42


 はっと気が付くと、リタは喧騒の中にいた。行きかう人の波、波。新聞を売りながら歩く少年に、ガス灯の消灯を急ぐ消灯師、野菜を抱えて早足に歩くおばちゃん。そして突然現れた魔女に、驚いたように仰け反る者、そして顔をしかめる者がいた。
どう見ても人間界だ。
「どうなってるんだ?」
 声がして、リタは足元を見た。
「キットも来たのか」
「まあな。猫の手ぐらい借りてもいいってことだろ。それより、なんで人間界なんだ? サーは?」
「分からない」
 なぜ、ジェレミーと組んだはずなのにそのジェレミーがいないのだろう。首をかしげていると、リタの隣でぽんと音がして、先が赤くて全体的には黒くて高いものが現れた。
「おや?」
 それも困惑したような声を出した。
「手伝えと言われたはずなのだが、なぜ魔女同士を同じ場所に送るのだ?」
「師匠」
 現れたのはアシュレイだった。
「おかしいです。ジェレミーもリチャード・アベリストウィスもいない」
「そのようだな。それどころか、迷宮でもない」
 そう、ここは都市の真っ只中。もっと詳しく言うなら、都市の中でも少々下層の人たちが暮らす地域のようだ。
「この都市自体が迷宮なのだろうか……?」
「ありえるな」
 アシュレイはあまりこだわりなく言うと、杖でトン、と地面を叩いた。
「我がガーネットの精霊よ、なんじの力をお借りする。人探しの呪いの行使を命ずる。リチャード・アベリストウィスはどこにいる?」
 ぽわん、とアシュレイの足元の魔法陣が広がり、真ん中に浮かんだコンパスの針が10時の方向を向いた。
「ではリタ、私は行くぞ」
 言うなりアシュレイはほうきをぽんと出して跨った。
「都会で飛ぶのか」
 リタが聞くとアシュレイはふふんと鼻を鳴らす。
「そもそもこれが現実世界かどうかも分からぬのだから、構うまい。この辺に工場はないようだしな」
 それなら、とリタも箒を出して跨り、キットが慌ててリタの肩に飛び乗ったのを確認して地面を蹴った。
「なぜついてくる?」
 リタに気づいたアシュレイが少し呆れたように聞いた。
「私と師匠が同じところに飛ばされたのだから、ジェレミーとリチャード・アベリストウィスも同じところにいると思う。勝手に師匠についていくのは悪くないはずだ」
 アシュレイはやれやれと肩をすくめたが、ついてくるなとは言わなかった。
 確かに近くに工場はなく、胸が悪くなるような煙を吸い込む羽目にはならなかったが、人がたくさんいる街中の空を飛ぶのは少しヒヤヒヤする経験だった。アシュレイはこれが現実世界かどうかも分からない、といったが、リタにはどうしても本物に見えてしまう。そもそも、これだけのものを幻として作り出すのは、いくらティターニアでも無理なのではないだろうかと思った。でも、それならば“迷宮を抜ける”というのはどういうことなのだろう。この街が迷宮だというなら、上空から見ただけでも出口は街の境目を通過する道の数だけあるということになる。見たところ特に罠といったものがあるようにも見えないし、こんなの簡単すぎて試験にならないのではないだろうか。

