| しかし、すぐに悪魔が二人に追いついた。息も切らさずに、にっこりと笑ってリオに話しかける。
 「一人で逃げて逃げ切ると思ったの? 馬鹿な子ね」
 リディアは軽く悲鳴を上げてリオの方ににじり寄った。
 「あまり手荒なことをするのはわたくし自身も疲れるのよね。取引しない?」
 リオは黙っていた。悪魔との取引ほど、危険なものはない。
 「あなたが大人しく捕まってくれれば、そっちの子には傷つけないわ」
 リオは唇をかんだ。これも皆の元を去ろうとした理由の一つだった。自分がいると、皆が危険だ。
 迷う余地などなかったので、リオは悪魔の方に足を踏み出した。悪魔がにやりと笑う。
 「リオ!! だめ!」
 リディアが叫んで、何を思ったか悪魔の前に、ずいと進み出た。その場で膝をつき、胸の前で手を組んで祈るような格好をした。リディアが口を開く。
 その喉から流れ出たのは、歌だった。
 
 天使の歌声というのはこういうものなのだろう。どこまでも透き通り、透明で光にあふれた美しい声。
 悪魔はその歌声を聴いた瞬間、笑顔が顔から吹き飛んで、血色を失って後退った。
 「お、お前……!」
 リディアはかまわず歌い続ける。透明なものが胸にまでしみこんでくるような気がした。すぐに、悪魔を追いかけてきたオーリエイトたちが追いついて、リオとリディアを背後に庇った。
 「わかったでしょう」
 オーリエイトがひたと悪魔に目を据えて、静かに言った。
 「私たちはあなたの思っているような人じゃない。まだここを立ち去らないなら」
 オーリエイトは杖を突き出した。
 「遠慮はしないわ」
 凛と鋭く静かな声は、リディアの歌声に乗って強く響いた。
 「クローゼラがなんとしてもリオを連れて行くというのなら、私たちはなんとしてでもリオを連れては行かせない」
 リオは最後列で頭をたれた。――もう、戻れない。
 悪魔は何か言い返そうとしたが、ついに耐え切れず、耳を塞いで数歩下がった。それでも目はちらりとリオを追い、未練たっぷりという感じだった。
 
 「アーウィン」
 突然オーリエイトに名を呼ばれ、アーウィンはとぼけた「へっ?」という声を出した。本当に緊張感を壊すのは得意らしい。
 「火を」
 「い、今!?」
 「火は光を持つ。悪魔の苦手なものよ」
 言われて、アーウィンはあたふたと右手を掲げた。その動作に気付いた悪魔は、あわてて自分の前に何かを敷いた。オーリエイトがそれに気付き、一瞬しまったという顔をしたが、アーウィンの放った炎はそれすら破った。悲鳴が夜の森に響いて、悪魔はふっと姿を消した。
 
 
 リディアはようやく歌うのをやめ、はあはあと肩で息をした。
 「大丈夫?」
 オーリエイトが声をかける。
 「無理しなくてもよかったのよ。悪魔の気はあなたには毒でしょう」
 「ゆ、油断させられると思って……」
 オーリエイトは微笑む。優しい笑みだった。
 「そうね、助かったわ。少し休んで」
 リディアは頷いて、リオのほうを心配そうに見やった。オーリエイトがリオの傍に歩いてくる。リオの目の前で立ち止まって、まっすぐにリオの目を見つめた。リオは逃げなかった。金の視線が痛い。
 「……私達を信じるか信じないかは、あなたの自由であることは確かだけど」
 少し悲しげな――。
 「一人で消えるなんてもってのほかだわ。意地でも追いかけて守るわよ。あなたは一人では危なすぎるもの」
 ――けれども、優しい声。リディアに向けたのと、同じ瞳。
 「手をとってくれたんだと思っていたのに」
 リオは俯いた。
 「ごめんなさい……」
 オーリエイトはリオを引き寄せて、少し抱きしめた。
 
 そして、アーウィンのほうを向く。
 「あなた、火の魔法が得意なの?」
 「う、うん」
 アーウィンはこくりと頷く。
 「魔法は少し本を読んで勉強しただけだけど、火の魔法は初めから、何の問題もなく使えたんだ」
 そう、と呟いて、オーリエイトは品定めをするようにアーウィンを見つめた。アーウィンはしばらくその視線を睨み返していたが、耐え切れずに聞いた。
 「あのさ、何であの悪魔、リディアの歌を聴いたら逃げてったの? あんなに綺麗な歌声だったのに」
 リディアはそれを聞いて、照れたように頬を染めた。リオはそれを見て、やっぱり可愛いな、と思う。
 しかし、その次の一言。
 「天使の歌だからよ」
 自分で言うことではないだろう。話を黙って聞いていたライリスもえっ、という顔をした。自分の失言に気付いたリディアは、あわてて説明した。
 「あの、ほら、悪魔と天使って天敵同士じゃない? それで……ああ、そうよ。あのね、私は天使と人間のハーフなの」
 さらりと言うので、ライリスが女であることを告白された時と同じくらい、驚いた。
 「天使の!?」
 呑み込んだ後は、もう驚かなかった。とても納得できる。リディアは頷いて、自分の目を指差した。
 「この色は、天使特有のものなの。天使の歌には浄化作用があるわ。例えハーフが歌う歌でも、悪魔には辛いでしょうね。もっとも、悪魔の気だって天使には辛いものだけど」
 「へえ……すごいや」
 アーウィンが感心したように呟いた。
 「でも」
 ライリスが声を掛けた。
 「そもそも、どうして悪魔がこんな所に出たんだろう? 降魔戦争で魔王サタンが封印されてから、悪魔は大陸の西端、しかも教会の力が及ばない所にしか出なくなったはずだ」
 教会、の言葉にリディアがピクリと反応した。それには気付かなかったように、オーリエイトが答える。
 「その通りよ。でも……」
 金の目が伏せられた。
 「それはもう、太古の昔の話よ」
 「悪魔がまた活動し始めたってこと?」
 ライリスの問いに、オーリエイトは顔をあげた。強い瞳だった。
 「そうよ」
 リオの中で、細く一本の線が繋がった。
 「あなたたちはずっと、この事に関する情報を集めていたの?」
 オーリエイトとリディアは一瞬、緊張気味に顔を見合わせた。
 「……そうよ」
 「な、何かオレら、大変な旅に同行しちゃったみたいだ……」
 アーウィンがいつになく真面目な表情で呟いた。
 
