EVER...
prologue
はじまり
 

 


 契約は、血の署名で行われた。

 神々しいまでに天窓から光が降り注ぐ、純白の神殿にはひどく似つかわしくない契約だった。少年は震える指で、傷口から滲み出る血で自分の名前を書いた。女は微笑みながら少年を見つめている。辺りは目が痛むほどに明るかったが、目眩ましの明るさだ、と少年は感じた。
 署名が終わると、女は契約書を取り上げ、蠱惑的《こわくてき》な唇をほころばせ、にっこりと笑った。
「よかったわね。これからよろしくね」
 鈴の鳴るような声で言って、少年の頬にキスを落とす。くらりとするような良い香りが漂って、少年は頬が熱くなったが、反射的に半歩下がった。幼いながらに、女の狂気を感じたのだ。怖い、と少年は思った。
「グラティアはいいところよ」
 女は明るく言う。
「魔力の強い場所だし、暮らしには困ることはないわ。だから、一生出ないで大丈夫なのよ」
 少年は敏感に、勝手に外へは出るなという、言葉の裏の意味を感じ取ったが、大人しく頷いた。保護を願うには、彼女にすがるしかないのは事実だからどうしようもない。女は屈んで、彼を引き寄せる。鼻がつきそうなほどに顔を近づけて、甘い声で囁いた。
「いい子だから、約束は守るのよ。そうすれば皆が幸せになれるわ」
 ――ぼくを除いてね。少年は小さく心の中で呟いた。


 クローゼラ様、と壇下で臣下が呼ばわった。少年の髪を、白くて細い指でいじっていた女は目を上げた。興味の対象が自分からそれて、少年は心底ほっとして、一歩彼女から離れた。臣下の魔法使いは、女王の前でするように膝を床について報告する。
「もう一人見つかりました。レイン・オースティン、地方貴族の子供です」
 まあ、と彼女は嬉しそうに笑う。獲物を前にした獣の微笑み、生け贄を前にした神の微笑みだ。
「明日にでも迎えに行くわ。そうね、少し準備をして行きましょう。貴族では厄介だわ」
「はい」
「それと」
 早速命を果たそうと踵を返しかけた臣下は、立ち止まって振り返る。クローゼラと呼ばれた女は目を細めた。

「あいつが……エレインが生きているわ。子供を生んだそうよ」

 臣下が目を見開いた。少年は顔を逸らす。この人は、またやろうとしている。クローゼラは絶対だ。逆らえない。執念と残酷の塊の彼女が下す命は、いつも一つだった。
「探し出して、始末をおし。できなければ、子供だけはここに連れてきなさい」
 は、と短く返事をして、臣下は礼をする。クローゼラがスルリと動いて、臣下の頬に手を添えた。はっと顔を上げた彼の唇に、軽く触れるだけのキスが降りる。彼の頬が真っ赤になった。
 クローゼラは少年に見せたように、蠱惑的な唇をほころばせる。
「報酬の半分はこれでいいかしら。成功したら、もっといいものをあげるわ。だから、手抜かりの無いようにね」
 天上の微笑みは、彼の思考を全て止めるのには十分過ぎる輝きだった。少年はそれを苦々しい思いで見ていた。
 この人は、蜘蛛だ。美しい蜘蛛だ。相手を魅惑し、絡め取り、逃げようものならどこまでも追い詰めて、一度捕まったら最後、逃げられない。そして、それでもなお逃げようとすれば、彼女の手の中に納まるのを拒めば、行く先は捕食されることだけなのだ。

 少年は天を見上げた。吹き抜けになった天井からは、神殿にふさわしく、神から落とされたかの如くの、光がさんさんと舞い降りている。偽の光だ、と思った。神は祝福なんてくれはしない。光など、希望じゃない。こんなの、聖なる幽閉でしかない。


 臣下が神殿から出て行くと、女は再び少年の傍に寄って、手招きをした。クローゼラが膝立ちになると、少年との目線の高さがほとんど一緒になる。そのまま向かい合い、彼女は彼の肩に腕をかけた。そして、微笑んで首を傾げる。
「いつか、あなたも会うことになるかもしれないわ……。エレインの子だもの、きっとあなたに会いに来る」
 また、彼女の目が細められる。残酷な光が、その中に灯った。
「父親は、天使だそうよ。最高位の熾天使《してんし》。信じられる?」
 少年は違和感を感じて首を傾げる。彼女が語りかけているのは自分ではなく、彼女自身みたいだと思った。向かい合っていながら、彼女は時々、遠くを見ている。もっとも、いつも目の前のものではなくて、遠くを見ているのかもしれなかった。

「生まれてはいけない異端の子が、生まれたのよ」

 歴史の歯車は、軋みをあげて回り始めた――。



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アップ 2005.10.02
改訂 2010.10.11