27:代役


 結局ユルバンの風邪は、本番までに治らなかった。こんなにまともに風邪を引いたのは久々だ、と本人が言うくらいだ。体調はもういいのだが、声がガラガラなのだ。治りかけに、喉にきたらしい。しかも咳が酷かった。学校には行けそうだがとても劇には出れそうにない。
 朝、登校前にそう通告を受けて、ポプリは頬を引きつらせた。
「ユルバン……あんたじゃなければ、誰が私の相手役をやるの」
「先生次第でしょ……ゲホッ」
「ばかばかばかー!! あんたじゃなかったら、私絶対劇でとちるー!! 嫌よ、お願いだから今から四時間以内にその咳治して!」
「咳止めの呪文だってそんなに効力があるわけじゃ……ゲホゲホ……ないんだから! ポプリ、痛い」
 ぽこぽこ叩いていたら、二階から降りてきたロゼットにたしなめられた。
「病み上がりになんてことしてんだ、お前は」
「ゲホっ……別に君に心配してもらわなくてもいいよっ」
 ユルバンはロゼットを睨みつけてそういった。口の端を上げてロゼットは皮肉気に笑う。
「そりゃ、悪かったね。お貴族様は人の好意も無碍にするのか。そこのお姫様でさえ礼は言ったぜ」
「礼?」
 ユルバンが驚いたようにポプリを見やり、ポプリは一生懸命ジェスチャーでなんでもない、とユルバンに伝えつつロゼットを殺してやるという視線で睨んだ。にやにやしてやがる。このう。
「詳しいことが知りたいなら教えてやるよ?」
 ロゼットはしかし、逆にポプリを挑発するように、にこやかに笑ってユルバンに言った。ユルバンは殺気立っているポプリにちらりと視線をよこして、はっきりと断った。
「やめとく」
「あ、そ。じゃあさっさとそのお姫様をなだめるんだな。遅れそうになったら先にゴンドラを出発させるぜ」
 ロゼットは言って、二人の横を通ってゴンドラ乗り場に行ってしまった。ポプリはこぶしを握り締めていたが、かろうじてその横顔に鉄拳をお見舞いするのを理性で抑えた。
「……きっと私の勘違いだったんだわ。あいつが良い奴かもしれないって」
「は?」
「何でもない!」
 ポプリは言い捨てて、それから頭を抱えた。
「……私、どうしよう」
「素直に先生に、その恋愛免疫皆無症を報告したら?」
「そんな恥ずかしいこと、できるわけないでしょう!」
 ふとポプリはひらめいて、ポンと手を打った。
「分かったわ、女の子にやってもらえばいいのよ! そしたら私、きっと平気だわ」
「……ゼウスを?」
 ユルバンがすかさず、疑わしそうな顔で言う。それもそうだ。男性的で、大神で、女たらしのゼウスを女の子がやるだなんて、いくらなんでも色々なものを間違えすぎている。
「じゃあどうするのよーっ」
 ポプリはもう泣きそうになってきた。
「私まで劇を休んだら、アステリアにまで代役を立てなきゃいけなくなるじゃないのよ!」
「アステリアの代役ならすぐ見つかりそうじゃない? ゲホゲホ……コレットがずっとポプリの練習に付き合っていたんだろう?」
「嫌。それは嫌。だって、それってつまり、コレットがゼウス役の子に迫られている場面を見なきゃいけなくなるんでしょう」
「……理由はそれなの?」
「他に何があるのよ」
 断言したポプリにユルバンはがっくりと肩を落とした。
「ゲホッ……とりあえず、学校行こうよ。僕はもう万策尽きた」
 ポプリはしばらく頬を膨らませていたが、コレットが、遅くなってごめん、と言いながら階段を駆け下りてきたので、仕方なく重い腰を上げた。
 コレットはユルバンに気遣わしげに声をかけていた。
「ユルバン、喉は大丈夫?」
「この……ゲホゲホ……通り、まだ咳が残ってるんだ。うつるからあんまり近づかないほうが……ゲホッ……いいよ」
「無理しちゃ駄目よ。……でも、劇には出られないのね。代役はどうするの?」
「それが目下の大問題になってるところだよ……」

