「女神様って……クローゼラ?」
「他に誰がいますか。早く外へ!」
「どこから出るのよ! 入口は一つしかないのに」
「ウィリアム?」
歌うような声がした。艶を含んだ玲瓏とした声。
「ウィリアム、いるの?」
「どうしよう!」
リオはウィルの腕にしがみついた。
「見つかっちゃう! あの人、あたしをこ、殺そうとしてるのに!」
そのとき、窓を誰かがコンコンと叩いた。見ると、アーウィンが笑いながら手を振っている。ジェスチャーで「ここ、開けて」と言っているのが分かった。ウィルが窓に向けて手を一振りすると、窓がガチャンと音を立てて開いた。窓枠を掴んで、アーウィンは顔を部屋に突っ込む。
「リオの回収に上がりましたー」
「回収って……」
リオが呆然としていると、ウィルに押し出された。
「行ってください」
「また会える?」
「ええ、近いうちに」
リオは窓に駆け寄ってよじ登った。アーウィンは器用に体制を変え、リオに背を向けた。
「ほれ、つかまって」
「つかまるって……どうするの? ここ4階だよ」
言いながらもリオは言われた通りアーウィンにしがみついた。
「へーきへーき」
アーウィンは言うや否や、窓を飛び下りた。部屋の中が見えなくなる刹那、ちらりと一瞬だけ長く美しい金の髪が見えた。
一瞬後には、体は宙に舞っていた。
リオは悲鳴を上げることもできずにアーウィンにしがみついていた。下にエルトの青い髪が見える。頼むぞ、と願いながら迫る地面を見つめた。激突する、と思った次の瞬間、リオとアーウィンは跳ね上がって再び宙に浮いていた。また落ちて、跳ね上がる。トランポリンの要領だ。
その次やっと、地面は普通の感触に戻ってリオは盛大に尻餅をついた。
「うぎゃっ!」
奇声を発して転がったリオに、軽業師のように空中で体制を変えて鮮やかに着地したアーウィンが、手を差し出した。
「面白い声だすなぁ」
「どうだっていいでしょ!」
エルトがそばで杖を掲げていた。
「回収完了か?」
「ま、ね。とりあえず隠れなきゃ。見られたかも」
アーウィンは言うや否や、リオを窓の下の軒下に押し込んだ。
同時に、上で窓が開く音がした。
「エリオット?」
クローゼラの声だ。
「今の魔法、どうしたの?」
リオはヒヤリとした。彼女にはエルトが魔法を使ったことが分かるのだ。
「オレがやってって頼んだんですよー」
アーウィンが無邪気に嘘をついた。
「地の力って便利ですねー。火はなかなか使い所がなくて」
「あら」
くすり、と上の女は笑った。色っぽくて愛らしい、まるでお姫様のような笑い方だ。
「そんなことないわ。あなたが来てくれて、とても助かってるのよ」
「ありがとうございます」
アーウィンは満面の笑みを浮かべた。
「ホント、余計な心配かけてごめんなさい。オレの好奇心のせいで」
「いいのよ」
クローゼラが言ったとき、リオは上から力が降ってくるのを感じた。
――
探られてる。はっきりとそう感じた。あの人は騙されるような人ではないのだ。魔法の波が押し寄せる。
視界が暗転した。魔法が手を延ばしてリオを探している。リオは必死にそれを振り払った。エルトとアーウィンにはクローゼラが魔法を使っていることが分からないようだ。降る、降る。
「……いや!」
リオは全身全霊で降ってくる魔法の波を拒絶した。するとそれは、リオの周りで、近付いてよいものかと、迷うようにおろおろし始めた。
遠くでウィルの声がした。
「クローゼラ様、人に見られますよ」
魔法の波は諦めたようにすぅっと消えた。
視界が元に戻って、リオは息を乱して立っていた。アーウィンが上に向かって手をヒラヒラと振っている。上で窓が閉まる音がした。二人はすぐ駆け寄ってきた。
「すぐ出よう。大丈夫? 何かあった?」
「クローゼラ……」
リオは顔を上げた。
「あの人、魔法であたしを探ってたよ」
二人は顔を見合わせた。
「探ってたって……分かったの?」
エルトに聞かれ、リオは頷いた。
