26:揺らめき


 目覚めて最初にポプリが気付いたのは、既に日が暮れているという事実だった。隣を見たら、ロゼットが本を読んでいた。ぎょっとして身を起こすと、ロゼットがこちらを見た。
「起きた?」
「……なんで」
「病人を置いて帰るわけにもいかないだろ。安心しろ、先生には急用で帰ったって言ってあるし、ユルバンとコレットにも連絡しておいたから、心配をかけてるってことはないぜ」
「わ、私が発作を起こしたって事は……!!」
「言ってない。練習が長引くから帰りが遅くなるとだけ」
 ポプリはほっと息を吐いた。後でつじつま合わせに奔走しそうだが、発作を起こしたことが誰にも知られていないというのは良かった。
『本当に、もう大丈夫なの?』
 パルファンがポプリの足をつつく。ポプリは初めて彼がいることに気付いた。
「パルファン……いたの」
『いたの、って。酷いよ、ぼくはポプリの守護獣なのに』
「だって、私がここにいるってどうやって分かったの」
『なんか嫌な予感がしたから匂いをたどってたら、ロゼットの鷲が迎えに来てくれた』
「ロゼットの、鷲?」
「その話か。俺がヴァンに頼んで探してきてもらった」
 隣で聞いていたロゼットはそう言った。確かにその肩には、彼の守護獣が、あいかわらず人を馬鹿にしたような目でこちらを見ていた。ロゼットは本をかばんにしまって、ポプリの方に振り向いた。
「お前、もう歩けるか? なんなら、また負ぶってやろうか」
 負ぶわれたことを思い出したポプリは一気に頬が熱くなるのを感じた。
「馬鹿にしないで! 歩けるわよ!」
「その威勢なら大丈夫そうだな」
 あっさり言って、ロゼットは伸びをした。
「ジャケット」
「え?」
「俺のジャケット」
 そういえば、ポプリはロゼットのジャケットを布団代わりにしている。ポプリは無言でジャケットを掴むとロゼットに突き出した。彼は呆れたような顔をする。
「その態度はないだろう」
「貸していただいてありがとうございますわ、ロゼット」
 ポプリはわざとらしくしなを作ってそう言った。が、すぐに自己嫌悪になった。これだけ助けてもらっておいて、本当に、これはない。
「……ありがとう」
 ぽつり、と今度は本音で言った。ロゼットは少しの間、黙っていた。それから、小さく頷く。
「うん」
 貸しにして押し付けるわけではない、ただただ、ポプリの感謝を受け入れるだけの返事だった。
「帰ろう」
 ロゼットがそういって歩き出したので、ポプリも歩き出す。空には月がかかっていた。

