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どこにいるんだ、とリタがキョロキョロと辺りを見回したが、ジェレミーの姿は見えなかった。一方、フルーエリンはヒッと悲鳴を上げてリタから飛び下り、上に昇る階段の一番下の段に駆け寄った。
「ジェレミー、ジェレミー、ジェレミーっ!!」
「そんなに何回も名前を呼ばなくたって、来てくれたことには気付いてるよ、フルー」
ジェレミーが――否、ジェレミーを幼くして妖精サイズに縮めた生き物が、階段の一番下の段にちょこんと座っていた。リタは唖然としていて、ひたすらその生き物をしげしげと見つめるしかなかった。キットも首を傾げて見ていた。
「……サー、なのか?」
「一応ね。サーって呼ばれるような身の上じゃなくなっちゃったけど」
ジェレミーはあっけらかんと言ったが、微笑みはしなかった。リタを見上げて無力な少年の顔をした妖精の姿で言う。
「どうして戻って来たんだい?」
答えたのはフルーエリンだった。
「取引したの。あなたを助けるために。あたしには手も足も出ないんだもの」
リタは何も言わなかった。ジェレミーと言葉を交わす資格が自分にはないと思った。ただ、ジェレミーと視線を合わさないようにしながら、ひたすら黙っているだけ。
「そっか」
高い声でジェレミーは言った。
「リタの自発的な行動じゃないんだ」
リタは俯き、くるりと向きを変えると立てかけておいた箒を手に取った。
「魔女? もう行くの?」
フルーエリンに問われてリタは答えた。
「約束は果たした」
「そうだけどっ……ジェレミーがこうなったのはあんたの責任でしょ。逃げてないでちゃんと直視しなさいよ! 償ってよ!」
「フルー」
ジェレミーがフルーエリンを制した。
「いいんだ、どうせもう、ティターニア女王は許してくれないよ」
ティターニア。それは妖精の女王の名だ。
フルーエリンは黙り、そして泣き始めた。しゃくり上げる声が漏れる。ガバッとジェレミーに抱きついて、フルーエリンは言った。
「あたし……母親失格ね。全然守ってあげられてないわ」
「十分守ってもらったよ」
「嘘ばっかり」
「……嘘がつけないの、フルー譲りだって知ってるくせに」
リタは二人の姿を見ながら、途方に暮れていた。フルーエリンにもフルーエリンの苦悩があったのを初めて知った。苦労させると分かっていてジェレミーを産んで、守ろうとして、守れなくて、しかもジェレミーは彼女の主人でもあるわけで。自分は二人の未来を奪ったんじゃないだろうか。こんな勝手なことってない。ビジネスとはいえ、他人の未来を踏みにじるのが正しいことなのだろうか。
それにジェレミーは、リタを恨んだりする言葉を一つも言わなかった。ただ、戻ってきたのがリタの自発的な行動じゃないことを悲しんだ。ジェレミーはリタを信じて期待していたのだ。
“つまらん”
師匠の言葉が蘇る。
“結局何も変わっていないではないか”
“魔女というのは責務を果たすから魔女なのか”
師匠の言う通りだ、と思った――。
「ジェレミー」
リタは言った。本当に無意識に言葉が出た。言いたい、言わなければ、と衝動のようなものが突き上げてくる。
「すまない」
ジェレミーは顔を上げた。リタを見上げて高い少年の声で言う。
「謝るの? リタは自分が間違ったことをしたと思ってるのかい?」
「分からない。けれど、ジェレミーたちをこんな目に合わせたのは確かだから」
リタはジェレミーの琥珀色の瞳を見つめた。初めて、フルーエリンの瞳の色と同じだと気付いた。
いつも素直に、正直に、感じたことを口に出していたジェレミー。リタも素直になるなら今だった。
「……私は」
ただ、一言伝えたい。許されようとは思わない。
「魔女としては正しいことをしたと思っている。けれど、ジェレミーのことは嫌いではない。私にとって特別な人だ。本当に職務放棄をしてジェレミーを手伝おうとしたことがあったくらい、ジェレミーは私の特別だった。もうこんなことを言っても何の関係も無いだろうけれど、それだけ……誤解しないでほしい。それだけは知っていてくれまいか」
