02-06


 そして怒涛の塾週間。そこまできつくはないけど。学校よりかはマシ。授業の濃さが違うだけ。ただ、塾でやることの方が学校よりも進んでいるので、ついていくのはちょっと大変なのだ。しかもその、全く新しい内容を学校の倍の速度で進めるからね。数学なんて酷い。概念と公式を説明したらちゃっちゃと演習。習うより慣れろってか。
 実はちょっと透子を頼りにしていたのだが、役に立たないことが判明した。頭は良いけど勉強しないので成績はお世辞にも良いとは言えない透子なのだ。これは私も透子を見習ってお隣り突撃だな。

 おずおずとお邪魔しにきた私を、彰も壱原先生も歓迎してくれた。塾は正午に終わるから、夕方から授業の彰とスケジュールが合うのが嬉しい。まあ、二人が歓迎してくれたのは、授業代代わりにお母さんが出張先から買って帰ってきたフランス菓子を持って行ったからかもしれないけれど。今度からお母さんにはお土産増量を頼まないと。賄賂はしっかり用意しておくに限る。
 彰の勉強は私よりちょっと遅れている感じだったが、みっちり教えてくれる人がいる分、私のように曖昧な理解しかできないということはないようだった。おこぼれにあずからせていただきます。
 私が来ているので朔良までお邪魔して来た。高校受験の内容だぞ。分かるのか。
「分かるわけないじゃん」
「……分かったら天才だよ」
 まあごもっともで。
「でも英語はちょっとわかるよ。俺、小さいころからよく英語の教育番組とか見てたし」
「じゃあこれ読める?」
 どうだ中学の勉強の難しさを思い知れ、小学生よ。
「えーと……クリスは道の反対側の……なんとか店に入った」
 げ、ほとんど読めてるじゃん。壱原先生が(今は先生で良いよね)言った。
「それは"grocery store"で一単語だよ。食料品店って意味」
「へぇ、そういう意味だったんだ」
 っていうか。
「道の反対側とか分かるんだね、朔良。あんた実は頭良いんじゃ」
「実はって何だよ。俺だって将来桐ケ丘目指すもん」
「今から志が高いねー……」
「涼乃が行けなかったら俺もやめとくけど」
 あんたね。
「さりげなくプレッシャーかけたな、生意気な」
 朔良はニヤリと笑う。
「頑張ってね、涼乃?」
「頑張ってるっつーの」
 そして私は次の問題に取り掛かった。長文読解。分からない単語が多すぎる。
「先生、分からない単語が多すぎて文脈判断もできない時ってどうすればいいんですか」
「それはもう……どうしようも。後の文章から何言ってたのか推測できる時もあるけどね。単語は大事だよ。文法はみんなできるから、単語力で差がつくんだ。あと、国語力もね。和訳とかだと、意味は分かるのにそれを日本語に変換できない子とかいるから」
「うげー……」
 彰が呻いた。同じ心境だ。壱原先生が苦笑する。
「まだ二年あるんだから大丈夫だよ。雨垂れ石をも穿つ、コツコツやることが大切なんだから」

 とまあこんな感じで、家庭教師によくありがちな、話が弾んで勉強進まずなんて状態になることもなく、お勉強会は和やかに終わった。実は壱原さんって教えるのがとても上手なんじゃないの? おかげで分からなかった部分が全部すっきりした。
「ありがとうございました」
 高城家の家の前で、帰りがけの壱原さんに言って頭を下げたらいえいえ、と壱原さんが笑った。とりあえずこれで怒涛の三日間は乗り越えられそうだ。
「それと、姉がお世話になってます」
 ついでに言っておく。気になっていることだった。壱原さんは苦笑した。
「いえいえ、面白いお姉さんで一緒にいて楽しいですよ」
 間違っても本気じゃないな。楽しいというのは疲れるの間違いだろう。
「あの」
 迷ったが結局聞くことにした。
「姉と何かあったんですか」
 壱原さんは首を傾げた。
「透子さんの様子でもおかしいの?」
「いえっ、別に……最近よく壱原さんに会いに行くし、なんか楽しそうなだけです」
 そう言った後、私は中学生の身で失礼かと思いつつ忠告してみることにした。
「あの、壱原さん。たぶん壱原さんは透子に狙われてると思いますから、注意してください」
「は、はい?」
「多分気付いてはいると思いますけど透子って小悪魔ですから。騙されないように気をつけてくださいね」
 壱原さんは困ったような、しかしおかしそうな顔をした。
「涼乃さんは透子さんが大好きなんだねぇ」
 はい? どこからそういう方向に思考がつながるんですか。
「安心して。透子さんとはただたまに遊んでるだけだから」
 だから、どういう遊びなんですかそれは。聞きたくても聞けやしない。妙な答えだったら困る。

