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「申し訳ないが、時間がないから用件を簡潔に説明する」
オーリエイトが口を開いたが、“誰か”に遮られた。
「来年は千年目だ。降魔戦争終結から千年になる」
寝ぼけている者は、もう誰もいなかった。
「のちの魔王サタンが神々の創世方針に不満を表し、
反逆して天界を追われたのは太古の昔だった。
彼は一度この世界を滅ぼして、自分の理想の世界が創りたかったんだろう」
昔、神は自ら世界を管理していたという。
遥か太古の出来事が、今に繋がっている。
降魔戦争のことを知る者は少ない。
リオも神父から名前だけ聞いたことはあったが、
具体的に語られるのを聞いたのは初めてだった。
「もちろんサタンのこの方針は、
消される方の世界に住む我々にはたまったものじゃない。
当然神々の側につく。
そうして、太古の人々はサタンを封印したのだ――― 千年の期限付で」
息を呑んだ者は少なくなかった。
千年。
来年は千年目。
――― 魔王が、復活する?
そこで、その“誰か”はオーリエイトの方を向いた。
「戦争以来、神々の力は急速に衰えた。地上の天使の子たちの声ですら、彼らを呼べるかどうか怪しい。
今度は神の助力は得られないぞ。
頼れるのは己と、神の力を引き継ぐ守護者たちだけだ」
オーリエイトは杖を握り締めたまま呆然として、掠れた声で呟いた。
「――― あなたは・・・」
「あの子を見つけろ。サタンの力を封じるんだ。
今、私の跡を継げるのは君だけなんだ、グロリア――― 」
オーリエイトは息を呑み、杖を放り出した。
「マーリン殿、マーリン殿!」
しかし、“誰か”はそのままふっと消えてしまった。
老人はむぅーと言って伸びをし、皆の視線に気付いて目を瞬いた。
「おや、どうしたんじゃ」
床に手をついて崩れ落ちたオーリエイトの肩に、ライリスがそっと手を添えた。
「オーリエイト?大丈夫?」
彼女は微動だにしなかった。
小屋を飛び出していったオーリエイトを、リオは追いかけた。
ずっと弱さを見せなかった彼女が、感情的になっていた。
そのことにリオは動揺していた。
降魔戦争のことも、悪魔のことも気になる。
だけど、今は目の前にあるものを見失いたくなかったのだ。
オーリエイトは小さな池のほとりにいた。
桟橋に腰掛けて、美しい月夜だというのに下を向いて俯いていた。
月明りの下でも、その真紅の髪は鮮やかで、しかしどこか儚くて。
リオが近付くと、オーリエイトが呟いた。
「……ごめんなさい、取り乱して」
消え入りそうな声だ。
「分かっていたのに……情けないわ」
肯定も否定もせずに、リオは彼女の隣に座った。
こういう時の慰めは何にもならないとリオは知っていた。
「大丈夫?」
ただ、それだけを言って。
「戻りたくないなら、何か着るものを持ってくるよ?」
オーリエイトは痛々しい笑顔を浮かべた。
「何も、聞かないのね」
「あたしの時も、オーリエイトは何も聞かなかったじゃない」
「…………」
しばし、沈黙が降りた。
大陸のどこかでサタンの封印が解けかけているとは思えないほど、
静で穏やかな夜だ。
リオが月を眺めていると、オーリエイトは、マーリン殿はね、と言った。
「マーリン殿はね、私の魔法の師匠だった人なの」
うん、とリオは頷いた。
「降魔戦争を終わらせるために、この世界を守るために、必死に頑張っていたわ」
オーリエイトは顔を上げた。
「サタンを止めたいのは――― 私がこうして戦争に備えて情報を集めているのは、世界のためなんかじゃないの」
ふふ、とオーリエイトは奇妙な笑い方をした。
「あの人が守ろうとしたものを守りたい。私が私の手で、継ぎたい。それだけよ。
大切な人がいたこの世界を・・・。綺麗な理由なんかじゃない。私のわがままよ」
守ろうとし過ぎて、一人で進んで、そのまま消えてしまいそうな感じで。
「オーリエイト……」
たまらずにリオは呼び掛けた。
オーリエイトはその呼び掛けを拒否するように首を振った。
「巻き込んでるのは皆私よ。あなたを、アーウィンを。
責めていいわよ、その方が楽だわ」
リオはそれ以上の自傷行為を止めるかのように言った。
「それでハイそうですか、って頷くと思う?」
オーリエイトは黙った。
「あたしたちがこの世界に滅んでほしいと思ってると思う?
