01-06

 私だってかなり動揺したが、なぜか自然と体が動いた。
 二人を引き裂きたくない。私は大丈夫。強いから。傷ついたってきっと大丈夫なんだから。それよりも傷つける方が気分が悪いから。自分だけが負う傷なら、私、責任持てるから。だから、今はそれよりも。
「彰、茉莉ちゃん追いかけて」
「で、でも、涼乃……」
「彰は優しすぎるの! 私はもう大丈夫だから、自分のこと考えて。私を優先しなくていい」
 通じたのだろう、彰が迷ったのは一瞬だった。おお、体育会系なだけある。足の速いこと。茉莉ちゃんなんて動揺でふらふらだったからすぐ追いつけそうだなあれは。
 取り残された私は、結局彰の真意がつかめなかったことに気づいた。溜め息が出る。こりゃ、他人を優先して自分を犠牲にしているのはどうやら私の方らしい。
「どうするかなあ……」
 家に帰ってまず泣いとくか。「自分のことを優先しろ」と言ったら彰は迷わず茉莉ちゃんを追いかけた。なんで私が茉莉ちゃんを追いかけるイコール彰のためだと分かったと思ってるんだろうな。今はそれを考える余裕が彰にはないんだろうけど。いいね、愛だね。頑張れ二人とも。ふっ、健気じゃないのワタシ。素晴らしき自己犠牲。
 ああだめだ、また泣けてきた。
「彰……」
 さよならしなきゃ。
 ――バイバイ、私の片思い。

「涼乃?」
 突然呼ばれて驚いた。一瞬彰かと思った。けれど声は彰が声変わりする前と同じくらい高いし、黒い陰はいくぶん小柄だ。おいおい、あんたそりゃ不法侵入ですよ。よく門番のおじさんに見つからなかったね。まあ、怪しい中年男じゃなくて小学生だから気に留めなかったのかもしれないけど。
 朔良はパタパタと私の傍に駆け寄ってきた。
「よかったぁ。下駄箱覗いたらまだくつがあったからさ」
「わざわざ探しに?」
「遅いんだもん。帰ってくんの、ずっと見張ってたのにさ。兄貴の真意報告しようかと思って。でも……今は泣いとく?」
「……うん」
 朔良も優しい。
「肩貸そうか?」
「……いい。小学生に甘えるなんて馬鹿みたいだもん」
「もう小学生っての禁止」
 朔良は怒ったように言い、無理やり私の頭を抱き込んだ。
「なにやってんの」
「涼乃ってこの方が泣き止み易いだろ」
 あんたも知ってたんかい。なんだか恥ずかしくなってきた。
「……でも朔良、この体勢辛いよ。私の方が身長あるんだから」
「泣き顔見られるよりマシだろ。泣いてんの、すっごい不細工」
「それは好きな子にかける言葉ですか」
「応えてくれない罰だよ」
「……慰めてんの、責めてんの」
「今は黙って泣いてろ」
 ……大人ぶったまねして。思ったが、人肌が心地よくて抱え込まれたままになった。ほっとする。
 しかしこの子はここまで探しに来てくれたのか。家からずっと。学校まで。
「ありがとう、朔良……」
「ん」
 お陰で心の傷の広がり具合はだいぶ抑えられそうだよ。

 私が泣き止んで、帰ろうか、と言った時には日はほとんど暮れかかっていた。小学生に夜道を歩かせて申し訳ありません、おばさん。昨日も夜道を自転車で送ってもらったけど。これでは年上の示しがつかないな。
 そして、それは私も朔良も無言でとても静かだったけど、どこかすっきりと心地の良い帰り道だった。


***************


 朔良は私の家に上がり込んで来た。慰め続行する気なんだろうか。あるいは彰のことで何か話があるのかも、と思って聞いてみた。
「もうついてくれてなくてもいいよ。透子がいるし。それとも、彰の真意報告する?」
「ん。今はいいや。もうちょい後で。今兄貴、多分新しい家庭教師とご対面中だし」
「家庭教師?」
 金持ちだなおい。
「桐ケ丘目指すっていうからさ。塾よりカテキョがいいんじゃないかってうちの両親が」
「へえ……女の人? 男の人?」
「アツトとかいう名前だったから男じゃないの」
「ふうん……彰、茉莉ちゃんとうまくいったのかな」
「まつり?」
「瀬川さんのこと。……彰は茉莉ちゃんを追いかけてったの」
「ふうん……だから上手くいったのか、ってことか」
 そして朔良は顔を上げて、
「いかなかったらどうすんの」
 不機嫌に言った。
「より戻すの?」
「よりって……そこまでの関係じゃ無かったし。そもそも茉莉ちゃんに後ろめたくてできないよ」
 すると朔良は安心した顔をした。おい、ついさっき慰めてくれたくせに根本的な立ち直り要素は否定するんだね。素直すぎる。