 思ったけど、と壱原さんが言った。
「涼乃さんって本当に気を遣う人だね」
「そ、そうですか?」
「年の割にしっかりしてるし」
「そんなことはありません」
 思わず苦い顔になる。私が本当に気を遣える人なら、自分勝手な理由で朔良を傷つけたりしない。逃げたいからって目をそらさない。
「実際、朔良が私の態度に傷ついてますし。あの子はめげないから、あまり態度に出さないですけど」
 壱原さんが笑った。
「そう思えるところが、優しいって事だよ、涼乃さん」
 なんだか体が熱くなった。褒められた。大人の男の人に褒められた。しかも優しい、だって。うわー。
「あ、ありがとうございます」
「それに涼乃さんは他人のことばかり優先するじゃん」
「そんなとこまでどうして知ってるんですか」
 そんなにこの人としゃべっただろうか。それとも私ってそんなに分かりやすいのか。
「いや、うん……ちょっと、ね」
 その態度、なんだか意味深です。ちょっと透子の言葉がよみがえった。まさかとは思うけど、この人が私を狙ってるなんて事は間違ってもないよね?
「壱原さん……つかぬことをお聞きしますが」
「はい?」
「小さい女の子は好きですか」
「……はい?」
 やっぱり目を点にした。言わなきゃよかった。
「いや、子供は好きだけど」
「すみません忘れてください……」
 本当に言わなきゃよかった。
 その時にふと、この人に頼ってみたくなった。見た目によらず、なんとなく頼れる人な気がした。
「壱原さん」
「うん?」
「壱原さんは……年下とか年上とか、どう思います?」
「ああ、そのことか。僕はあまり気にしないな。女の子の方が年上でも」
「でも、小学生なんですよ」
「来年には中学になるけど」
 そりゃそうだけど。うーん、やっぱりこのフクザツな乙女心は男の人には分からないのだろうか。
「それよりも涼乃さんの気持ちのほうが大事じゃないの」
 壱原さんはそう言い、優しい口調なのに鋭い言葉で私の心を突いた。
「気持ちがないけど朔良くんを傷つけたくないからって、逃げる理由を“年下”に求めているなら、それは良くないことだと思うけどね」
 サクっ。「グサっ」じゃなくて「サクっ」だ。サクっと刺さった。
 違う。年下、小学生、というキーワードは本当に大きいのだ。これが中学生、なら2つ年下でもちょっと考えてあげないこともない。それに、自分の気持ちは今の時点でどういえばいいのだろう。恋愛対象じゃない今の状態が変わって、恋愛対象として見れるようになったら、私が朔良をどう思うかなんて分からないのだ。
 それとも、いまサクっと刺さったのは、図星だったから? 嘘をつくのと、傷つけるのと、どちらが罪だと言うんだろう。
「壱原さん……気遣いとか世間体とか、全部取っ払った気持ちで教えてください。小学生って、どうなんですか」
 壱原さんは黙った。ほら、やっぱり。
「正直に答えれば、ちょっと早すぎると思うけど」
 ほらほら。
「それじゃあ小学生って枷がなかったら、涼乃さんは朔良くんをどう思うの? そっちのほうが問題だと思うよ」
「…………」
 それが分からないから困ってるんじゃないですか。
 壱原さんは溜め息をついた。
「どっちにしろ朔良くんは諦めないって宣言してるんでしょ?」
「はあ、まあ……マセてますよね」
 壱原さんは苦笑した。無言の肯定だ。
「見守ってるしかないんじゃないの。いくらでもついてきてくれるってことは、涼乃さんはいつ返事をしてもいいって事なんだから。来年まで待って、朔良くんへの気持ちがはっきりしてから返事をしても遅くないと思うよ」
 なるほど。すごい、この人。今の一言ですごく楽になった。
「はい。ありがとうございます」
 私が笑うと壱原さんもほっとしたように笑った。もしかしてなんとかして良いアドバイスをしようと、すごく頑張ってくれていたのかも。すみません。
「よかった。涼乃さんって微妙な顔をしていることが多いから、そういうはっきりした表情って新鮮だね」
「えっ! 微妙って何ですかっ!」
 妙なところではっきり言う人だな。鋭いのか抜けてるのか。
「じゃあ、僕はそろそろ行くよ。実は明日締め切りのレポートがまだ終わってなくて」
「え!? す、すみません、引き止めちゃって。壱原さん、言ってくれればいいのに」
「いやぁ、頼られたらその信頼には応えないと」
 苦笑しながら壱原さんが言う。
「じゃあ、透子さんとお母さんによろしく」
「はい。……あの」
「うん?」
 やっぱり気になる。透子とこの人、何があったんだろう。
「たとえば」
 けど、ストレートには聞けなかった。
「……壱原さんは、高校生なら守備範囲ですか?」
 またまずった。何の質問なんだこれは。自分ツッコミを入れたくなる。壱原さんも微妙な表情をした。変なことばかり聞く子だなぁと思ってるんだろうな。いつもはこうじゃないんですよ。
「……まあ、相手によるかな」
「じゃあ中学生は」
「うーん……1年生だと微妙だけど、それも相手によるかな」
「小学生」
「さすがにちょっと。僕はもう大学生なんだよ?」
 えーと、これはもしや私も守備範囲? 嘘、身の危険だ。
「……どうもありがとうございました」
「な、何の質問だったの今のは」
「アンケートです」
「……はあ」
 やっぱりなんとなく、雰囲気的には頼りない人だ。もったいないなぁ。
「じゃあ、また今度」
「うん、じゃあね」
 私が言うと壱原さんは笑顔で私に手を振り、車に乗っていった。


 色々と個人的なことまで話してしまった気がするが、でも、ちょっと新鮮な気分だった。見直した。
 意外と頼れるし、良い人じゃん、壱原さん。