ジェレミーは必死に言うリタをじっと、少し驚いたような表情をして見ていた。そして彼はふと表情を緩ませた。リタのよく知っている、人懐こい笑みだった。
「なんだぁ」
妖精の少年はリタを見上げて悪戯っぽく言った。
「やっぱりリタは僕の“特別”だ」
「……ジェレミー!? 今でも魔女を信じるの?」
フルーエリンは信じられない、というように目を見開いた。
「あなた騙されたのよ? それで、無理やりこの姿に戻されてっ……」
「フルー、人はね、許すってことを知ってるんだよ」
ジェレミーは言い、リタを見上げた。
「でもねリタ、今までと同じように、純粋な信頼を君によせるのは、僕もできないな。それに、まだ傷ついてるんだから」
リタは黙って俯いた。ジェレミーに許された実感が無かった。許すと言ってもらえたこと自体、驚いてしまったくらいだ。しかも身に余り過ぎて、罪悪感は逆に消えない。それでも、「許す」という単語がジェレミーの口から出たことは、リタの気持ちを少し軽くした。
「だから、良いことを思い付いた」
ジェレミーは立ち上がり、階段を一段飛び降りて、リタの足元まで歩いてきた。リタは過去の経験の数々を思い出し、ジェレミーの“思い付き”とは何だろうと不安になりながらジェレミーを見つめていた。
「リタ、リチャードとの契約はもう果たしたんだろう? 終わったんだよね?」
リタは困惑しながら頷いた。
「なら大丈夫だ。それなら、僕からリタに依頼を申し込みたい」
「……は?」
リタ、キット、フルーエリン、三者の声が綺麗に重なった。小さな少年妖精のジェレミーの依頼を受けるのはひどく奇妙な感じだったし、まさか協力を請われるとは思わなかった。
「無所属の魔女リタ・ベッセマーさん、あなたに依頼があります。僕に協力してください」
ジェレミーは言って、ぺこりと頭を下げた。顔を上げたジェレミーの表情は真剣だった。
「僕は諦めていないよ。たくさんの妖精たちや、人々の命運が、僕が当主になれるかどうかにかかってるんだ。賭けでも何でもやってみるつもりだよ」
底無しの前向きさだ。リタは少し呆れ、言った。
「それはしかし……あまりにもリチャード・アベリストウィスに後ろめたいのだが」
「もう契約は終わったんだろう?だったらいいじゃないか。魔女は過去の契約を引きずるような人たちじゃなかったと思ってたけど」
「それはそうだが……」
「リタがいないとできない事なんだ。お願いだよ」
リタはむぅ、と押し黙った。ジェレミーはリタの返事を待たずに、唐突に質問してきた。
「妖精の魔法と魔女の魔法って理論が違ったりする?」
「え? いや、ほとんど同じだが……」
「リタは妖精との取引の経験は?」
「ついさっきフルーエリンと」
「それが初めて?」
「そうだが」
「じゃあ取引担当は僕か。リタは証人ね。それから、女王が何か僕たちに変な魔法をかけようとしたら、対応をよろしく。リタは妖精じゃないから、不敬罪にはならないはずだ」
「ちょ、ジェレミー」
リタは慌てて言った。ジェレミーがいつもの強引さを発揮しようとしていることにやっと気付いたのだ。
「私はまだ行くとは言っていない。契約もまだ交わしていない」
「じゃあ、断るのかい?」
「ええと……」
「仕方がない、一人で行くかな」
「まっ……」
リタが慌てたのを見て、ジェレミーは微笑んだ。
「じゃあ、来る? 僕と契約する?」
リタはがっくりと肩を落とした。
「……すげぇな、サー。伊達に妖精と交渉してないって言うか……」
キットも呆れ半分、感心半分に言った。リタも負けを認めるしかなかった。
「……分かった、契約だ。私は魔女だ。この際他人の評判など気にしない」
「そう来なくちゃ」
ジェレミーは笑顔で言った。妖精の姿をしていても、中身はちっとも変わっていない。それが悲しく、嬉しくもあった。
「ねぇ、リタ」
ジェレミーはふわりと柔らかな表情をして言った。
「また一緒にフルーツポンチを作ったり、オペラに行ったりしよう」
リタは目を瞬き、俯き、三角帽をぐいっと引っ張り下げて返事をしなかった。言わなくてもそれが「うん」という返事なのはジェレミーに分かっているだろう。