EVER...
chapter:1-story:13
――― あなたに」

 

 初めて地獄を見たのは、ちょうど一年ほど前だった。
 星が美しかった夜、村の外れで悲鳴がした。パーン、と聞き慣れない爆発音が聞こえて、人口が五十人にも満たない小さな村は騒然となった。

 教会の鐘撞き塔から夜の海を眺めていたリオは、異変に最も早く気付いた者の一人だった。咄嗟に鐘を鳴らした。鐘撞きはリオの仕事だった。カラン、ゴーン、カラン、ゴーンという神聖なはずの音は、その夜に限って不気味に響いた。

 悲鳴がする。誰かが泣いている。

 爆発は数回だけだったが、山と海に挟まれて身を寄せ合うように存在していた集落は、あっと言う間に炎に呑まれた。少しでも村人を避難させようと、リオは駆け回った。
 地獄だった。炎は揺らめいては近くのものを飲み込んでいく。めらめらという音が耳を焼きそうだった。誰かが泣いているのに、小さな家は崩れ落ちる。火が、人の形に燃えていた。繋がれて逃げようのない犬が、喉も裂けよとばかりにキャンキャン言っている。既に村は全滅していて、断末魔を上げている真っ最中だった。

 紅い。紅い。世界が、紅い。
 夕暮でもないのに、世界が紅い。夏でもないのに、汗が出るほど暑い。

 静かだ。死の静けさだ。
 孤独なほどに、身に染みるほどに。
 一つ、一つまた燃え散っていく。

 必死に駆け回っていたリオの手前、揺らぐ空気の向こう、ふらりと異質な人影が現れた。手には呪符が握られている。立ち尽くす少女に、残酷な笑みを向けて。
 こいつが犯人だ、と悟ってリオは恐怖に呑まれそうになって、悲鳴もあげることができずに、がむしゃらに教会に逃げ帰った。

 神父様、と呼ぶ。
「神父様!」
 紅い。祭壇は真っ二つに折れていて、破壊のあと凄まじく埃が舞っていた。怖くて怖くてどうしようもなかった。もしかしたら、もう生きていないかもしれない。
「神父様、どこなの!?」
「リオ」
 呼ばれて、リオは声を聴いた瞬間に安堵泣きそうになった。よかった、生きてるんだ。振り返って抱き付こうとしたリオは、ぞっとして足を止めた。
「神父様……?」
「すまないね。もう抱き締めてあげることもできない」
 彼はまるで赤いペンキを被ったように血だらけだった。
「け、怪我をしてるの? あたし、薬箱を持ってくる!」
「いいから、リオ、地下道に逃げなさい。隣村の教会に通じてるから。あの男は皆殺しにする気だ」
「神父様も一緒よ!」
 神父は笑った。ひどい笑顔だ。足下に、またぼたっと赤が落ちる。
「足を折った」
「あたしが支えになる! 支えになるから!」
 血だらけでも構わない、とリオは神父に抱き付いた。血の臭いが鼻をつく。けれど、放すほうが怖かった。きっとそのまま消えてしまう。
「行かないで」
 震えが止まらない。
「行かないで……神父様。あたし、神父様が大好きなのに」
 リオは言った。愛が呪いだとも知らずに。
 神父は一つ溜め息をついて、リオの手をとって、リオに支えられながら地下道まで辿り着いた。神父が鍵を開け、リオの手をとって中に入ったので、リオは少しホッとした。一緒に逃げてくれるんだと思った。
「ね、神父様、あたし達助かるよね」
 少しの間の後に返事がきた。
「そうだね」
 その答えに安心する間もなく、目の前が光ってリオは倒れた。神父が後頭部を打って気絶させたのだった。
「すまないね、リオ。お前だけは生かしたいんだ」
 また、彼の足下に赤が落ちる。
「あいつはこの地下道を知らないだろう……お前だけは、生きなきゃいけない。お前を守らないといけないんだ。そのためなら、私は盾になるよ」

 頬を掠めたキスも、「さようなら、可愛い子」という呟きも、戸が閉まって鍵がかけられる音も、リオの意識の外だった。



 目を覚ました時には、もう他に選択肢がなかった。神父はリオの手に、彼のつけていた飾り紐を遺していっていた。彼がどうなったのかは明らかだった。激しく泣きながら、リオは隣村まで地下道を進んだ。
 村人達は酷いありさまのリオを見て驚いていたが、憐れんで、とてもよくしてくれた。しかし、三日後にはそこも焼き払われたのだ。二度目の地獄を、リオは見た。
 「お前のせいだ」と誰かが言った。

 四度目で、リオはもういいと思った。もうどんな好意にも縋ってはいけないと思い知ったのだ。心を寄せる傍から、安堵して寄りかかる傍から、破壊されていく。壊れていく。
「お前のせいだ」
 そんなの、知ってる。
「お前なんか、呪われてしまえ」
 リオの心に、決定的なひびが入った瞬間だった。


