夕虹を呼ぶ歌
序章



「夜の調べは祭りの合図 奏(かな)では導く案内人
 言の葉ひとつ唄に託して 舞うのは人の乱れ恋 」

 美しい歌声が、神殿に響いていた。旋律が歌声とからまって、天へと伸びる。それは人々の心の中にすんなりと入っていき、夢のような気持ちにさせた。
 ふわり、ふわりと音が舞って、人々の間に降りていく。月明りの下、カーテンの向こうには紛れもない少女の姿。人々の目に触れることなく、清さそのものの巫女がいる。

「一夜の夢に惑い誘われ 霞む幻は灯火の下
 花の色香に蝶は誘われ 蜜の在り処は夢心地 」

 舞台の周りには花が飾られている。どれもつぼみだったそれが、華やかに美しく花開いていた。さらには、その花からは、零れるように甘い香りが漂い、命にあふれているのが、触れられそうなほどはっきりと感じられる。
 少女は艶然と微笑み、さらに甘やかに歌った。透明な歌声は清らかでありながら、どこか色っぽく、とろけるような心地にさせられる。

「移ろう宵の一時に 夢幻の彩りに心恋い
 卯の花霞みにけぶる月 蛍火ともる宵の夢

 歌を歌を 想い届ける祝詞を
 祭りの灯に垣間見た 刹那の香を散らす花 」

 幻想的な光景だった。群青色の夜、青白い月が照らす下、ゆらゆらそよぐ満開の花々に囲まれて、少女は軽やかに、楽しげに、誘うように歌う。

「蛍火の舞う朧影(おぼろかげ) 花恋う蝶の乱れ恋
 夜の調べは祭りの合図 奏では導く案内人 」

 少女は歌っている。それがこの世のすべてに思えた―― 。


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「天下一品とは、このことね。歌は物じゃないけど」
 リーメルの笑顔に迎えられて、ティシェリは白い階段を下りた。
「私に言われても、分からないわ。普通の人の歌がどれくらい上手いのか、私は知らないのだし」
 ティシェリは歌声と変わらぬ玲瓏とした声で返した。

 舞台から離れると、一般人の立ち入りが禁止された神殿の奥はゆったりとした静けさに包まれていた。白い柱に金の装飾、高い天井、昼は暑さが厳しく夜は凍えるほどに冷える砂漠にあって、神殿だけは過ごしやすい、温かな風が流れていた。

 それにしても、とリーメルは言った。
「もうすぐ修行期間も終わりなのね。私はもう穢れた身だから、あなたにはついていけないし。もうすぐお別れだなんて悲しいわ」
 ティシェリは青緑色の目をすっと上げて、リーメルを見つめた。小さく頬を膨らませ、すねたように言う。
「時が来るまでは、別れなんて言葉は無しよ、リーメル」
 リーメルは笑った。
「はいはい。巫女様の仰せのままに」
 ティシェリも笑顔を返した。



 この街にはデイル、と名前がついている。一つの郷には必ず一人、土地を統べる神がいる。郷神と呼ばれるのがそれで、一つ一つの郷はそれぞれ独立しているのだ。
 そして、土地神には必ず一人、巫女がいる。祝福を受け、幼い頃から神の妻になるべく、清く清く育てられた少女が。

 花の郷、デイル。それがティシェリの郷だ。
 そして、巫女修行中であるティシェリは、郷神との婚礼を間近に控えていた。

 その夜、一年ぶりに旅芸人が郷を訪れたという知らせがあった。そして、この旅芸人の一人が、ティシェリの人生を大きく変えたのだった――。


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