夕虹を呼ぶ歌
終章


 ティシェリが目を開けた時、目の前には花畑が広がっていた。いつかの夜、エヴァイルに偶然会った場所だ。初めてエヴァイルが自分から会おうと言ってくれた場所。虹の話をした場所。ティシェリは大きく息を吸い込み、きびすを返すと走りだした。
 町の喧噪を抜けて、ティシェリは郷の出口を目指した。申し訳ないとは思う。今でも罪の意識がある。巫女としての全てを捨てること、みんなの期待を無下にしたこと、郷を捨てること、不安だった。けれど、やはり――。
 夕暮れに染まり始めた街は、新しい巫女の誕生を祝っての祝賀ムードだ。やはり申し訳ないけれど、彼らに必要なのも「巫女」であってティシェリではない。ある意味開き直りも甚だしいけれど、ティシェリはそれで満足だった。
 みんなが郷の外に降る雨のことを話している。エヴァイルとティシェリの雨だ。郷の出口が見える。息を切らし、転びそうになりながら、ティシェリは境界線を飛び越えた。

 はあ、と息を吐いて空を見上げる。地平線だけに縁取られた空。降りしきる優しい雨。ティシェリはゆっくりと歩きだした。

 商人たちの列から離れ、ティシェリは草が点々と生える広原に足を踏み入れた。誰もいない。少し不安になる。
「エヴァイル……?」
 まさかとは思うが、力を使い果たしてそのまま――なんてことはないだろうか。

 その時、柔らかく草をかき分ける足音がした。後ろからそっと、ティシェリの手を取る人がいる。
「はやかったね」
 泣きたいほどに嬉しい声だった。ティシェリは振り返り、彼のもう一方の手を取り、我慢できなくて、背伸びするとエヴァイルの唇に口づけをした。
「待ち切れなかったから、走ってきたのよ」
 エヴァイルは微笑み、今度はエヴァイルから口づけをしてきた。
「よかった。……本当のことを言うと、少し不安だった」
「私が来ないかもしれないって?」
「デイル神はとても強そうだったから」
「あら」
 ティシェリは小首を傾げる。カゴから出て、自分の止まり木を見つけた小鳥は雨に濡れそぼってもどこまでも生き生きしていた。微笑むエヴァイルの髪にもたくさん水滴が付いている。それが一際美しい。
「私は強い神様が好きだなんて、いつ言ったかしら」
「でも、すぐには応えてくれなかった」
 すねたように言うエヴァイルに、ティシェリは満面の笑みを向けた。ちょっぴり責めるようなその表情さえ、嬉しくてたまらなかった。
「ごめんなさい。裏切り者になるのが怖かったの」
「今はもう怖くない?」
「ないわ」
 だって、と言ってティシェリはクルリと回って見せた。服をすべった滴がぱっと散って夕日にキラリと光る。
「私、こんなに幸せだもの」
 エヴァイルは微笑み、手を差し出した。
「こっちに来て」
「不安?」
「うん。触れていたい」
 ティシェリは彼の手に自分の手を重ね、ひらりとエヴァイルの隣りに収まった。空を見上げれば、雲間から差した夕日が、鮮やかな橋を空に架けていた。
「エヴァイル!」
 ティシェリは声を上げた。
「もしかして、あれが虹?」
 エヴァイルも顔を上げ、顔を輝かせた。
「そう。一緒に見れたね」
「うん! すごい、私達を祝福してくれているみたい」
「ティシェリが呼んだんじゃないか」
「エヴァイルもよ」
 二人で手をつないで、歩いて行く。雨は降り続いていて、光が差したり陰ったりするのに合わせて虹も揺らめいていた。
「この先でルーベンたちが待ってるよ」
「リーメルも?」
 エヴァイルは頷く。
「どこか良い郷があったら、みんなで落ち着こう」
「音楽の郷が良いわ」
「そうだね」
 ティシェリは本当に嬉しくて、エヴァイルに告げた。
「エヴァイル」
「うん?」

「大好きよ」

 虹架かる夕暮れの中、エヴァイルは微笑んで、同じ言葉をティシェリに囁いた。


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