「感じたの。魔法が降って来てた」
「なんだよ、オレがせっかく嘘ついたのに無駄骨じゃん」
アーウィンが口を尖らせる。エルトが疑るような目でアーウィンを見た。
「お前があんなに平然と嘘をつける奴だとは思わなかった」
アーウィンはけらけらと笑った。
「オレそんな正直もんじゃねぇよー」
「単純バカそうだからそう思ったんだよ」
「ひっでーの、オレだって頭あるさ。じゃなきゃ世渡なんぞできないよ。ってか、むしろ嘘をつけないのってエルトの方じゃねぇの?」
エルトは頭をつつかれ、顔を赤くした。
「うるさいな、正直なんだよ、僕は!」
「あの……漫才も良いんだけど、あたし忘れられてない?」
リオが声を掛けると、二人ははっとして気まずそうに目を逸らした。
「えと……見つかっちまったの?」
リオは首を横に振った。
「たぶん、大丈夫……」
それから、リオは二人を見上げた。
「どうしてここが分かったの? どうして助けにきてくれたの?」
「レインに聞いた」
エルトが言った。
「クローゼラがウィルの所に出掛けるって言うから、それなら君達の所にお忍びで遊びに行っても大丈夫だろうなと思ったんだ。そしたら君達はいなくて、レインが、オーリエイトが君を連れてウィルに会いに行ったって言うものだから」
アーウィンはエルトの説明に相づちを打ち、うんうんと頷いた。
「んで、そりゃヤバいなと思ってすっ飛んできたわけ」
「そうなの……ありがとうね、助けてくれて」
エルトは別に、と言って顔を逸らし、アーウィンはにぱっと笑ってどーいたしまして、と言った。この二人は反応が二分されるのが面白い。
「でもまあ、あの女のことだ、いつまた出てくるか分からないんだろ? 早く切り上げようぜ」
「待った」
エルトがアーウィンの襟首を掴んだ。
「僕らがここにいることは、もうクローゼラに知れてるんだ。挨拶をして帰らないと怪しまれる」
えーっとアーウィンは嫌そうな顔をした。
「んな面倒臭い……」
「文句言うな。リオは一人で帰れる?」
リオは答えた。
「後でオーリィが迎えに来るの」
「じゃ、大丈夫だね?」
「うん」
エルトはアーウィンの腕を掴んだ。
「ほら行くぞ」
あうぅーと情けない声を出して、アーウィンは引きずられていった。
リオは二人を見送り、ほうっと息をついた。まだ、絡み付こうとしてきた魔法の感触が体に残っている。
―― 気持ち悪い。
その時、ふわりと香が漂ってきた。白い腕が伸びて、後ろからリオの顎をくいと持ち上げる。同時に両手首を掴まれて羽交締めにされた。くすくす、と鈴を転がすような笑い声がした。
「油断は大敵なのよ、小鼠さん」
寒気が四肢を電撃のように駆け巡った。
―― クローゼラ。
「やっぱりいたのね。さっき魔法で探った時は見つからなかったから、おかしいと思っていたのよ」
真上を向けさせられたリオの目に、美しい女の顔が飛び込んできた。零れ落ちる緑の混じった金の髪、薄紅色の瞳。絵に描いたような美女が、妖艶な笑みを浮かべていた。
「あら、思ったより随分幼いのね」
リオは声が出せなかった。内側から胸を叩く心臓の音が、耳に響き渡る。
「魔力はないみたいだけど……ねぇ、小鼠さん?」
リオの銀の髪と灰色の目を「鼠色」にかけているのだと分かって、リオはむっとした。
「放……して!」
絞り出すように言うと、クローゼラは無邪気に微笑んだ。
「あら、ダメよ。巣穴がどこかを探らなくてはいけないもの」
顔が近付いて、鼻が触れそうになった。
「さっき、ウィリアムに会っていなかった?」
リオは黙っていた。どっちにしろ声を出すのは難しい体勢だった。
「……まあ、いいわ。一つだけ言っておくわね。―― ウィリアムは……あの子はわたくしのものよ」
美しい蜘蛛が、笑った。
「全ての意味で、わたくしのものよ。何の目的で近付いたのかは知らないけど、あの子を誑かさないで」
リオは少しの間きょとんとしていた。誑かす? あたしが、ウィルを?