 結局四人揃って、祭りの飾り付けで彩られたシュラールに向かうことになった。シュラールの正門のアーチをくぐり、校内に入るとお祭りの空気を肌に感じた。残念ながら、ポプリには、その空気に高揚感やわくわくを感じ取る気力は無かったが。
 午前は通常どおりの授業だったのだが、生徒たちはちっとも身が入っていなかった。教授達も半分諦め顔で、途中から雑談になる先生もいた。(エルヴェ先生がそうだった)
 午前の授業終了を告げる鐘が鳴ると同時に、生徒たちは歓声を上げ、ポプリはカバンを掴んで、ユルバンの首根っこを引っかけると聖劇を統括する先生のところまで走った。

「え、ユルバンくん出られないの?」
 教授は目を瞬いた。返事の代わりにユルバンがゲホゲホと咳き込む。さっきポプリが襟元を掴んで連行して来たせいもあるだろうが。
「すみまっ……ゲホゲホ」
 謝ろうとしてさらに咳き込んでいる。教授も「何とか頑張ってくれないかなー」と書いてあった表情を慌てて消した。
「ああ、いや、うん、確かにその咳じゃ、無理だな。でも代役がなぁ」
 ポプリはドキリとした。アポロン役が一人二役とか、そういう話になってしまうと困る。ここはやはり、恥ずかしい弱点をカミングアウトした方がいいんだろうか。
「まあ、とりあえずゼウスの台詞を全部覚えてる人がいないかどうか探してみるよ……」
 先生が言ったので、ポプリは思いついて、言ってみた。
「せ、先生? あの、いっそ女の子でもいいんじゃないでしょうか。この際劇をやり遂げる方が大事ですから」
「そうだねー……考えてみるよ」
 まあこの先生の返事はいつもそうなのだが、やる気が無さそうだ。最後の望みをそれに託して、ポプリは悶々としつつ、先生の研究室を後にした。
 コレットが二人を心配して待ってくれていた。
「どうにかなりそう?」
「わからない……どうしよう、コレット」
 泣きつくと、コレットはお姉さんぶって、ポプリの頭をよしよしと撫でた。
「慌てない、慌てない。ポーちゃん、慌てないで考えて」
「むぅ……」
「ユルバンの他に、緊張しなくて済む男の人はいないの?」
「…………」
 いることはいる。オリヴィエ先生だ。……父や叔父もまあ当然緊張しなくて済む相手だがあらゆる理由で却下だ。しかしオリヴィエ先生は今すぐに学院に来れる距離にはいないし、短時間で台詞を覚えるのは無理というものだ。
「いない……なぁ……」
「アロワは?」
「却下」
「リシャール。ミシェル。フランシス」
「全員却下」
 今度はコレットがむぅ、と呟いた。
「難しいね」
「どうしたんだ、君達」
 突然かかった声に三人が振り向く。エルヴェ教授がそこにいた。……ロゼットを、引き連れて。ポプリはすんでのところで「げっ」と言うのをこらえた。
「先生」
 何も知らないコレットが事情を説明する。
「ユルバンが風邪を引いて聖劇に出られなくて……今、代役を捜しているんです」
「へぇ、聖劇の代役ね。それはまたタイミングが最悪だね。しかもユルバンくん、君はゼウスの役じゃなかったか?」
 容赦ない物言いにユルバンは引きつった笑みを浮かべた。返事をしようとしてまた咳き込み、さすがのエルヴェ先生も言う。
「失礼。その様子じゃ確かに酷そうだな。ロゼットくん、君はどうだ? 演舞の前だし時間のブッキングもないんだろう?」
 いきなりロゼットと来た。ポプリは恥も外聞もなく即答してしまった。
「却下!」
 エルヴェ教授は目を丸くした。
「これはまた、アステリア様は手厳しいな」
「アステリアじゃありません」
 なってたまるか。
「今は色々考慮している場合じゃないんじゃないか? 聖劇といえばアステリア祭の要だ。学院には要人も学者もたくさん来るんだぞ」
「分かってますけど、ロゼットは却下です」
「それは聖劇の監督の先生にお伺いする」
 エルヴェ教授は容赦がなかった。それ以上我儘を言えずにポプリは少し唇をとがらせた。そして教授の後ろで困惑しているロゼットを睨みつけた。
「あんた、台詞覚えてるの?」
「まあ、それは。一回最初から最後まで練習見てたし」
「ゼウスは一番台詞が多いわよ。とちったら大恥よ」
「まあ、それでも代役がいないよりかはマシかもな」
 ロゼットがそう言って肩をすくめると、エルヴェ教授はよし、と言ってロゼットの手を引いた。
「さっそくお伺いを立てに行こう。本番前に一回リハーサルする余裕ぐらいはあるかもしれない」
 去って行く二人の後ろ姿を呆然と見つめて、ポプリは動けなかった。よりによって、ロゼット。……よりによって。
 コレットは「あらあら」というような困ったような表情をポプリに向け、ユルバンが咳き込みながら言った。
「ドンマイ、ポプリ」
「……逃げ出したりあいつに殴りかかったりしないように善処するわ」
 ポプリはがっくりと肩を落とした。

