夕虹を呼ぶ歌 第二十話 ――燦々と輝く太陽の下で、少年は楽器の弦の上に弓を滑らせた。どこまでも広がる砂の大地は、地平線だけで空を縁取っている。 想うのは紺青の髪をした、小鳥のような少女の事ばかり。流れ出す音は彼女を求めて空へ舞い上がって行く。 神としての自分が消える前に、最後に持っている力の全てを発揮するつもりだった。少女を求めるためには、まだ神としての自分を捨てるわけにはいかなかったのだ。神としての力がないと、彼女を連れ出せない。しかしそれは、神と人との間をさまよう彼にとって、始めて“人”としてたった一人を求め、挑む勝負。ただ少女の姿を目に浮かべて、弓を踊らせ続ける。 共に生きようと。大空羽ばたこうと。籠から出て、自分を止まり木にするようにと。 そして、突き抜けるような青空に、ひとつ雲が漂った。 ******************** エヴァイルが、呼んでいる。はっきりその音を聞き取ったティシェリは歌を途切れさせた。 ……歌えない。どちらの音楽から歌を紡げば良いのか分からなくなりそうだった。エヴァイルのフィドルはまだ聞こえている。それはあまりに遠くで、本当なら聞こえるはずがないほどなのだが、それは楽隊の音楽よりはるかに強烈な力を持っていた。ティシェリは完璧にその力に押し流されてしまったのだ。こんなに強く、応えることを望む自分がいるから。 (エヴァイル……) そしてその途端、ふわりと目の前に蜃気楼が現れた。 「エヴァイル……!」 思わず呼ぶと、彼は目を開け、ティシェリを見つけて微笑んだ。フィドルは降ろさず、そのまま弾き続けている。フィドルを通して、郷神としての力を発揮させているのだろう。 楽隊の人たちも少女たちも、驚いて音楽や踊りをやめた。 「ティシェリ様、いけません!」 誰かが叫んだ。降神祭の時の一件でエヴァイルの顔を覚えているのだろう。しかしティシェリはただ、エヴァイルの微笑みを見つめて、そのフィドルの音を聞いていた。この音楽だ。これに合わせて、歌いたい。 そう思ったところで、別の蜃気楼がふわりと現れた。デイルだった。エヴァイルのそれよりずっとはっきりした幻で、彼はエヴァイルを見ながら不機嫌そうな顔をしていた。 「最後の最後まで邪魔をしにかかるか」 呟き、間近にいた楽隊の竪琴弾きに手を差し出した。 「勝負なら受けて立つ。……貸したまえ」 「は、はい」 少女は大慌てで竪琴をデイルに渡した。 それは本来あり得ない光景だった。2体の神が、一人の巫女を巡って勝負している。 フィドルの音と竪琴の音が、代わる代わる織り交じって小さく見えない火花を散らす。こんな音楽は聴いたことがなかった。 エヴァイルは迎えに来たよ、と言っている。自分のフィドルに応えてくれれば、道は開ける、と。一緒に行こうと言っている。……ティシェリと一緒に行きたいんだ、と。 デイルはひたすらエヴァイルを牽制し、その力が弱いのを感じ取って、ティシェリにその誘いが届かぬように妨害に努めていた。この巫女は自分のものだ、手出しは許さない、と。 ティシェリは目を閉じ、双方の音を聞いていた。繊細で静かで、包み込むようなエヴァイルのフィドル。力強く猛々しいデイルの竪琴。 そして、不意に気が付いた。エヴァイルが求めているのは、「ティシェリ」。彼はずっと、ありのままのティシェリを見ていた。デイルは一度もティシェリを「ティシェリ」として扱ったことがない。「私の巫女」と言っていた。巫女がいなければ神は神になれないのだ、と。 (ティシェリ) エヴァイルの声が胸に響いた。――届いた。 (僕の側にいて) ティシェリは目を閉じ、口を開いた。ここで歌う歌。最後の歌。終わりの歌。始まりの歌。 「夕日にきらめく水面に あなたを映す水鏡 触れた刹那に揺らめいて ただ聞こえるのは あなたの愛した風の音」 一度言葉を切ってふわりと裾をかえす。足を踏み出して、リズムを刻む。想うのはただ一人、歌を捧げる相手の少年。 「空が茜の色に染まって 月と入り日が代わる頃 夕立降りた草原に 旅人かなでる恋調べ」 音楽と、歌と、踊りと。祈りをのせた歌が天へとかえる。デイルが竪琴をやめたので、一層音の奏でる力が強くなった。二人の音楽はひとつに溶けて、おり合いながら祈りとなって天へ上る。 「仄明かりに立つ陽炎の中 あなたの紡いだ橋を渡して 旋律紡ぐ空の架け橋 私の元へ渡して 私の恋歌は旅人のため 愛しい旅人よ」 空へと手をかざせば、雲が集まってきていた。二度目の雨呼び。けれどこれは、デイルの力を借りたものではなくて。だから、郷の内側には雲が届かない。 「一筋糸引く照り雨は 源一つの天の涙 降りしは遍く分かれても 流るる先は水の原」 それでも大丈夫だろう、川は潤う。最後に郷に何か残していける。 「想い届く先の 愛しい旅人よ 陽炎、水鏡の向こうへ 夕虹渡して連れてって 愛しい旅人よ……」 歌い終えたと同時に、雨が降りだした。石畳を打つ雨音が、別れを惜しむように聞こえた。 ティシェリが振り返ると、みんな、夢を見ているような表情をしていた。ティシェリにも分かっていた。今まで歌った中でも、一番上手く歌えた。一番上手く踊れた。エヴァイルのフィドルも、今までで一番良かった。それは、巫女として、神として、最後の輝きの一瞬。 エヴァイルの蜃気楼は消えていた。もう力を使い果たしたのかもしれない。それならいい。これからは、彼は人だ。 デイルがティシェリを見つめていた。 「行くのか」 負けは分かっているのだろう。ティシェリはエヴァイルに応えたのだ。 「身勝手な巫女だとは分かっています」 ティシェリは言った。驚くほどに晴れやかな気持ちだった。今まであんなに泣いて、苦しんだのが嘘のようだ。辛かったのは当たり前だ。いるべきでない場所につなぎ止められて嬉しい小鳥はいない。 空を愛した。旅人に恋した。カゴを開けてくれる旅人がいた。飛び出すのは罪だと思っていた。でも、罪を背負ってでも飛びたいと思うならば。旅人を止まり木として、飛び回りたいと思うならば。そしてカゴの主が求めているのは「その」小鳥ではないとすれば。 「デイル様。巫女は私一人ではないのでしょう?」 ティシェリの問いにデイルは眉をひそめる。 「しかし、わたしはそなたを選んで――」 「私でなければならなかったのでしょうか」 デイルは不機嫌そうな顔になったが、答えなかった。 「お許しくださいませ」 ティシェリは微笑む。 「私は空を飛びたいのです」 ティシェリはきびすを返す。何をすべきかは不思議と分かっていた。迷いはなかった。身につけていた装飾品をしゃらしゃらと外していく。驚く皆の前で上着も脱ぎ捨てる。――ああ、やっと羽を広げられる。 ティシェリは歌った。初めてエヴァイルに会った時に、彼が弾いていた曲だ。歌詞はつけない。必要ない。 ティシェリが歌いながらクルリと回った瞬間に、彼女はその場から消えていた。 |