40
ウィルキンズは驚きのあまり、一瞬言葉をなくしたようだ。
「ああ……これは、アシュレイ殿」
「おや、私を覚えているのだね。うちの弟子はどこにいる?」
ウィルキンズが答えるより早く、アシュレイは自分でリタの姿を見つけた。
「そこにいたのか、この不肖の弟子め。帰ってこないからどうしたのかと思えば、早速別の仕事にありついたとか」
「師匠……すごく楽しそうだ」
「だって、こんな面白いことがあると思うか」
既にはぐらかす気もないらしく、もうアシュレイは満面にウキウキとした色を浮かべてリタを見下ろした。
「で、坊やはどこにいるのだ?」
「ジェレミーなら上に……」
しかしチャイムの音を聞いて下りてきていたらしい。
「ああ、リタのお師匠さん」
少年の声が足元から聞こえて、リタとアシュレイは顔を下に向けた。
「こんにちは。ジェレミー・アベリストウィス、今のあなたの弟子の雇い主です。覚えていますか?」
「ああ、やあ、こんにちは。覚えているよ」
事前に事情を書いてよこしてあったので、アシュレイは妖精のジェレミーに驚くこともしなかった。その代わりいっそう、曲線美の艶やかな体から色気が濃く出たように見えた。むしろアシュレイがわざと色濃く出したような。
「またお会いできて光栄です。ここにいらっしゃったということは、協力してくださると解釈してよろしいのでしょうか」
ジェレミーは言いながらも、アシュレイに見とれているようだ。そりゃあ、これだけの色気を出す美女を見過ごすなという方が無理なことだが、リタはもう気が気ではなかった。できることなら師匠の足を踏んづけたい。
「そうだねぇ、お前のようなかわいい坊やのためなら、少しは手を差し伸べても良いと思ったのだよ」
「……弟子をからかうためなら、ではないのか」
リタがぼそりと呟くと、逆にアシュレイに足を踏まれた。ジェレミーはその、師弟の攻防に気づかないようだ。
「それは、どうもありがとうございます」
心底嬉しそうに言って、リタを見上げた。
「優しい人じゃないか」
「…………」
何も言う気になれない。
しかしリタが心配したようにアシュレイがでしゃばって作戦会議を踏みにじるようなことはなかった。その代わり、リタとジェレミーから数歩離れたところで、片手にネコジャラシを持ってキットを弄びながら薄ら笑いを浮かべて二人を見つめていた。……正直、でしゃばってくれた方が気分が良かったかもしれない。
「こんな感じかな。あとは実際に行ってみないと分からない」
しばらくして、ジェレミーがそう言った。
リタはアシュレイを気にしつつ聞いた。
「リチャード・アベリストウィスのことはどうする気なのだ?」
「リチャードはとりあえず、僕らが帰ってくるまで屋敷に入れるなって言ってある。まあ、僕が妖精になったからって行動をおこすにしても、守護妖精が一緒にいないと当主とは認めてもらえないから、大丈夫だろうけど」
「では、フルーを連れてさっさと行こう。急いでおいて損はない」
「そうだね。アシュレイさん、すぐ出発してもよろしいですか?」
アシュレイは色っぽく笑って頷いた。
「もちろん、よいよ。かわいい坊や」
「気持ち悪いっ……」
思わずつぶやいたリタの頭を、アシュレイは力の加減もせずに容赦なく叩いた。
準備が整い、リタたちは最上階へと続く例の扉(今は石の瓦礫と化しているが)の前に集まった。
「頑張ってください、坊ちゃま」
「いつまででもお待ちしていますから」
「負けないでくださいね。妖精の女王だろうと、坊ちゃまはきっと勝てます」
ジェレミーへの激励の中、リタはシャーリーの声を聞いた。
「リタさん、頑張って!」
今になって、リタは自分が彼女にとても気にかけてもらっていたことを実感した。ジェレミーを除けば、この屋敷では一番リタと仲が良かった気がする。リタの中でシャーリーへの親しみと感謝が湧き上がった。まだ上手くできない微笑を浮かべて、シャーリーに向かって手を振った。彼女も嬉しそうに手を振り返してくれた。
