分、自分の愛情が彼女にとって少なからず重荷になっていることを、レインは知っている。それでも、自分の気持ちを伝えることをためらわないのは、レインの数少ない「純粋に自分のための」わがままだった。その重荷で、彼女に自分の存在を伝えたい。レインの世界そのものである彼女に、自分を認めて欲しかった。ただ、そこにいるのだと認識してくれるだけでも、良いから。
 他のわがままは、全て彼女にささげる。彼女を守るためにささげる。この身さえも、世界さえも。
「オーリエイト」
 口に出して呼んだら、その名を持つ少女が振り向けるという事実を、彼女が存在するという事実を、レインの世界が存在する事実を守るために。
「なに?」
「好きだよ」
「そう」
 彼女は、静かにそう答えただけだった。

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 オーリエイトと出会った時のことを、レインは良く覚えている。
 それまでの人生は悲惨だった。家族を殺され、山を放浪し、山賊に拾われて、盗みにも殺しにも手を染めて生き延びてきた自分。人を受け入れることなど到底できなくなっていた。世界全てが敵だった。世界が何か分からなかった。何の意味を持つのか、分からなかった。
 そんな日々が変わったのは九歳ぐらいのころだった。教会からの使者だと言って、嫌がるレインは教会へ連れて行かれ、女神と名乗る女に会った。取引はごく単純だった。
「あなたの命と、安全は保障してあげる」
 優しげな声で言った女をレインは美しいと思ったが、同時に酷く嫌悪感を覚えた。
「だから、あなたの魂をちょうだい。あなたが死んでからで良いから」
 契約に同意したのは、単にその時に食うのにすら困っていたからだった。すぐに逃げ出すつもりだった。それが叶わないことは、すぐに分かったけれど。
 教会にはレインのほかにも一人、少年がいた。二つほど上の、ウィリアムと名乗ったその少年は、控えめな笑顔でよろしくと言った。レインは跳ね除けた。あんなふうに笑って、最後は顔色ひとつ変えずに相手を刺して金目の物を奪える人間を、レインはあまりにたくさん知っていた。
 本能的に、教会は、いては危ない場所だとすぐに分かった。何かが歪で屈折していた。組織自体も、女神を名乗る女も。だから、逃げた。逃げ出した先で、少女に会ったのだ。

「誰?」

 冷ややかで警戒するような声を聞いたのを、レインは覚えている。顔を上げれば、目を射抜くような深紅色を見つけた。金色の目は、逆に自分を警戒しているように見えて、少し意外だったのを覚えている。この目をしているのは、自分のほうのはずだったのに。
 しかし警戒の色は、すぐに掻き消えた。代わりに浮かんだのは、軽い驚き。そしてすぐにそれはごく冷静な色になる。自分よりも年下に見える少女には、あまりに不似合いな、いっそ老熟しているといっても良いほどの冷静さだった。
「逃げてきたのね」
 すぐに自分の状況を見抜いたことで、レインは初めて少女に警戒心を持った。が、すぐにこんな幼い少女を追っ手として遣わすわけがないと思い当たる。その考えを裏付けるように、少女は水のたっぷり入ったバケツを、ひょいと手を動かして浮かせると言った。
「そこじゃすぐに見つかるわ。来る?」
 魔法が使えるのか、とわずかに驚いたのと、少女が匿ってくれるのだと理解して、あまりに意外だったのが、その後レインが返事に少し時間を要した理由だった。
「……いい」
 断ったのは、単純に条件反射だった。警戒心は身を守る上で欠かせない。少女はわずかに眉をひそめたが、そう、と無表情で静かに呟いただけだった。
「なら、早めにグラティアを出ることね。人目につかないところにいた方がいいわ。聖者城から逃げてきたんでしょうけど、教会の有する情報網なら、すぐに目撃者を探し出して貴方に追いつくでしょうから」
 淡々と言って、去ろうとする。レインは思わず、そのすそをつかんだ。自分から他人に触れるなんて、金品を盗む以外の目的では数年ぶりだった。
 少女は袖に感じた力に、ゆっくりと振り返ってレインを見つめる。軽くため息をついて、少女は言った。
「……お腹は空いているの?」
 レインは首を横に振った。
「水は?」
 黙っていると、少女は浮かせていたバケツをレインの目の前に下ろした。水面に、樹海を覆う靄の青が映って揺れていた。
「私の家はこの上よ。食べ物が欲しくなったり、隠れたかったりする時はいらっしゃい」
 少女はそれだけ言うと、ふわりときびすを返して行ってしまった。