 帰りのゴンドラに乗っている間、ポプリは空を見ていた。雲ひとつない夜空に、きらきらと星が輝いている。思えば発作の起きる日の夜は晴れる日が多かった、とポプリは思った。
「……ねえ」
 ポプリは口を開いた。
「どうして発作を起こしたこと、内緒にしてくれたの」
「隠したがってたろ」
 ロゼットはあっさりと答える。
「わざと知らせて、私を困らせてやろうとか、思わなかったの」
「そういうところで困らせたって意味がないだろう。俺は別に、お前を敵だと思ってるわけじゃない」
「……敵じゃないなら、何なのよ」
 ロゼットは答えなかった。わざと言わないというよりも、自分自身、答えが分からないというような沈黙だ。
「敵ではなくても、助ける義理のある相手じゃないでしょう。助けたりして、変よ。星の羅針盤まで使って」
「……見てたのか」
「そこまで人事不省になっていたわけじゃないわ」
 ロゼットはしまった、というような表情で頭を掻く。
「……言っておくけど、保管場所は移したぜ」
「でしょうね」
 ロゼットがそこまで頭が働かない人間ではないということは良く知っているつもりだ。
「でも、本当にどうして。あなたは私をどうしたいの。どういうつもりで取引したの」
「助けたのがそんなに変か? 助ける義理がない、って言うなら、お前は俺が倒れてたら放っておくのか」
「……自分では、助けないと思うわ」
 放っておきはしないだろうが、自分で助けるのは悔しいから、他の人に頼むと思う。
「助けられるのが自分しかいなかったら? お前は、放っておくタイプには見えないな」
「なんで言い切るのよ」
「違うのか?」
 違わないけど。ポプリはそっぽを向いた。
「……あなた嫌い」
「そりゃ、残念だ」
 ポプリの呟きに、ロゼットは笑ってそう答えただけだった。笑って、答えて、すぐに進行方向に目を戻す。暗闇の中で、ゴンドラを運ぶイルカの魔法だけが青色に淡く光っていた。ロゼットは、おまけのようにつけたした。
「まあ、そんなの最初から知ってたけど」
 違う。ポプリは思った。違う、違う。それは違う。なんだか、泣き叫びたかった。どうせこれだけたくさん、ロゼットの目の前では失敗してきた。弱いところばかり見せてきた。やられっぱなしだった。泣き叫んだって、彼は構わないだろう。
 それでもポプリはその気持ちを飲み込む。隣にいるのが、羅針盤の持ち主なのだとしっかり自分に言い聞かせた。
「……あなたは、羅針盤をどうする気なの」
「教えるわけないだろう」
 答えはいつもの通りだったが、ロゼットの声は、馬鹿にしたような声ではなかった。そして付け足す。
「言っとくけど、壊すってのは、本当に選択肢の一つだからな」
「教えるわけないって言ったのに」
「これだけは教えておくさ。取引に関わるからな」
「…………」
 ポプリは黙っていた。いろんなことが頭をよぎった。星の一族のこと。ロゼットがティエリー教授の授業で見せた魔法のこと。エルヴェ教授の研究室にある古代文献のこと。銅の時代が終わること。アステリアのこと。神殿にあったカヴァルカンティの紋章のこと。ロゼットの机の上にあった標徴物のリストのこと。父のこと。父の手紙のこと。オリヴィエ先生のこと。母のこと。コレットのこと。青薔薇のこと。その守り人である自分の役目のこと。ロゼットの復讐のこと。ロゼットが会いたがっている人のこと。
 空を見上げれば、女神が司る星々が瞬いている。あの星々を操る、星の羅針盤のことを思った。
 がむしゃらに頑張り続けていれば、幸せは手に入るのだろうか。少なくとも、この歪んだ歯車を直せるだろうか。幸せを手に入れる代わりに、なにか大切なものを失くしたりしてしまわないだろうか。その大切なものと幸せとを、天秤にかけられるだろうか。
(何を迷っているのかしら、私)
 ポプリは心の中で呟いた。ロゼットに初めて会った時にあった、確たる信念が、時々揺らぎそうになる。……ロゼットが、こうやって意外な行動を起こすたびに。

「前から言いたかったんだけどさ」
 ロゼットは突然言い出した。
「俺のこと、普通に名前で呼べよ。いつもあんたとかしか呼ばないだろ」
「そうだったかしら」
「そうだよ」
「……あんただって、私のことあまり名前で呼ばないじゃない」
「そうか?」
「そうよ」
 ポプリは水路の水面に視線を移した。
「まあ、名前を呼んで欲しいとは思っていないけれど」
「じゃあ、ポー」
「……は?」
 ポプリは思わず固まって、なぜ驚かれたのか分かっていない顔をしている相手を穴が開くほど見つめた。
「ダメか? コレットはいつもポーちゃん、って呼んでるじゃないか。あだななんだろ?」
「次に呼んだら殺す!」
 ポプリは真っ赤になってロゼットを睨みつけた。水路に蹴落としたい。
「やってみな」
 ロゼットはにやり、と笑った。
「可愛いじゃんか、なんで怒るんだよ。」
「なんか嫌。すごく嫌。吐き気がするほど嫌。あんただから嫌」
「最後の一言が聞き捨てならないな」
「他にどんな理由があると思ってるのよ!」
「知るか」
「とにかくそんな呼び方しないで。あれはコレット専用!」
「じゃあ俺専用にも何か作って」
 ポプリはロゼットを見つめた。鮮やかな深い青の瞳は、楽しそうなきらめきを湛えてこちらを見ている。……楽しんでる? ロゼットが、自分といて? いやいや、現実逃避をしている場合じゃない。彼は今なんと言った。
 「俺専用」?

