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 とりあえず、リタは正式な手順を踏んで、契約書を書いた。ジェレミーはちょっと面倒臭そうな顔をしたが、快くサインした。

 それからジェレミーが作戦タイムが欲しいと言ったので、リタは待機することになった。その間に魔女の部屋へ作業をしに行った。何も持ってきていないので、必要な薬やらを作らなければいけないのだ。部屋に辿り着くまで誰とも会わずに済んだのだが、部屋にいる間中、視線を感じた。妖精に見張られているようだ。リタは魔女の本領を発揮して、薬に没頭することで視線を無視した。

 無事に作り終えて、リタは抜き足さし足で最上階に向かう。キットは普通に歩いても足音が立たないのでリタの先を行った。
 慣れた道だ、とリタは思った。通い慣れた、扉の間と魔女の部屋を結ぶルート。契約書まで書いてしまった今になって、リタはまた不安になってきた。
本当にいいんだろうか。ようは加害者が被害者から依頼を受けたのだ。へんてこだ。そしてリタは師匠の言葉を思い出した。足元のキットに、囁くような小さな声で聞く。猫は耳が良いからこれでも聞こえるだろう。
「キット……キットは自分がどういう風に生きたいか、考えたことがあるか」
 キットはちらりとリタを見て言った。
「生きることに悩むのは人間くらいだぜ。猫は、生きられりゃそれでいいんだよ」
 リタは口をつぐんだ。
「聞くならサーに聞けよ。いっつも自信を持って生きてるって感じだぜ。俺よりかはよっぽどいいアドバイスがもらえるだろうさ」
 キットが言って、後ろ足で耳の後ろをポリポリかいた。
「リタはどうなんだ?」
 聞かれてリタは即答した。
「自分のことは自分で決める人になりたい」
「……昔と変わってないじゃんか」
「だって、実行できていないのが分かってしまった」
 なにかと縛られてしまって、あるいは自分で縛ってしまって、結局、命令に従うだけのリタから変わっていない現状。
「自由な、魔女になりたい。本当の意味で、無所属の魔女に」
 何にもとらわれず、自分の思い描く『魔女』に。
「……ジェレミーのように、生きてみたい」
 前向きに、何があっても不屈で、一つダメなら他の方法にすぐ移れる柔軟さがあって、何でも自分のやりたいようにできて。……とても、憧れた。
「じゃあ、そうすればいいだろ」
「言うほど簡単ではないのだよ」
 答えたのは、キットのものとは違う甲高い声だった。
「あのねぇリタ、そんなのは、やってみなきゃわからないだろう?」
 リタは慌てた拍子に、危うくせっかく造ったばかりの薬が入った瓶をひっくり返すところだった。
「ジ、ジェレミー、声をかけるときぐらい、唐突にしないでくれ」
 小さいのでよく見えなかったが、ジェレミーは苦笑したように見えた。扉の部屋の、ドアの枠にちょこんと立っていて、狭い歩幅をどうにか駆使してリタに近付いてくる。
「ノックしたって今の僕の力じゃ、到底聞こえるほど大きな音を立てられないよ。……声がしたから様子を見に来たら、随分シリアスに悩んでたみたいだけど」
 リタは黙り込んだ。
「僕には言えないこと?」
 ジェレミーがそう聞いてくる。
「そうではないが……」
「まあ、いいや。言いたくないなら言わなくていいけど、とりあえず大丈夫?」
「…………」
 優しい、と思う。強引で勝手な時も多いが、ジェレミーはいつでも優しかった。

「……ジェレミーに当主は似合わない」
 ジェレミーは目を瞬き、機嫌を損ねたような表情をした。
「それはまた唐突な言葉だね。なんでそう思うんだい?」
「純で、人が好すぎる。駆け引きには向かない」
「駆け引きなんていつだってしてるじゃないか。リタの言う『強引』さでいつも勝っているし」
「でも、私の罠に易々とはまった。人を信じすぎる」
 ジェレミーはリタより遥か下で、困ったように小さく首をかしげた。
「別に……リタを信じてたのは、ずっと一緒にいて、信じられると判断したからなんだけど。それに、リタが僕を閉じ込めに来るだろうとは思ってたし。あんな風に嘘をつかれて騙されるとは思わなかったけどね」
 リタは思わず足元のジェレミーを見つめた。自分の眉間にしわが寄るのが分かった。
「ではなぜ、何の対策もしなかったのだ」
「最後には帰ってくると思ったから」
 ジェレミーはあっさり言った。
「自分の意思じゃなくてフルーが無理やり連れてきたっていうのは計算外だったけどね」
「……何を根拠にそんなことを思えるのだ」
「んー、なんだろうね。予感ってやつかな」
 言ってニコリと笑った。
「僕はこれでも、ドロドロの家督争いを見てきた人間だよ。ニールの家で多少社交界のことも習った。父について仕事を2年手伝った。これでも僕が、根拠もなく人を信じてると思う?」
「だが……」
「初めて会う人は、とりあえず最初に一度信じてみることにしてるんだよ。相手の反応がもし損得勘定をする人の反応なら、僕はほどほどに付き合うことにしてる。リタは純粋な警戒心しか持っていないように見えた。だから信じたんだ」
 リタはぽかんとして言葉が出なかった。リタの予想よりはるかに、色々考えて色々見ているらしい。
「……じゃあ、」
 リタは恐る恐る、慎重に聞いてみた。
「ジェレミーは、どんな当主になりたい?」
「え? そうだねぇ、世の中が忘れつつある妖精たちを、本当の意味で守れる当主。それでいて、こっちが一方的に庇護するんじゃなくて、共存できる環境にしたい」
 相変わらずの少年の声で、ジェレミーは言った。そしてにこりと笑う。
「つまりは、皆仲良く、って精神かな。僕がその橋渡しになれればいいと思う。ほら、僕は基本的に楽しく賑やかに、皆と仲良くやっていきたいから」
 それが、ジェレミーの生き方なのだ、とリタは理解した。
「……その上自由気ままに暮らせれば嬉しい、と?」
「そうだね。自由と共存、っていうのが僕の理想の生き方。かつ、僕の描く当主像」
 師匠の言う通りだ。自分がどんな生き方をしたいのか、ジェレミーはよく知っていて、それに向かって努力することも知っている。本当にジェレミーが教えてくれたのは、その『生き方』だったのかもしれないとリタは思った。


