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ウィリアム・チェスターは日の暮れ行く窓の外を眺め、軽く溜め息をついて本を閉じた。 知りたい情報はどこを探してもない。 「この身に蓄積された、聖者としての勘と本能で探れってことですかねぇ……」 ぼんやりと呟く。 窓の外でカラスが枝から飛び立って、枝の雪がバラバラと落ちた。 真っ黒な影が、日の沈む西へと飛んでいく。 「…………」 悪魔のいる西へ、真っ黒なカラスが飛んでいくというのが何か象徴的に思えて、ウィリアムはふと嫌な予感がした。 彼には目の離せない少女がいた。 何でも受け入れて包んでしまって、目立つわけではなく平凡なはずなのに、自然と人を惹き付ける少女。 今まで調べていたのも彼女のことだ。 「……魔法を操る者、ですか。一人しかありえないんですけどね」 それはむしろ喜ぶべきことだ。 でも、だとするとなぜ女神は……クローゼラは、彼女を亡き者にしようと思うのだろう。
「……暁の空に星一つ」 暁は東の方からやってくる。 彼女も東の果てから来た。 「海に落ちて波ひとつ……」 彼女が波乱の元となるというのか。 それに、彼女にかけられた呪い。 もやもやと考えているうちに、赤い空はどんどん紺色に侵食されていった。 ウィリアムは立ち上がり、およそ聖者には似つかわしくない平凡な外套をまとうと、彼女のいる王宮に向かった。 彼女のことから頭が離れない。 傍にいかなければ、という気がしていた。
「お疲れ?」 ライリスが戻ると、いつも仲間が溜まり場にいている部屋ではアーウィンがエリオットとチェスをしていた。 「やっぱ上手くいかなかった?」 アーウィンに言われてライリスは苦笑した。 「……取り合ってくれなかったよ。神話は所詮神話だとしか思ってないみたい」 「まあな、オレも始めは信じらんなかったし。でもお前も本気になりゃいいのに。本気になったお前が負けたとこなんか見たことないぞ、オレは」 アーウィンが言った時、エルトがルークを動かした。 「ほら、アーウィン、これで道がひらけて後3手でチェックメイトだ」 あーあとアーウィンは残念そうな声を上げた。 エルトは満足そうで、すっきりしたのかライリスを振り返る。 「取り合ってくれないって、軍を動かす話?」 「うん」 「君がしっかりしてくれないと困るよ。ショルセンが動けば他国だって動くし、世界が団結しないと悪魔に勝てないのに」 「分かってるよ。でも、例の侯爵……ほら、ティスティーで、ぼくらが悪魔を呼んだって言いがかりでぼくらを捕まえた人が、逆恨みしてるのか頑固に反対しててね。悪魔が動いた証拠を出せと言われた」 「…………」 確かに、現時点では誰も知らないのだ。 悪魔たちは秘密裏に一つ一つ国を潰していくつもりらしい。……誰もがサタンの復活に気付かない、誰もが神話を遠い存在だと思っている、今のうちに。 「オーリエイトに証言してもらうのは?」 エルトが提案したが、ライリスはかぶりを振った。 「ダメ。誰も彼女が賢者の弟子だとは知らないし、信じないよ。見た目も若すぎて話に重みがなくなる」 「……じゃあ」 「あの人もダメ」 ライリスは険しい顔をして言った。 「どうしたってぼくに似過ぎてる。身の上を追求されたら大騒ぎだ。母さんのためにも良くない」 ヘイヴン氏のことだろう。
その時、どこかの部屋で声が上がった。 「リオ!?リオ!!」 リディアだ。 三人がびっくりしていると、リオが顔面蒼白で飛び込んできた。 明らかに様子がおかしい。 「オーリィは?」 「え……この奥にいると思うけと。ここ何日か調べ物をしてて……」 リオは最後まで聞かずに飛び出していってしまった。 いつも最後まで相手の話を聞くのに、リオらしくない。 するとリディアがやっと息を切らしながら追い付いてきて、三人を見つけると胸を押さえて立ち止まった。 「もう……リオって、足が速くて……」 エルトがたまらずに聞いた。 「一体何があったんだ?」 リディアは分からない、と首を横に振った。 「ノートみたいなのを握り締めて倒れていたの。私、びっくりしてリオの名前を叫んだらやっと目を覚まして。急に飛び起きたと思ったら、オーリィを探さなきゃって言ったそのまま……」 「追いかけよう」 ライリスが最初に動いた。 「安定剤が不安定になるなんて、よっぽどのことだ」