 オーリエイトがリオのほうを向く。
 「あの悪魔のせいで状況が変わったわ。リオ、あなたは魔法使いなの?」
 リオは首を横に振った。目は灰色で髪は銀、珍しい組み合わせだが普通の色だし、魔力のかけらも示したことはない。
 「悪魔まで使って、クローゼラはあなたを手に入れたいみたいだから、あの刺客が言うような単純な皆殺しじゃなくて、狙いはあなたそのもののはずよ。本当に心当たりはないの?」
 リオは愕然とし、首を横に振った。自分そのものが目的――? 特別な力も特別なアイテムも、持った覚えはない。自分すら気付いていない力に、なぜか相手が気付いているのなら別だが。
 オーリエイトはじっとリオを見つめた。わけが分からない、とその目は言っていた。
 「何が目的かは分からなくても、クローゼラが狙っているなら守った方がいいわ」
 リディアが口をはさんだ。オーリエイトが頷く。
 「そのつもりよ。今日はまず、ロッジに辿り着かなきゃ」
 そうだね、とライリスが答えた。
 「また変なのが出てきたら困るから、ぼくが見張りをやるよ」
 「いいの?」
 リディアが申し訳なさそうに言う。
 「平気だよ、一晩ぐらい徹夜したって」
 「ありがとう。じゃ、行きましょう」
 オーリエイトの掛け声で、皆は再び進み始めた。
 
 歩きながら、リオはこっそりライリスに耳打ちした。
 「ねえ、あなた、何者?」
 「どういう意味?」
 ライリスは心外な質問だ、という顔をした。
 「前から思ってたけど、あなたの身のこなしとか、すごく気品があるの。さっきは、普通の人は知らない降魔戦争とか、悪魔のことをすごく詳しく知っていたし、教養もあるみたいだった」
 ライリスは一瞬黙って、問い返した。
 「そういう君は、どうして降魔戦争のことを知ってるの?」
 「あたし、教会で育ったの。神話とか創世記とか、よく話してもらったから」
 ライリスはじっとリオを見つめた。真剣で探るような目で、リオは必死にその綺麗な目を直視した。ようやくライリスが目を逸らし、溜め息をついた。
 「君は可愛い見掛けによらず、鋭いな」
 それ以上は何も言わない。リオはあえて追究しなかった。可愛いと言われたのだけが意外だったが、そのことで照れるには、熟慮したい考え事があり過ぎた。どうも……ライリスも、わけありみたいだ。
 
 
 
 その夜、リオはなかなか眠れずにいた。オーリエイトの言葉がどうしても胸にしこりを残していた。
 相手の狙いは自分――つまりは、故郷が襲わやれたのもリオが原因だと言うことだろうか。リオは布団を引き上げた。やっぱり、あたしのせいなの? 全部、あたしの――……。
 
 異端の子。
 
 リオは布団を引き上げた。いまさらそれを気にしてどうする。こういうのには慣れているはずなのに。
 
 「眠れない?」
 ライリスが声をかけてきた。
 「うん……ちょっと」
 「まあ、そうだろうね。自分が原因で襲撃されたとなれば、気にもなるだろうね」
 低く静かに、ライリスは呟いた。リオはぼんやりとその横顔を見つめた。
 月明りに浮かぶそれは、太陽の下の時の華麗さとは違って、儚く可憐な印象があった。金の髪は淡く月の光を弾いて、壁に寄り掛かって物憂げなその様子は、美貌も手伝い、人の目を引き付けずにはいられないものがある。中性的な顔立ちな上、男の格好をしているので今は男に見えるが、女の格好をしたらどれ程の美少女になるか、想像に有り余った。あたしが男なら、一目惚れするところだわ、とリオは思う。同性のリオでさえ見惚れるほど、ライリスは綺麗だった。
 「ねえ、ライリスはどうして男装なんてしてるの?」
 リオは思わず聞いた。美貌は女の武器なのに。もったいない。ライリスは苦笑した。
 「そうだなあ……いろいろ理由はあるけど。一番の理由はこの格好が一番ぼくらしいからだろうね」
 「ライリスらしい?」
 確かに、似合ってはいる。
 「ぼくが一番、ありのままの自由なぼくでいられる格好だよ」
 笑顔の裏に、何かが見えた。軋み。歪み。この人のなかでも、闇が燻っている。リオはそれを感じ取りながら、差しさわりのない返事を返した。
 「ライリスは、自由が好きなんだね」
 うん、とライリスは頷いた。
 「風のふくまま気の向くまま、自分らしく生きる。これがぼくのモットー」
 冗談ぽく言うので、リオはくすくすと笑った。
 「ほら、おやすみリオ。明日倒れたら話にならないよ」
 ライリスの言葉に、リオはうんと頷いて目を閉じた。
 
 人は皆、闇を内に飼っているのだ。
 
 
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