 衣装を変えてきたロゼットを見て、ポプリは再び馬子にも衣装という言葉を脳裏に浮かべた。意外と言えば意外だったし、こんな感じかもしれない、とも思う。ゼウスが若かったらこんな感じかもしれない。つまりは、ゼウス役という雰囲気に似合っていた。なんだか無性に悔しい気がした。
 台詞は、本人の申告どおり、本当に覚えていた。一度通し稽古を見ただけで覚えたのか、こいつは。残念ながら、むしろ問題なのはやはりポプリのほうだった。口説かれる場面に差し掛かるだけで背筋の毛がよだつ。リハーサルでは口元をひくひくさせて、顔を真っ赤にしただけで済んだが、我ながらポプリは相当な気力で拳を繰り出すのを我慢していたので、本番でどうなるか分かったものではなかった。
「相当疲れたんじゃないか?」
 リハーサルの後、もうすぐに本番だったため、ろくに休息も取れないまま劇場に向かっている時に、ロゼットはからかうように笑いながらポプリにそう言った。ポプリはロゼットをにらみつけながら唇の片端を上げて笑った。
「いいのかしら? 実技演舞の前に私に足を踏まれても」
 ロゼットはさっとポプリから離れた。
「お前、猛獣だな」
「あんたが目の前で赤い布をひらひら振っているからよ」
「俺は闘牛士か。お前は牛か」
「角でつつかれて死ねばいいわ」
 ロゼットは呆れたような顔をした。
「発作の時に一瞬可愛気が出たと思ったらすぐ元通りか。せっかく助けてやったのに」
「またそれ? ほんとに恩着せがましいわね」
「恩を仇で返すよりマシだろう」
「恩着せがましい人には恩なんて返す気がなくなるわ。仇で返してちょうどいいくらいよ」
 ロゼットはむっとしたような顔をすると、とびっきり嫌がらせをするように言った。
「ポーちゃん」
「……」
 ポプリがにらみつけると、ロゼットはもう一度、今度は明らかに挑発するように笑いながら言った。
「ポー、オー、ちゃん」
「呼ばないでって言ってるでしょ!」
 ポプリの拳はついにロゼットを捕らえた。顎に命中だった。

 舞台袖で悶絶しているロゼットを、どうしたんだろうという目で見ながら、監督の先生が入ってきた。
「ポプリ、準備は?」
「万端です」
 にっこり、と笑ってポプリは答えた。ロゼットは無視する。先生はよし、と頷いて、それから気遣わしげにロゼットを見た。
「ロゼット君? 君は、準備できているのか?」
「……台詞を噛んだら、そいつに責任を取ってもらってください」
 顎を押さえながらロゼットはわずかに涙目でそう答えた。そして、ポプリとロゼットはお互いに睨み合った。火花が散りそうだった。

 開演の時間が迫っていた。古代ギリシャの衣装に身を包み、舞台袖で待つ。
 会場の明かりが落された。ロゼットが舞台に出る。ポプリは出番が少し後なので舞台袖で彼を見ていた。演技は上手い。なんでもそつなくこなすやつだ。むかつく。
 ふと視線を移動したポプリは、客席に目を向けて、凍りついた。
「嘘……」
 さあっと血が引くのを感じた。予想だにしない人だった。直前にロゼットとやりあって、多少高ぶっていた気持ちが一気に降下する。
 ――父が、いた。