リオが部屋に飛び込んだ時、オーリエイトは窓辺に立って外を見ていた。 物思いに沈んだ風に伏せられていた目が、飛び込んできたリオに驚いたように見開かれる。 「リオ」 彼女は言った。 「ちょうど良かったわ。あなたは私が知っている人と良く似ているみたいなのだけれど……」 言いかけて、オーリエイトはリオの張りつめた表情に気付いたようだった。 「……どうしたの」 リオは乱れた息を整えようと必死になりながら言った。 「リリス」 「え?」 「リリス!オーリィ、知ってるんでしょう。エレインだよ!」 オーリエイトは驚きで黙り込んだ。 「……どうして」 「あのねオーリィ、あたし、お母さんのこと、少し思い出したの。お母さんはあたしと同じ銀色の髪をしてて……耳は尖ってて、目は赤かった」 リオは混乱しているらしいオーリエイトに、ノートを差し出した。 「このノート、サタンの妹のリリスの日記。魔法がかけられてて、ノートを開いて目を閉じると、日記の中身がリリスの視線で見れるの。……あたし、グロリアを見たよ」 オーリエイトは僅かに視線を泳がせた。 リオは続けた。 追いかけてきたリディアたちが戸口に立っていたが、リオはそれに気付かなかった。 「そもそもあたしがこのノートに興味を持ったのは、リリスがあたしのお母さんの名前だったからなの。でもお母さんはその名前が嫌いで、いつも周りにエレインって呼ばせてた」 オーリエイトはやっと飲み込めてきたらしく、掠れた声で聞いた。 「……リオ……あなたは、まさか……」 「……オーリィ、悪魔って長生き?千年も歳をとらずに生きれる?」 リオの質問に、オーリエイトはただ頷いた。どうしても信じられないというように問う。 「本当にエレインが……この日記を書いた人が、あなたのお母さんなの?」 「……だって日記の中で鏡を見たもん。お母さんだった。……サタンを『お兄様』って呼んでた」 オーリエイトは今や完全に理解していた。 「……リオ、あなたは……」 そしてリオも完全に理解していた。 「クローゼラがあたしを殺そうとしたのはそのためだったんだ……」 サタンに妹以外の血縁はいない。 リオは今、サタンの血を引く唯一の人物で、つまりはサタンの地位を脅かす可能性がある。 そして同時に、悪魔たちにとっては裏切り者の娘。 何もかもが、この血のせいだったのだ。 「……お母さんが殺されたのも、神父様が殺されたのも、村が焼かれたのも、皆に迷惑をかけるのも、あたしがサタンの姪だからなんだ……」 「リオ」 オーリエイトはリオの様子に気付いて声をかけた。 しかしリオは聞いていなかった。 「あたし、悪魔なんだ」 それゆえの魔性か。だから悪魔の性を持つのか。 全てを引き込み、壊して、そんな者が、こんな優しい人たちの傍にいるのか。 「……あたしは魔王の姪なんだよ!!」 リオは叫んだ。救いがたい叫びだった。 涙が溢れる。 リオはきびすを返して、一目散に部屋を走り出た。 「リオ!!」 オーリエイトが悲鳴を上げたが、リオの姿は既に消えていた。 ショックで呆然とたたずむ仲間達だけが残された。
壁にぶつかりそうになりながら走っていたリオは、角から出てきた誰かにぶつかりそうになって、避けようとしてバランスを崩した。 そのリオを受け止めてくれたのはウィルだった。 「リオ?どうしたのです?」 リオはその顔を見上げて泣きそうになった。 「ウ、ウィルっ……」 「またレインに何か言われたのですか?ですから気にする必要はないと……」 「違うのっ!!」 リオは叫んだ。 ウィルの腕を振り払って、二、三歩下がる。 「レインが正しかったの!あたしはこんな所にいられるような存在じゃないの!あたしがいるだけでダメなの……全部壊してしまうんだよ!」 「リオ、何が……」 「言いたくないっ!!」 ウィルは驚いたように目を見開き、それから焦った表情でリオに近づいた。 「リオ、ダメです、行かないでください」 「そうやって呪いをかけないで!」 「何も持たないあなたにこそ、いて欲しいんです!」 リオは黙った。 涙が溢れた。 ウィル、ウィル、ウィル。 心はその腕に飛び込んで行きたくてたまらないのに、それは禁忌なのだ。 地上で唯一の光の聖者と魔王の姪。 「……捨てたくたって、血は捨てられない」 リオは言って、ウィルの必死な視線を振り切るように、一番近くのドアから飛び出した。