こんな風に誰かと心を通わせる心地よさを教えてくれたのはジェレミーなんだろうな、とリタは考えた。
いよいよ出発だ。妖精界へと続く扉の前に立って、ジェレミーはリタの肩の上でリタに聞いた。
「覚悟はいい? 大丈夫?」
「……大丈夫……なはずだ。師匠もいるし」
「おやおや、あまり期待するでないよ」
アシュレイが声をかけてくる。
「私は危なくない間は手出しはせぬつもりだよ。契約をしたのはリタなのだし」
少し先行きが不安になる言葉だったが、今さら後にも引けず、リタは取っ手に手をかけた。
色のない世界。でも、今度は一人で入るわけじゃない。それに、ここにいるのは、一人で自分の殻に閉じこもって、自我を持たなかった小さな女の子ではないのだ。
一歩足を踏み出す。キットとアシュレイもすぐについてきて、振り返れば入り口は既に消えていた。ゆらゆらと独特の魔法が漂っていて、景色は目が慣れてくると森のようにも見えた。
妖精界にやってきた。
「女王の居場所を探さなきゃ。もっとも、直感のままに歩いていけばつくはずだよ。ティターニア様も僕を待っていると思うからね」
ジェレミーが言う。言われたとおりに歩き出してみた。
景色はくるくる変わった。水の中、崖っぷち、砂漠、ジャングル、滝つぼの前。
「歩き続けて。全部幻だよ。リタを迷わそうとしてるんだ」
ジェレミーがずいぶんとはっきりした声で言った。自信ありげだ。幼少期を過ごした世界だ、よく知っている場所なのだろう。
「師匠、ついてきていますか」
「ああ。余裕だ」
「キットは」
「なんとか……」
そして、恐れていたことが起きた。聞き覚えのある、くすくすという笑い声。まとわりつくように響いて、景色の中に思い出が混じり始める。
歯を食いしばったリタの頬を、ジェレミーがなでた。肩に、アシュレイの手が置かれた。
「リタ、負けるな」
キットも声をかけてくる。
「あんたがここで負けたら、何もかもパァよ」
フルーエリンも皮肉げな口調ながら、背中を押してくれる。こんなにもみんなに支えられている、と思うと背筋がしゃんとした。
私は、無所属の魔女。
悪夢を差し出しちゃいなよっ
おやつをちょうだい、その悪夢をボクたちに
「それはお前たちには属さない。私のものだ」
リタは宣言した。
「私は無所属の魔女だ。私のものは私のものだ。悪夢も、弱さも、強くなりたいという願いも。誰にだって、どこにだって属さない。私は私のものだ」
ふっ、と幻影が消え、くすくす笑いも消えた。
「よくやったねぇ、リタ」
くすりと肩のジェレミーが笑う。
「僕も同じことを言うよ。僕たちは誰も、お前たちに惑わされはしないよ。女王のもとへお帰り。お前たちの手には乗らない」
ふわ、と風が吹いた気がした。
「……ジェレミーも悪夢を見ていたのか」
「ん、まあね。大丈夫、僕も追い払った。師匠さんやキットは大丈夫?」
「私に悪夢などないよ」
アシュレイがつかみどころのない笑みを浮かべて言う。
「俺も別に大丈夫だよ。大した記憶じゃないし」
「フルーは?」
「長く生きてるから、逆に色々フラッシュバックしすぎて何がなんだかわかんなかったわよ。全然平気」
「なら良かった」
そして彼はリタの肩から飛び降りた。フルーエリンも飛び降りた。リタとアシュレイ、そしてキットは足を止めた。
目の前に広がるのは、美しく花で彩られた妖精の広場。花のように鮮やかで美しい妖精たちに囲まれて、ひときわ美しい妖精がこちらを見ていた。
背丈は人の膝頭くらい。思ったより大きい。ゆったりと流れる髪はくすぶる煙のように揺れ、ふっくらとした白い肌や赤い唇でまとめられた顔立ちは、ともすれば魅入られて魂を抜かれそうに美しかった。
「目を見ない方がいいよ」
ジェレミーはそう簡潔に言い、自分は平気そうにその妖精を見つめ、彼女に向かって歩を進めた。そして彼女の目の前で立ち止まり、明るく笑んだ。
「お久しぶりです、ティターニア女王」
そう言って、ジェレミーはその妖精に向かって頭を垂れた。