 リタが色々と思案していたその時、前方にいたアシュレイがくるりと向きを変えてリタに向き合った。
「師匠?」
 リタも訝り空中で止る。
「悪いが気が変わった」
 アシュレイはそう言ってにやりと笑った。
「勝負は勝負だからな。一応、独立試験もかねていることだし。勝手についてくるのはやめてもらおう」
「はい? それはまた唐突な……うわっ」
 いきなりアシュレイが雷を打ってきたのでリタは慌てて避けた。
「あ、箒のしっぽが」
 キットが呟く。リタが振り返ってみると、燃えるのは避けられたが先が焦げて、薄く煙を上げていた。
「師匠……本当に箒が燃えていたら、私地面に落ちてあの世行きでしたよ」
「昇天、というくらいだからどうせまた飛べるだろう」
「……あのですね」
 笑えない冗談にリタが呆れていると、今度は風をおこされた。アシュレイが杖を振るのを見てリタは急いで壁の呪文を唱える。何とか間に合い、多少飛ばされたものの、箒から落ちずには済んだ。
「師匠、これでは対決というより決闘だ」
 リタが少々むっとして抗議したが、アシュレイは気にした様子もない。
「どちらにしろ勝負は勝負だ。防戦一方ではやられるぞ、リタ?」
「どうでもいいけどアシュレイ師匠、俺も巻き添えにするのは……ひぃぃ」
 キットの哀願もむなしく、いよいよアシュレイが本気を出し始めた。真っ黒い雲が、彼の掲げた杖を中心に集まってくる。中心に渦巻く雲の中には雷鳴が起きていた。
「我がガーネットの精霊よ、なんじの力をお借りする。嵐の呪いの行使を命ずる」
 アシュレイが呪文を唱え始めたのを聞いて危機感を感じたリタは携帯している薬を探った。石化薬は使えない、惚れ薬も使えない、というかここで使うとアシュレイを自分に惚れされるしか使い道がないので使いたくない、ジェレミーと出かけたときに買った琥珀はもっと使えない、ずいぶん前に作って余った気付け薬はさらに使えない。
 まて、石化薬だ。使えなくない。リタはビンを取り出すとそのビンの口に杖の先端のエメラルドを触れさせた。
「我がエメラルドの精霊よ、なんじの力をお借りする。霧散の呪いの行使を命ずる。あの雲と雷に石化の薬の効果を働かせよ」
 水滴の集まりである雲と雷という無形物に薬が効くのかどうか不安だったが、ちゃんと効いた。嵐の雲を形作っていた水滴は細かな粉塵と化してリタの顔に降り注ぎ、リタは思わず咳き込んだ。雷は細い筋になって下へと落ちていった。
「……ふむ、やるではないか。そこまで完成度の高い新薬を開発していたとは驚いた」
 アシュレイは笑い、次の手に出た。
「花は実に、雲は雨に、変化の方にてネズミになれ!」
 弟子をネズミに変える気か。リタは容赦のない攻撃に慌て、キットを掴むと放り投げた。
「おい待てリタ俺を犠牲にする気かー!」
 結果呪文が当たったのはキットで、ぽんと音がしたかと思うとリタの相棒はネズミになっていた。
「……ひどすぎるぜリタ」
「……すまない」
 でもおかげでリタはネズミにならずにすんだ。リタは杖を構えて叫んだ。
「とりあえず協力してくれ、キット。浮遊の術の行使を命ずる! キットをアシュレイ・ベッセマーの元へ!」
「何する気だリター!!」
 尾を引くような悲鳴を上げながらキットは吹っ飛び、アシュレイの襟元に飛び込んだ。
 小さなネズミが服の中に入り込んできてジタバタ駆け回っては当然集中力が切れる。アシュレイは慌て、服に手を入れてキットを捕まえようとしたが、捕まったらリタよりもっと酷いことをしそうなアシュレイなので、キットは余計に逃げ回った。
「こらっ、キット、出て来ぬと薬の材料にするぞ」
「し、師匠さん勘弁、俺のせいじゃないんだから!」
 二人が騒いでいる隙にリタは石化薬の瓶を手にアシュレイに詰め寄っていた。気付いたアシュレイがぴたりと動きを止める。キットがやっとのことで袖口から出てきた。
「これを箒に垂らせば師匠は真っ逆さまだ」
 リタが宣言する。アシュレイは不機嫌そうに呟いた。
「随分姑息な手ではないか? キットを投げて寄越すとは」
「師匠がフェア・プレーを説くのか」
「いや」
 アシュレイがにやりと魔女笑いをした。
「説かぬな」
 瞬間、アシュレイが杖をリタの瓶に突きつけた。
「粉砕の術を行使する!」
 ぱりんと音がして瓶が割られた。リタは慌てて瓶を手放した。自分が薬に触れたら自分が石になってしまう。 飛散した薬はアシュレイとリタの箒にかかった。手に握っていた木の柄の感触がひんやりとした石の感触になったかと思うと、次の瞬間には師弟とネズミで仲良く落下し始めていた。
「なんでそんな考えなしの反撃をするんだアシュレイ師匠ー!!」
 キットの悲鳴が響く。
「師匠、お互い浮遊術だ!」
 リタが怒鳴った。地面はすぐそこだ。しかしアシュレイは素っ気ない。
「嫌だね。自分で自分にかければよい」
「自分に魔法をかけて作用させるほどの魔力はありません!」
 自分で自分に魔法をかけるのにはかなりの魔力が必要なのだ。
「ならばお前の負けだ」
 アシュレイは無慈悲に言ってさっさと自分に魔法をかけた。リタはむっとしたが、迷っている暇はない。もう地面に激突する。
「我が身に浮遊の術を行使を命ずる! 私の体よ、浮け!」
 効果はあった。落下のスピードが緩やかになった。しかしやはり十分ではなくて、このままでは骨の一本や二本は確実に折りそうだ。

「リタ!」
 その時、真下の人物に気が付いた。
 甘い蜂蜜の色。
「ジェレミー!」
 人の大きさに戻ったらしい。その腕を広げたジェレミーの胸の中に、リタも手を広げて飛び込んだ。ジェレミーが少しよろめくが、ちゃんと受け止めてくれた。
「ああ、よかった。やっと会えた」
 本当に嬉しそうなその声を聞いて、リタは安心したあまり泣きそうになった。本当に怖かった。
「ジェレミー……」
「うん、僕だよ」
「うん」
 しかし、ほう、と興味深そうな表情で降りてきたアシュレイと恐ろしいくらいのしかめっ面をしているリチャードを見つけて、リタは慌ててジェレミーの腕を突き放した。
「あ、リタ酷い」
「こ、こんなことしている場合ではないではないか!」
「でも少しくらい感動の再会を……」
「少しは緊張感を持ってくれ」
 ジェレミーは懲りた様子もなく笑った。
 リタは仏頂面のままだったが、その笑顔がたまらなく嬉しかった。