39
お茶を運んできた女中がトレイごとすべてを床に落としてしまったのも、無理のない話だった。屋敷中の使用人たちが慕う坊ちゃまが妖精になってしまったショックから立ち直れていないと言うのに、その原因を作り出した張本人が、その坊ちゃまと仲良くお茶をしているのである。
「だっ……」
「あ、ミセス・ウェリントン、待って……」
「誰かあああぁぁぁぁ!! あの魔女が坊ちゃまをぉぉぉぉ!!!」
ジェレミーがとめようとしたが甲斐なく、女中は悲鳴を上げた。当の魔女はため息をついて、坊ちゃまことジェレミーに愚痴をこぼした。
「だから言ったのだ、絶対にここの召使たちに半殺しにされると」
「うーん……みんなのリタに対する理解が少なかったってことかなぁ」
「普通は理解できまい。ジェレミーの方が異常なのだよ」
「ええーっ」
女中は再度、驚きで目をぱちくりした。どうひいき目に見ても、魔女と坊ちゃまは仲が良さそうだった。
その時、どたどたと各々にフライパンやら箒やらを武器代わりに、召使たちが雪崩れ込んできた。先ほどの悲鳴を聞きつけて、すぐに駆けつけてきたのだろう、なんともジェレミーは愛されているものだ。
「坊ちゃまから離れろ、魔女!」
「リタさんなんでここにいるんですか!?」
ウィルキンズとシャーリーが、それぞれに別の驚き方をしながら叫んだ。そのほかにも、使用人たちは口々にそれぞれの叫び声を上げている。
「本当にあの魔女か?どの面下げて戻ってきたんだ!」
「叩きのめしましょう!坊ちゃまの仇!」
リタは包丁を握っている厨房係を見て、あー、と呟きをもらした。
「本当に半殺しに遭いそうなのだが、ジェレミーから説明してくれぬか?」
「いやあ、うん、説明するから、みんな落ち着いてくれないかなぁ」
リタのクールさとジェレミーのマイペースさに、今にもリタに殴りかからんとしていた使用人たちは、ジェレミーが事情を説明している間にだいぶ落ち着いた。
「ですが、坊ちゃま……」
しかしやはり、被害者が加害者に依頼をしたというのは、困惑させる話だったようで。
「この期に及んで、この魔女を信じるのですか……?」
こういう疑いの目が消えないのは、仕方のないことだった。ジェレミーは肩をすくめて言った。
「君たちは信じないの?」
「だって、その魔女は坊ちゃまを裏切りました」
「裏切られたと思っていた、僕たちが間違ってたんだよ。リタはリチャードと契約してたんだ。僕たちが助けてくれたら良いなぁって勝手に期待してただけじゃないか」
「しかし……まあ、それはそうですが」
ジェレミーは少年の声のままで、当主風情で彼らに言い聞かせるように言った。
「むしろ、リタは僕と仲良くなっても、契約を放棄しなかった。契約に忠実で、必ず仕事をやり遂げてくれる魔女だって証拠だよ。僕との契約だって、絶対やってくれる」
使用人たちはお互いに顔を見合わせ、うーむ、と唸った。ジェレミーはやれやれと肩をすくめ、リタに言った。
「リタ、自分がどんな魔女か、教えてあげたら? 少しは理解してもらおうよ」
リタはちょっとジェレミーを見やってから頷いた。たくさんしゃべるのは気が進まないが、ここでボコボコにされてしまっては、契約履行もなにもないのだ。
「皆さんには知っておいてもらいたいが、私はジェレミーを傷つけたいという欲求などない。リチャード・アベリストウィスとの契約がなければ、ジェレミーに協力していたかもしれない」
「……そうは言いますが、あなたはご自分がしたことを後悔なさってはいますまい」
ウィルキンズが皮肉を織り交ぜた声で冷ややかに言った。リタはウィルキンズを見返し、同じくらい冷ややかに言った。
「何を言うのだ。後悔はした。けれど、助ければよかったとも思っていない」
ウィルキンズは黙り、リタの言葉の意味を図りかねた様子で眉を寄せた。
「私は自分の意志で物事を決め、決めたことに責任を持つ魔女でありたい。契約を守るのが第一歩だと思っている。それは昔から変わらない」
だから、その理想に向かって努力する。くじけることがあっても、また目指して見せる。
「だからリチャード・アベリストウィスとの契約を守った。誰にも屈しない無所属であることに、私は誇りを持っているから。だからこそ、ジェレミーとの契約も果たしてみせる。ましてや、私がジェレミーを助けたいという気持ちを持っているのは確かなのだ。契約は守るという、魔女の誇りを貫きたい」
使用人たちは何も言わずにリタを見つめ、リタの言葉を吟味するように隣の仲間と視線を交し合った。沈黙を最初に破ったのはシャーリーだった。
「私はリタさんを信じます。ずっとずっと、悪い人ではないと思っていました。信じるに値する人だと思います」
「俺も信じます」
続いて、厨房で働いている青年が一人、声を上げた。