「朔良、なんか飲む?」
 冷蔵庫を開けて聞いたら朔良が駆けて来た。
「勝手にいれるからいいよ。涼乃は座ってて。俺がやる」
「そ、そう? じゃ、お言葉に甘えて」
「何がいい?」
「麦茶でよろしく」
「涼乃って一年中麦茶だよね」
「……冬は玄米茶も飲むよ」
「お茶好きだよね」
「あんたもでしょ」
「うん、まあ」
 朔良はじょぼじょぼとお茶をコップ2杯注ぎ、私のところへ持って来た。二人で並んでソファに座る。お茶を一気にコップ半分も飲んだ朔良を横目に見て苦笑しながら私も冷たいそれをすすり、ふと気が付いて言った。
「朔良、うちに来るの結構久しぶりじゃない?」
「うん。半年ぐらいぶりかな」
「え、もうそんなに?」
「だって涼乃、中学入ってから全然かまってくれないじゃん」
 ものすごく不満そうだった。仕方ないじゃん、中学ってのは忙しいんだぞ若者よ。中間や期末に比べたら小学校のテストなんてクイズだクイズ。人間関係だって複雑になるし。男女関係も複雑になるし。
「しかも塾にまで行き始めるしさ。カーテン開けて隣りを見ても真っ暗なの、見るの結構寂しいんだよ?」
「……勉強するなって言いたいのかいキミは」
「そうじゃないけど」
 むすーっと頬を膨らます。やっぱり男としてというより弟としてしか見れないと思う。明らかに子供だもん、朔良。
「だって、なんかさ、女の子って高学年になるとガラッと変わるんだなぁって。それまで男の子とも遊んでたのに女の子としか遊ばなくなったり」
「なに、親に捨てられた子供の気分?」
「なんで親子なんだよ。遠距離恋愛とか言えないの?」
 そっちの方がわからんって。……あ、私のこと言ってるのか。え、ちょっと待って。
「そんな昔から?」
「は?」
「そんな昔から私のこと?」
 朔良はぱちくりと目を瞬き、あっさり頷いた。
「そうだけど?」
 あっさり言うなよっ! 小学生のくせにそういうこと言うのに抵抗はないのだろうか。
「……そこ、赤くなるとこ?」
 朔良が顔をのぞき込んで来たので私は思わず全速力で離れた。
「近づくなっ!」
「……酷っ」
「い、いや、その、あの」
 朔良は笑っていた。楽しそうというか嬉しそうというか。あれ、傷ついてもいないし怒ってもいない?
「涼乃、沸騰したやかんちゃん」
 何かと思えばそんなことを言うから、クッションを投げ付けてやった。
「からかうなっ。 どうせモテませんよそういうのに免疫ないですよ透子とは違うもん!」
「い、痛いよ涼乃……」

「ただいまー涼乃ちゃん。あれ? 朔良くんも来てたんだぁ」
 ちょうどその時透子が入って来た。私たちの様子を見て、目を瞬いた後、小首を傾げて一言。
「痴話喧嘩中?」
「なんでそうなんのっ!」
 私が思わず怒鳴ったが、透子はえへへと笑っただけだった。可愛いと笑って許されるからいいよね、まったく。
 透子はカバンをひょいといすに乗せると、朔良にあいさつをした。
「久しぶりだねぇ、朔良くん。うちにくるのは半年ぶりくらいじゃない?」
「うん。久しぶり。透子お姉ちゃん」
 朔良はヒラヒラと手を振った。透子は朔良の前まで来ると、腰をかがめて朔良を覗き込んだ。
「うんうんっ、大きくなったねぇ朔良くん。いい男になりそう。透子が保証する!」
「本当? 透子お姉ちゃんの見立てなら俺信じちゃうよ?」
「信じて信じてっ。だから好きな子がいたら遠慮なくアタックしちゃってOKだからねー」
「透子!」
 ふふ、と透子は私に笑いかけた。
「こういう時は笑顔であしらえるようにならないといい女にはなれないよ、涼乃ちゃん」
 自分だってまだ高一のくせして何をマセたことを。私の周りには年齢を背伸びしたがる人がやたら多いようだ。

「ところで涼乃ちゃん、朔良くんがうちに来たってことは何か進展でもあったの? ……あれ? 涼乃ちゃん、もしかして泣いた?」
 っす、鋭い……。透子ってば顕微鏡並の目をしてる。私は泣いてもその跡が残りにくい方なのに。私が否定しないでいると透子はクルリと朔良の方を向いた。
「朔良くん?」
「お、俺じゃないよ。俺は涼乃を泣かせないもん」
「うーん、そっか、どっちかっていうと泣かせられる方だったもんね」
「透子」
「透子お姉ちゃん……」
 私と朔良はそろって、一人で納得して手を打っている透子に控えめな抗議の声を上げた。
 透子はすぐにまたくるりと朔良に向かって振り向いた。
「ってことは、彰くん? 彰くんだよね、彰くんしかいないよね」
 それはもう質問じゃなくて確認だよね。いやまあ実際彰だから否定できないけど。否定できないけどでも、否定しないと彰が危ない気がするんだよだって透子ー、なんでキッチンに向かってるのー包丁取り出さないでねー!!
「ととと透子早まらないで!」
「刺しにいくわけじゃないよ」
「じゃあライターで焼きに? 火にかけて熱くなった鍋で殴りに?」
「ああ、そういう手もあったねぇ」
「透子ー!!」
「冗談だよ冗談」
 少々信用に欠ける爽やかな笑顔で透子は言い、冷蔵庫を開けると残っていた麦茶を一気飲みした。そ、それだけか。よかった。
 透子は空になったボトルをリサイクル用ゴミ箱に投げ入れた。
「ふう。これで充電完了。さてっ、気合も入ったからいこっか」
「ど、どこへ?」
「お隣りに決まってるでしょう。彰くんを絞めに行くの」
 ひいぃぃー!! 素手!! 道具ナシ!!
「やめてよっ、私が手を引いたの! これでこの一件は楽着なの!」
「涼乃ちゃんが傷ついたままじゃ楽着なんかじゃないもん。朔良くん、いこ。ちゃんと彰くん本人から涼乃ちゃんに説明してもらわないと透子の腹の虫がおさまらないもん」
 おさまらない腹の虫は透子のだけでしょうが。なんでうちの姉はこんなにエネルギッシュなんだろう。

 この行動力の半分でもあったら私は早いうちに彰に気持ちを告げられたんだろうかとちょっぴり情けなくなりながら、年少者組の私と朔良は、ノンストップ全開の透子を引き留められるわけもなく、お隣りへと突撃訪問することになった。