「私は自分の理想の魔女になれるだろうか」
 リタは呟いた。自分の感情にも、あるべき魔女像にも縛られている自分。これで“自分で何でも決め、何にも縛られない、無所属の魔女”になれるだろうか。
「んー、リタの理想はちょっと抽象的だからなぁ。条件付けしないとあちこちに矛盾ができそうだけど」
 ジェレミーはのんきな声で言い、少し苦笑を混ぜてリタを見つめた。
「でも、報われるかどうかと努力をするかどうかはまた別の話じゃないか。リタは迷いを捨てるべきなんだ。リチャードとの契約を果たすのだってリタが決めたことだし、リタはちゃんと理想に向かって頑張ってる。それでいいんじゃないかな。リタは自信に欠けてるだけだよ」
「そう……だろうか」
「うん。“絶対やり遂げなきゃ”じゃなくて、“絶対やり遂げられるはず”と思えばいいんだよ。人生、何事も前向きに生きなきゃね」
 ジェレミーらしい考えに、リタは思わず微笑んだ。
「……なるほど」
 それにしても、ジェレミーは人の長所を見つけるのが上手だ。褒められることは恥ずかしいことこの上ないが、何度となくジェレミーの言葉はリタを救った。ジェレミーと一緒にいると、本当に気持ちが晴れやかになるな、とリタは気付いた。――他の誰とも違う、リタにとって唯一であり、特別な存在。手放したくはない。
「ならば、今回の仕事は自信を持ってよいのだね」
「どんどん持っちゃっていいよ。って、僕が自信を持ってくださいなんていうのは変だけど」
 自信か、とリタは思った。無所属であることに対する誇り、魔女であることに対する誇り。仕事に対する誇り。それを忘れてはいけないということなのだろう。
 そうだ、誇り。ずっとリタが持っていなくて、魔女になって初めて手に入れたものだ。自分が自分であることの誇りとして、リタは無所属を選んだのだ。今度こそ、自分できめた仕事に誇りを持って、やり遂げたい。
 リタは顔を上げた。胸につかえていたもやもやが取れていた。

 私は、無所属の魔女。

「迷いが吹っ切れた。ありがとう、ジェレミー」
 リタは言ってジェレミーに笑いかけた。ジェレミーは首をかしげた。リタを見上げて目を瞬き、少し新鮮なものを見たように興味深そうな表情をした。
「よく分かんないけど、それは良かった」
 そして笑う。
「リタが僕に笑いかけたの、初めてかも」
「……え……」
 そういえばジェレミーに笑いかけた記憶がほとんどない。自分はそんなにも無表情だったのかと改めて思った。いや、むしろ笑顔から縁遠かった気がする。リタはなんだか気恥ずかしくなって、思わず笑顔を引っ込めてそっぽを向いた。
「あ、もったいない、もっと笑ってくれてもいいじゃないか」
「珍しい動物でも見たように言うでないよ」
「普通の守銭奴に加えて、笑顔の守銭奴にまでならなくたっていいじゃないか」
「私は別に守銭奴ではないっ」
「えー」
 ジェレミーは楽しそうに笑った。
「嘘つき」
 リタは言葉を返せなくて、ただ必死に薬の整理をしていた。
「そんなことよりジェレミー、これからどうするのだ」
「あ、うん。そうだった、それを相談しようと思ってたんだった」
「…………」
 忘れていたのか。

 ジェレミーはキットに頼んで背中に乗せてもらい、机の上に上ってきた。これでリタとの視線が近くなる。
「リタの準備ができ次第、妖精界に行くことにしたよ」