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「また何かお悩みですか?」
 突然、「現在」に引き戻されて、リオは一瞬ぼうっとした。
「あ……ウィル」
「今、すごく悲痛な顔をしていましたよ。……どうしたんです?」
 リオは顔を赤らめた。
「……いつから見てたの?」
「五分ほど前でしょうか」
「ひどい」
 ウィルは笑った。
「なかなか絵になってましたから。純白の花の中で、俯いているあなたが。リオは白が似合いますね」
 お世辞っぽくもなく、気障っぽくもなく、こんな純粋な物言いは初めてで、リオは少し不意を突かれた。
「そう……かな」
「その銀の髪とよく合ってます」
 ウィルはそう言って屈み、花を摘んだ。リオは彼の指先が茎を千切るのを見ていたが、ふと口を開いた。
「ねえ、ウィル?」
「はい」
「あなたとオーリエイトって、どういう関係? オーリエイトは教会で働いてるわけじゃないって言ってたけど、聖者に会える人なんて限られてるでしょ?」
 ウィルは憚る様子もなく答えた。
「オーリエイトとは小さい頃からの知り合いです。彼女は聖城の近くに住んでいて、時たま私が外に出ると、よく情報提供を頼まれました」
「情報提供?」
「女神の、ですよ」
 リオは少しギクッとした。ウィルが自ら女神のことを話してくれるとは思っていなかった。この前話したのが心に留まっているのだろうか、事情を明かしてくれる気になったらしい。
「私や守護者たちを、女神が契約で縛り上げる理由が、悪魔達との活動と関連していると思っていたのでしょう」
「それじゃ、女神は悪魔の仲間だってことにならない?」
「そうかもしれません」
 立場上、断定することは避けたようだが、これは断定なのだとリオは感じた。ウィルが顔を上げる。
「私に言えることは――馬鹿に聞こえるでしょうが……世界が危ない、と。それだけです」
 実感はわかなかったが、ウィルが言うのだから本当だろう。こんな場面で嘘をつくような人には見えない。
 どっちにしろ、クローゼラはもうリオの世界を壊したのだ。あの夜、全部壊して焼き払ったのだ。
「嫌な人」
 吐き捨てたリオを、ウィルはじっと見つめた。

「あなたが皆と距離を置いてるのは、その思い出のためですか」
「え……?」
「何かを思い出していたのでしょう? なくしたものを想っていたのでしょう? 女神がそれを奪ったのですか?」
 リオは驚いて、眼鏡の奥のウィルの目を見つめ返した。色違いの視線が、眩しいとまで思えた。
「……どうして」
「そんな顔をしていたら、嫌でも分かります」
 断言されて、リオは口を噤んだ。
「もう何も失いたくないから、得ることを拒むのですか? それとも得たいと思うから、守るために突き放すのですか。……ああ、両方でしょうか」
 一言一言が、リオには強烈だった。どうしようもない強さでリオを押す。
 強い。花園で涙を零していた青年は、本当はこんなにも強い。
「あなたは――」
 思った矢先、ウィルが微笑んで言った。

「あなたは、強いですね」

 意外なことを言われて、リオは目を瞬いた。
「自分が得ずとも、与えることができる。強いですね」
 強くなんかない、とリオは思った。耐えるのも辛いのも、あまりに多すぎて麻痺しているのだから、ほとんどの時はあまり感じなくて済むだけだ。そんなのは強いとは言わない。慣れというのは強いということじゃない。その分、幸せには弱くなるからだ。こうして手を差し延べられることに、たくさんのものを受け取ることに、無償の温もりに。
「そんなんじゃない」
 リオは首を横に振った。
「そんなんじゃないよ。そりゃ、あたしは強いよ。強いから、弱いんだよ。闇に強い分、光には滅法弱いのよ」
 もう、ウィルからの強い押しに抵抗する術を失っていた。
「怖いの。分かってるのに、引き込まれていくのよ。受け入れることであたしは皆を傷付けてしまうんだよ? なのに、あたしはまた繰り返そうとしてる。受け入れたくてたまらない。受け入れたら消えちゃうのに」

 ふと、肩に重みを感じた。ウィルが肩に手を乗せていた。
「……そんなことも、見ているんですね」
 はっとリオは顔を上げた。彼は、まだあまりよく知らない相手のはずだ。クローゼラに通じている人だ。なのに、どうしてこんなに真っ直ぐに、自分を見てくれるのだろう。
「辛いでしょう。そういうことに気付くのは。ですが、あまりに全てを見つめていると、耐えられなくなります」
 ウィルは身を屈めてリオの視線に合わせた。
「目を逸らすこと、逃げることもしないと。あなたは闇を受け入れ過ぎるようです」
 リオは顔を上げた。リオは確かに、闇を拒めない性格だった。全部受け入れて、溜めてしまう。それを見抜かれていたことにも驚いたし、その相手がウィルであることにも動揺した。目の前の顔は柔らかに笑んだ。その行為自体が、とてつもない強さでリオに沢山の光を注ぐ。

「あなたは、強いですよ」

 この人は、とリオは思った。リオと逆だ。弱いから、こんなにも強い。強く強く押してくる。
「目を逸らしてしまってください。大丈夫、あなたは見なくても、ちゃんとそれが存在していることを知っているようですから」
 ものすごく抽象的な言葉ではある。しかし、的確に要点を突いていた。奇妙な震えがリオに走った。この数日間、彼はどれだけリオを見ていたのだろう。こんな少ない間に、ここまで心中を見抜かれていたなんて。リオはあふれそうになっていた涙を拭いて、ウィルを見上げた。

「ありがとう……あなたも、強いね。目を逸らせなんて、普通は言えないよ」
 そう返すと、ウィルは少々瞠目してから笑った。
「参りましたね。上手く返されました。あなたの力になればと思ったのに、また与えられてしまいました」
 ウィルは少しリオを見て笑み、優しく聞いた。
「でも、あなたも受け取って、くださいましたか?」
 リオはどうしようもなくて頷いた。ひどく救われた気分だった。嬉しかった。
「では、もう一つ」
 ウィルはリオの手をとって、掌に先ほど摘んだ花を乗せた。そして、リオに囁く。

「――あなたに」

 言葉が、花の香が、リオの中に無限に広がる。拒否という退路は絶たれていた。受け取るのは怖かったけれど、それでも受け取ると幸せだった。リオはウィルの微笑を泣きそうな気持ちで見つめた。

 やっぱり、この人は強いのだ。たぶん、実質的にリオよりずっと。



最終改訂 2005.11.16