「それとね、聖神殿に入り込んだ部外者は消すことになっているの」
リオはゾクッとした。
「殺すの?」
クローゼラは目を細めた。残酷な笑みだ。
「死で済むと思って? いいこと、消すのよ。跡形もなくあなたの存在を消去するの。何にも残らないように」
歌うように言う声には、笑みが含まれていた。
「さようなら、小鼠さん」
「待ちなさい」
聞き慣れた、冷静な声がした。クローゼラは顔を上げ、相手の姿を捉えて顔色を失った。
「あなた―― !」
オーリエイトは淡々と言葉を紡いだ。
「お久しぶり、クローゼラ」
「生きていたの!」
「知っていたくせに」
リオは隙を逃さず、スルリと逃げた。
「オーリィ!」
「無事?」
「一応」
クローゼラは息を乱しながら言った。
「そう、小鼠さんはグロリアの知り合いだったのね」
リオは瞠目した。
―― グロリア?
「今までどこに隠れていたの、グロリア」
「あなたこそ」
オーリエイトは落ち着き払っていた。
「教会を牛耳ってると聞いた時は驚いたわ。女神、なんて御大層な名付け方だこと。あなたの願いは分かるけど」
「……どこまで探ったの」
オーリエイトは冷笑を浮かべた。
「どうしたの、あなたらしくもない。そんなに私が怖い?」
「悔しいだけよ、意地悪」
ふ、とオーリエイトは突然悲しそうな顔になった。
「そういう素直な所、変わらないわね」
「……あなたのその冷静な所もね」
まるで、長年のライバル同士のような言葉。どういうことだろう。大昔に教会を乗っ取ったはずの女神が、こんなに若く美しいこと、その女神とオーリエイトが知り合いであること。女神は世襲制なのだろうか?わけがわからない。
「わたくしは負けないわよ!」
クローゼラが唸った。
「必ず! 必ずサタン様を復活させてみせる!」
「させない」
オーリエイトは言い切った。クローゼラは冷酷に笑った。
「あなたは今まで何をしてた? 本当に私を止めたかったらもっと早く来なければならなかったのに」
オーリエイトは黙っていた。
「もう遅いわ、グロリア。準備は整ったの。あとは聖者の魂だけ―― 」
リオは目を見開いて体を強張らせた。
「……ウィル」
クローゼラはさらに微笑んだ。
「もちろん、その前にあなた達を消してあげるわ。地獄を見る前にね。感謝してちょうだい」
杖を振り上げたのはオーリエイトとクローゼラが同時、しかしオーリエイトが勝った。
クローゼラが慌てて自分を庇った隙を見て、オーリエイトはリオの手を引き、風のように外に走り出た。
「運が良かったわ」
街の風景が霞んで見える中を走りながら、彼女が言った。
「クローゼラにしては珍しく、魔法が不発に終わったみたい」
そうだったのかと思いながら、リオは自分の手を見た。なんだかオーリエイトの魔法の影響か、ぴりぴりする。
リオは走りながらオーリエイトに聞いた。他のことも聞きたかったが、一番どうでも良さそうなのが口から出た。
「オーリィ、グロリアって?」
オーリエイトはちらりとリオを見たあと、ぶっきらぼうに言った。
「私の、―― 本名」
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