 レインは彼女の袖をつかんでいた自分の手を見つめた。不思議な子だと思った。レインに踏み込もうとしてくるわけではないし、けれど無関心でもなかった。その距離感が、とても意外で、安心できた。あの子は他の人間と違う。
 しばらく迷って、結局レインは、本当に木なのだろうかと疑うような太い幹に巻き付く長い階段を上がることにした。息も切れてきた頃に、小屋にたどり着く。そこで初めて、レインは少女の家族の存在を考えた。やけに落ち着いた大人っぽい少女だったが、親兄弟、または同居人がいないとは限らない。レインはまず窓から中をうかがった。一人の少女が暮らすのに必要な物以上のなにかは置いていない。むしろ少ないように思えた。小綺麗に片付けられた質素な部屋。
「あら」
 背後で声がしてレインは驚いた。少女がいた。
「結局来たの」
 レインは後退った。少女はその態度にも別段感情を見せる事なく、入り口ならあっちよ、と言う。少女は踵は返したもののレインを待っているようだったので、レインはついて行くことにした。
 靄の支配する樹海の中にしては、湿度の管理された部屋だった。質素だが居心地はよく、レインはぼんやりとこれが少女の趣味なのか、と思う。少女は好きにしてていいから、と言うと自分は台所に立った。
「夕飯は食べて行く?」
「いらない」
 レインは答えた。出される食べ物を信用するほどには少女を信用していない。そうやって殺されそうになったことがあるから、反射的な反応だった。少女はやはり、そう、とだけ答えて自分一人分の食事を作った。いやに手際がいい。
「君はいくつ?」
 聞くと、九つ、と少女は答えた。自分よりもひとつ年下だ。見た目から年下だろうとは思っていたが、レインは驚いた。雰囲気は本当に大人っぽい。
「ひとりでここに?」
「ええ」
「生まれた時から?」
「それはないわ」
「じゃあ、家族は?」
「生まれた時からいないわ」
 レインは黙る。今度は自分が質問されることを予想していたが、少女は何も言わなかった。だから、質問を再開する。
「僕が誰だか分かる?」
 少女は怪訝そうに眉をひそめた。
「私、あなたと会ったことなかったと思うけど?」
「うん、ない……」
 レインはほっとした。逃げて来たと少女は言い当てたが、守護者とまではばれていないようだ。守護者だと分かったら、さすがに城に送り返されるかもしれない。――少女自身が追っ手ではないと、城の人間ではないことを、レインは確信していた。この少女は安全だ、と。

 食事は自分で作りたいというと、少女は材料の代金を要求した。持っていないと告げると少女は少し呆れた顔をしつつも、それなら自由に使っていいと言った。レインは自分で作った料理をつつきながら、少女に聞いた。
「ただでくれるなら最初から金なんか要求しなければいいのに」
「そういうわけにはいかないわ。世の中それで通るのが当たり前ではないもの」
 今度は服を繕いながら少女は答える。自分より年下なのに世の中を語るのかと思うと少しおかしかった。
「それに、逃げるのに無一文な人なんて聞いたことがないわ」
 持ち出せるなら持ち出している、とレインは内心で思う。実際、欲しい物は全て申告制で、城で現金を持たせてもらったことはなかった。どこに金が隠してあるのかでさえレインは知らない。持ち出す方法は考えたが、思いつかなかったのだ。
「あなた、さっき私にあなたのことが分かるかって聞いたけれど」
 少女が言う。
「名前を聞いてもいいかしら?」
「知ってどうするの」
 冷たく答えると少女は言った。
「私はオーリエイト。オーリエイトカーマインよ」
 それでもレインは黙っていた。先に名乗ってくれたところでこちらが名乗り返す義理はない。しかしオーリエイトはじっと待っていた。針を持つ手を止めて、こちらを見つめて待っていた。金色の視線が鋭い。一歩も引かず、揺るがない意志が見て取れた。
「……レイン」
 ついにレインは答えた。オーリエイトが初めて、ほんの微かに笑った。何も言わず、彼女は裁縫に戻った。

 レインが食器を片付けていると、ドアを叩く音がした。レインはとっさにしゃがんだ。追っ手かも知れない。また連れ戻される。心臓の鼓動が跳ね上がった。
 オーリエイトが立ち上がった気配がした。開けないで。叫びたかったが声が出ない。ドアが開く。
「あれ……お嬢ちゃん、家の人は?」
 男の声がする。オーリエイトは答えた。
「いません」
「お出掛け中かい?」
 返事をする声は聞こえなかった。
「そうか……この辺で男の子を見なかったかい? 十歳ぐらいの……」
 レインは息を詰めた。
「見てないわ」
 オーリエイトの答えは明確で、淡々としていて、嘘の響きは巧妙に消されていた。そうか、と男は言って、見かけたらお城に知らせにおいで、と言って去っていった。
 ドアが閉まる音がして、オーリエイトがキッチンに歩いてくる音がする。レインは顔を上げた。少女が自分を見下ろしている。どこまでも静かな雰囲気だ。
「立って」
 言われて、レインはなぜか逆らえなかった。言われたとおりにする。オーリエイトは無言でレインの上着に手をかけ、ボタンを外した。レインが慌ててその手を押さえたが遅かった。青い神官服。飾り紐と十字の留め具。
「水の守護者」
 彼女は呟いた。
「あなたのご両親、もしかして知っていて名前をつけたの、レイン?」
 少しだけ、からかうような口調だ。真顔で言われたので、その響きに気付くのに時間がかかったけれど。
「そんなはず、ない」
 少しつっけんどんに答えると、彼女はレインの上着から手を離した。一瞬、レインはその手を名残惜しく感じた。久々に自ら触れた肌はひどく温かかった。
「余計なお世話かもしれないけど、守護者なら帰った方が帰った方がいいわよ」
「いやだ」
「あなたは血の契約を交わしたのでしょう?」
 ふわりと、ウェーブのかかった深紅の髪を揺らしてオーリエイトは再びソファに戻る。裁縫を再開していた。
「逃げ続けることはできないのよ。たまになら、私のところに来てもいいけれど」
 命令ではなく助言だと分かった。レインは黙っていた。不審なほど親切で、嫌悪感を感じるほど馴れ馴れしい訳ではない。けれど、突き放す訳でもない。手を伸ばせばつかみ返してくれる。温かな、手で。
 彼女の取る距離感は、あまりにレインの理想だった。もう少しそばにいたかった。
「……もう少し、いてもいい?」
 オーリエイトは顔を上げて、小さく頷き、また手元に視線を戻した。




最終改訂 2009/08/20