世界中の人達がそう思ってると思う?」
俯く横顔も、頬にかかる真紅の髪も、確かに綺麗だ。
そして、疑いようもなく脆かった。
「違うでしょ。それだけで、大儀名分は成り立つものだよ。
オーリエイトのわがままは、人のためになるわがままだもん」
リオは手をのばして、池の水に指を浸した。
冷たさが指先に染み透る。
オーリエイトはリオの動作を眺めながらぽつんと聞いた。
「あなたは、誰かを死なせたことある?」
リオは一瞬黙った。
「どうして?」
「私は死なせたわ。大切な人たちを」
その口調から、彼女の根底にはその人達がいることを感じた。
「マーリン殿もその一人。私の、せい……」
闇を呑んだ者には、ひびが入る。
「……ごめんなさい。マーリン殿があんなふうに現れるとは思ってなかったから、
会って、昔を思い出したわ」
言ってオーリエイトは目を閉じた。
謝罪の言葉に対して、リオは許しの言葉を言わなかった。
彼女が望まないと知っていた。
リオはオーリエイトの肩に寄りかかった。
「あたしも、誰かのために戦えるかな」
割れそうなひびを埋めるように。
「その人のために、わがままになれるかな。オーリエイトみたいに」
オーリエイトは目を見開いてリオを見つめた。
どこかで夜鳴鳥がさえずっている。
風が吹いて木の葉を揺らした。
池の水が波を立てた。
「リオは優しいのね」
オーリエイトはそう呟いて微笑んだ。
リオの問いに答えが不要であることを、彼女は知っているのだろう。
ねえ、とリオはその微笑みに呼びかけた。
「オーリィって呼んでいい?」
にこりと笑ったオーリエイトは静かに言った。
「好きになさい」
リオは嬉しくなって立上がり、「行こう」と言ってオーリエイトに手を差し出した。
オーリエイトは、強くその手を握り返してくれた。
リディアは戸のほうにばかり目を走らせていた。
オーリエイトが飛び出していってから小半時経っているのだから、無理はない。
エリオットもアーウィンも、それぞれ思うことは多いらしく、
かつてない程、彼らは静かだった。
降魔戦争の話しも、オーリエイトの態度も、皆には十分に刺激が強かったのだ。
千年の封印、悪魔たちの活動、
オーリエイトを「グロリア」と呼んだマーリンという人物。
疑問は際限がなかったが、聞いてよい時分ではないと誰もが心得ていた。
見るに見かねたライリスは、ついにリディアに声をかけた。
「追いかけたかったんじゃなかったの?そんな辛そうな顔して」
リディアは少しだけライリスを見返し、俯いた。
「ええ、もちろんよ。でも、私じゃ駄目なの」
「なんで?」
アーウィンが脇から聞いてきた。
いつもと違って、静かな聞き方だ。
「私だと、どうしても慰めてばかりになるわ。
オーリィはそんなの欲しがらないもの」
お互いをよく知っているからこそ、追えない時がある。
「私にできることは、”何もしない”こと。待っていることだけなのよ」
返事ができずに、ライリスは黙った。
できることは、「何もしない」こと。
待っているだけ。
可憐な花のようだ。
咲いても人が、虫が、鳥が来るのを何もせずに待つしかない。
健気で儚くて。
ライリスが見つめていると、オーリエイトとリオが帰ってきた気配がした。
戸が開くと、ノアがいち早く駆けていき、二人まとめて抱き付いた。
抱き付かれた二人は顔を見合わせ、微笑むとリオがノアを脇に引き寄せた。
リディアも弾けたように立上がり、オーリエイトに駆け寄った。
いつもの微笑みをリディアは浮かべて。
「おかえり、オーリィ」
それで十分だった。
ライリスは一人そっと笑った。
リディアは何もしてないわけではない。
相手が躓いた時、ふらついた時、支えてはあげられなくても、
また相手が立上がった時に無言で手を差し延べているのだ。
また、リディアにそれができるように、
さりげなく退いたリオにライリスは気付いた。
リオはすごいな、とライリスは思った。
エリオットは無理に笑わなかった。
いつもの顔で「外は寒かったんじゃないか?火にあたりなよ」と言った。
アーウィンも笑いながら、「暖まったら、もう遅いから寝た方がいいよー」と言った。
皆、自分なりにオーリエイトを気遣っているのだ。
オーリエイトも何もなかったように振る舞っていた。
そこにあるのは、確実な……、絆。
相手を思いやり合って。
――― 人は、こんなにも美しい。
なのに、とライリスは己の手を見る。
それに引き換え、自分はどうだろう。
自分は何をした?
――― 何もしないで、待っているだけ。
彼らはちゃんと自分にできることをしているのに。
ずっと、逃げられるだけマシだと思っていた。
事実ではある。
闇を呑んだあの時、壊れなかったほうが奇跡だった。
でも。
ライリスは顔を上げて、いつの間にかこんなに増えていた仲間を見つめた。
彼らが気付かせてくれた。
逃げるほかにもできることがあると、今分かった。
――― 向かい合うことが、できる。
ぼくはわがままだったんだ、とライリスは思った。
いろいろと、わがままだったんだ。
ふと顔を上げると、金の瞳に出会った。
ライリスは微笑んだ。
「お疲れ」
そう、言えた。
彼女の心に、この言葉が響いたことが分かった。
金の瞳が、細められた――― 。
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