「一億年早い!」
ポプリは怒りにまかせてロゼットを突き飛ばした。
「うわっ!」
 ゴンドラのへりにつかまって落ちずに済んだロゼットはさすがに怒った顔をした。
「お前な……! 恩人に向かって!」
「あら、恩着せがましい。最初から恩を着せるのが目的だったわけ?」
 ロゼットはひくりと口元を引きつらせると、有りったけの恨みがこもった声で言った。
「ポーちゃん」
「呼ばないでって言ってるでしょ!」
「ポーちゃんってばかわいいねぇ、照れちゃって」
「こっ……心に一ミリグラムもないこと言ってるんじゃないわよ!!」
「可愛いねぇ」
 ぷちりとポプリの中の何かが切れた。
「ロゼット……絶対にあんたの腹の中を探り出してやるわ」
「それは楽しそうだな」
 再び蹴落とされそうになったロゼットの抗議の声と、ポプリが怒鳴り返す声が、静かな夜の水路の静寂を乱した。


「……眉なんか寄せてどうしたの」
 リビングで頬杖をついて考え事をしてたら、お茶を淹れに来たユルバンが不安そうに聞いてきた。
「怒ってないわよ」
「あ、そうなんだ」
「悩んでるのよ」
「よかった」
「良くないわよ。……ていうか、ユルバン、風邪は?」
「見ての通り治ってないよ」
 言いながらユルバンは鼻をすすった。ひどい鼻声だ。
「ずっと寝てるのも嫌だから、ちょっとお茶を淹れに来た。ポプリも飲む?」
「いいわよ、私が淹れるわ。あんたはちょっと座ってなさい。その様子じゃコップを三つぐらいは割りそうだわ」
「コレットじゃあるまいし、そんなドジはしないよ」
 言いながらも、ユルバンはポプリに言われたとおりに座った。ポプリはせっせと棚からカップを取り出して、ポットに茶葉を入れる。
「ローズヒップが良い? カモミールが良い?」
「……ローズヒップ」
「わかったわ」
 かちゃかちゃと茶器を鳴らしているポプリを見つめながら、ユルバンが聞いた。
「悩んでるって、何について?」
「私って、結構きつい性格だと思うのよね」
「……は?」
 ユルバンはきょとんとした。
「正直に言って。そうでしょ?」
「いや、その……別に?」
「何よその間。正直に言ったら怒られるからやっぱりやめとこうって思ったでしょ」
「違う違う」
 ユルバンはあわてたように両手を振って否定した。
「急に何を言い出すのかと思って。どうしたの?」
「うん……たぶん、普通の人はあまり近づきたがらないわね、って思って。私、自分からいろんな人を拒絶してきたのかしら、って」
 ユルバンは黙った。少し、戸惑いと哀れみの混じった目でこちらを見ている。
「そうだね……ポプリは、やっぱり、バラだと思うな」
「……とげが、ある?」
「そう。せっかく綺麗で気高いのに、触れようとする人たちを刺してしまう感じ」
 ポプリは「綺麗で気高い」の言葉に少し固まって頬を染めた。とっさに反応ができなかったが、とりあえず黙っておいた。バラか。どこまでもバラなのか。バラのポプリなのか。

「もうすぐ、アステリア祭だね」
 ユルバンが言った。
「王宮には帰らないんだっけ」
「帰らないわよ。ユルバンは?」
「ポプリが残るなら、残るよ」
「……なにも私のために、色々犠牲にする必要はないのよ?」
「僕が勝手にそうするんだから、ポプリが責任を感じる必要はないよ」
 ポプリはユルバンを見つめた。
「神様に戦いを挑んでいるのに、あなたは怖くないの?」
「……それより、一人の女の子の方が、僕は心配」
 ポプリは黙って、目の前のティーカップの取っ手をいじくった。ローズヒップティーの香りが鼻をくすぐる。
「ごめんね」
「ポプリがそんなことを言わないでよ。……きついポプリのほうが、ポプリらしいと思うよ」
「うん」
 紅茶の水面が揺れている。
 バラ。ローズ。ロゼット。あいつもバラなのかしら、とポプリはぼんやりと思った。
 だとしたら。

 あいつは本当に敵なんだろうか。私は、あいつを誤解しているんじゃないだろうか。
 ロゼットとの一件のことも、彼が星の羅針盤を使ったことも、ポプリは結局ユルバンに話さなかった。