雪の積もった裏庭を駆け抜け、守りの魔法の穴を無理やり通って抜け、グラティアの樹海に入った。 どこに向かっているのやら皆目見当もつかなかった。 喪失感と絶望とで、胸が潰れそうだ。 悲しみで空虚になっていく心の中に、真っ黒い澱んだ闇。絶望の闇。 どうしてこの世に生まれてきてしまったのだろうという後悔が津波のように押し寄せて来て、リオを溺れさせる。 目を閉じれば、さっき見た降魔戦争の情景が目に浮かぶ。 ぶつかり合う鎧、きらめく刀、血飛沫。 ときの声に混じる断末魔、悲鳴、誰かの慟哭。 あれを引き起こしたのは叔父なのだ。母の兄なのだ。 同じ血が、この体の中に流れているのだ。
どこまで走ったのか分からなくなり、足がもつれて、もう疲れて走れなくなっても歩き続けて、真っ暗な夜の森を進んだ。 やがてリオは歩くことすらできなくなって、木の幹に寄りかかり、そのままずるずると座り込んだ。 夜が更け始めていた。 そこでリオは思う存分泣いた。 泣いて泣いて、涙も出なくなると身動きもせずにぼうっとしていた。 草やぶが音をたてたのに気付いて、やっと目だけを動かしてそっちを見やったのは空が明るみ始めた頃だった。 一頭の魔物だった。 リオは鳥肌が立ったが、逃げなかった。 喰われるなら本望だわ、とぼんやり思う。 魔物は鼻をひくひくさせてリオに近づいてくる。 襲いたがっている風ではないことに、リオは気が付いた。 「殺すなら一思いに殺ってくれない?」 泣き過ぎて掠れてしまった声で話しかけると、魔物は可愛いとは言い難い目でリオを見下ろした。 狼に似た魔物だが、尾が三本ある。 鼻も短く牙が長い。 生臭い獣の吐息に顔をしかめていると、なんとそいつはリオに甘えるように体をすりよせて来た。 毛に覆われているように見えた表皮はなんと鱗に覆われていて、リオはぞっとして身を引いた。 そしてやっと、この魔物は自分の中の悪魔の……魔王の血をかぎ分けたのだと思い当たった。
その時、再び茂みがガサガサと音を立てた。 「フェンリル。何処だ」 現れたのは美しい容姿の女の悪魔だった。 キリッとした表情は軍人のようで、きつい表情がリオを見つけた途端に驚きに変わる。 「人間か?」 リオは何も言わなかった。 すぐ後からぞろぞろと、数人の悪魔が顔を出した。 「ベリアル様、いかがなされましたか」 「気にするな、ただの人の子だ。……フェンリル、食って構わぬよ」 しかしフェンリルと呼ばれた魔物は逆にリオを庇うように、ベリアルと呼ばれた悪魔に向かって牙を剥き、グルルと唸ってから、何かを訴えるように尻尾を振った。 ベリアルは眉を寄せた。 「どうした。……人の子、お前は何者だ」 リオはやはり何も言わなかった。 答えるのすら億劫だったし、説明したくもなかった。 代わりにフェンリルがベリアルに向かって数回吠えた。 途端に悪魔達がざわめき出した。 ベリアルも驚いた顔をし、リオに歩み寄るとくいっと顎を持ち上げてとっくりと観察した。 「呪い持ち、歳は13、4。髪はリリスと同じ銀、顔立ちもよく似ているな。間違いないのか、フェンリル?」 フェンリルは尻尾を振った。 ベリアルは信じられないような面持ちでリオを見つめた。 「リリスに娘がいたのか。お前、名は?」 リオはほとんど意識しないまま答えた。 「レオリア」 「レオリア?レオリア・ラッセンか?クローゼラが見つけ次第消せと言っていた子供ではないか」 ベリアルの表情ににんまりした笑みが広がった。 「どうりでな。クローゼラも姑息なことをしてくれる……お前、私と一緒に来い。よいな?」 リオは答えなかった。 ベリアルもリオの返事を待つつもりはないらしく、部下に短く命令した。 「連れていけ。メフィストフェレスにも見せてやろう」
両腕を抱えられて起こされても、リオは一切抗わなかった。
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