「魔女さんの主張はもっともだし、すごく誠実な気持ちで言ったと感じました。俺たちが勝手に自分たちの尺度で魔女さんを誤解していたような気がします。それに、現時点で坊ちゃまを助けられるのは魔女さんだけだし、賭けてみる価値はあるんじゃないかな」
「……私も信じましょう」
そう言ったのはなんとウィルキンズで、リタは思わずしげしげと彼を見つめてしまった。ウィルキンズは酷く不機嫌そうな顔でリタを見返した。
「何か不満でも?」
「あ、いえ、ありがとうございます」
リタが礼を言うと、ウィルキンズも少し面食らったような表情をして、視線を逸らした。ジェレミーは机の上でにこにこと嬉しそうに笑った。
「どう? まだ反対の人はいる?」
誰も手を上げなかった。一瞬の沈黙の後で、私も信じます、俺も、と声がぱらぱらと上がった。
「やったね、リタ」
ジェレミーはにこやかに言って、立ち上がった。
「さて、そうと決まったら行動開始だ。みんな、一緒に頑張ろう!」
そろった声で、彼らははい、と答えた。
「やっぱりリーダータイプなんだなぁ、サーは」
キットがジェレミーをみて呟いた。その隣で、フルーエリンが胸を張る。
「当たり前よ。あたしの子なんだから」
「……見た限りだとお前より父親に似たんじゃないかと思うんだけど」
「何ですってーっ」
キットはちらりとフルーエリンを見やって聞いた。
「ところでサーの母親、俺の近くにいて平気なのか」
「回りくどい呼び方しないでよ。平気よ、今のあんたがあたしを襲えるわけないもの。あたしがいないとあんたのご主人の仕事は終わらないだから」
「ほー、自信ありげなんだな」
キットはにやりと目を細めると、くわっと口を開けてすばやくフルーエリンに飛び掛った。フルーエリンは悲鳴を上げて飛び退くと、ものすごい速さの身のこなしでカーテンに上った。相当必死らしい。キットはカーテンの下まで追いかけて、上のほうにへばりついている黄緑色の生き物に呼びかけた。
「平気なんだろう、下りて来いよ」
「へっ、平気なのよ平気だけど誰が下りるもんですか! 魔女ーっ助けてー!」
「ちょ、おま……さんざんリタのこと非難しておいて助けを求めるのかよ」
リタは仕方なく顔を上げた。
「キット、彼女はこの家の守護妖精なのだよ。遊び相手なら庭のすずめでも追いかけていろ」
「ちぇっ、分かったよ」
言葉の割には未練もない様子であっさり諦め、きっとはカーテンの下を離れてリタの肩に飛び乗った。
「話し合いはどうなってんだ?」
「……女王にどういう魔法が効くのかまったく分からないのだ」
「僕もまさか女王様に魔法をかけたことはないしねぇ。フルー、ティターニア様ってどれくらい魔力が強いと思う?」
フルーエリンはずるずるとカーテンを滑り降りながら言った。
「さあ。あたしだってまさかティターニアに魔法をかけたりしないわよ。魔女と魔女の師匠を足してちょうど互角ぐらいじゃない?」
リタはキットと顔を見合わせ、ジェレミーを見つめて困った顔をした。王立魔女協会幹部であり、破天荒な活動をしてもお咎めは最低限という特典を勝ち取るほどの魔力を持つアシュレイと、そのアシュレイに初めて目をつけられ、自ら弟子にと請われたリタ。もちろん魔力の強さで言えばかなり上だ。
その二人が力を合わせて、やっと互角。キットが不安そうに口を開いた。
「こりゃ手強いな。リタ一人じゃちょっと無理がないか? もうサーが妖精になっちまってる以上、女王様がおとなしく要求を呑んでくれるとは思えないし」
「んー……やっぱりそうかなぁ。ねえリタ、お師匠さんに助力してもらったりとかはできないの?」
リタは気乗りがしなかった。
「さあ……聞くだけ聞いてみて損はないだろうが」
とりあえず事情を説明した手紙をカラスに持たせて飛ばしてみた。そしてなんと、その日のうちに返事が来た。
「そこで待機していろ」
あまりに短く簡潔な返事に、リタとキットは手紙を覗き込んだまま黙り込んでしまった。
「おい、リタ、嫌な予感がするんだけど」
「……私もだ」
「めっちゃくちゃノリノリなんじゃないのか、アシュレイ師匠。しかもそこで待機していろってことは……」
「……ああ、きっと今にも……」
言ったそばから、リタのいる魔女部屋にも玄関の呼び鈴が鳴らされた音が聞こえてきた。
「はやっ」
キットが飛び上がって叫び、リタも急いで部屋を出て、玄関まで駆けて行った。ちょうどウィルキンズが、一体誰なんだろうと訝りながら扉を開けているところだった。
扉の向こうにあったのは、深紅色。
「こんにちは。うちの弟子を探しに来たのだが」
つかみどころのない魔女笑いを浮かべ、鮮やかな色の瞳を細めたアシュレイがそこにいた。しかも、女版だった。
予想通りのことになった。