壱原さんの車でまずは久世くんを送ってもらった。私は透子のさっきの言葉のせいでなんだか気まずくなってしまって、後部座席で久世くんと並んで座っていたのに何も言い出せなかった。痛い沈黙を時々破ってくれたのは久世くんの方。私は相槌を打ったり質問に答えたりした。壱原さんも時々質問をしたり、話の輪に入って来たけれど、透子はだんまりだ。……怖い。
久世くんの家に着いた時は、内心ちょっとほっとした。まあ、久世くんが去ったからと言って透子のご機嫌は直らないんだろうけど。
車から降りて壱原さんにお礼を言った後、去りかけた久世くんは不意に振り返って、私に言った。
「喫茶店で言わなかったあの話、やっぱり言いたいから、ちょっと玄関まで来てくれないか」
「え」
私は思わずちらりと透子を見た。透子は何も言わない。ちょっと迷ったけれど、私は頷いた。
「うん、いいよ」
そして壱原さんに言った。
「壱原さん、透子と一緒に先に帰ってていいですよ。うちまでそんなに遠くないですから、待っててもらうのもあれですし」
「涼乃ちゃん」
ついに透子が口を開いた。
「なに?」
知ってて私も聞いてみる。透子も久世くんの前で「男の子の家に上がるなんて」とか「朔良くんがかわいそうでしょ」とか言い出すほど失礼ではなかったようで、無言で私を見つめるだけだった。
その目を見ていると、反抗心を刺激された。そもそも透子はどうして朔良にそんなに味方するの。小学生だよ。私の気持ちはどうなるの。もやもやと不満が募っていき、私は宣言した。
「それじゃあね。壱原さん、運転に気をつけて」
「待ってる」
突然透子が言った。
「ここで待ってるよ。ね、先生。ちょっとくらいなら時間あるよね? 久世くん、そんなに時間、かからないんでしょ?」
うわ、久世くんに圧力をかけてる。久世くんはしかし、元から私を長く引き留めておく気はなかったようで、ごくごく素直にこくんと頷いた。
「すみません。車庫、使っていいですから」
私は久世くんと一緒に玄関までお邪魔した。
「妹さんは?」
「部屋にこもってるんだろ。……悪いな、夏目のお姉さんとか壱原先生がいるところだと話し辛いからって、ここまで引っ張ってきて」
「いえいえ。それで、相談って?」
「妹がな」
「うん」
「高城の弟のこと、かなり気になってるみたいで」
「は」
予想どおりと言えば予想どおり、意外と言えば意外な言葉だった。いや、話の内容については驚くべきことではないけれど、私にそれを言ってどうするのだろう。
「馬鹿に聞こえるのは分かってるんだけど、高城の弟ってどんなやつなのか気になる。夏目は高城の弟と仲良さそうだったし」
つまり兄馬鹿というわけか。なるほどね、そりゃ言いたくないだろうね。それにしても、久世くんの妹さんがねぇ……朔良をねぇ。
「えーと……彰に聞いた方が良いんじゃないかな」
「聞けるかよ」
彰も兄馬鹿だしねぇ。
「朔良は良い子だよ」
私は正直に答えた。
「頑張り屋だし、人懐こくて明るくて、人気者タイプ。ちょっと狡かったりするし、実年齢より大人びてる感じ。……マセてるって言った方が良いくらい」
「……そうか」
「うん。私は年上だから子供だなぁとか、かっこいいより可愛いとか思っちゃうけど、同い年の子にはかっこいいって思われてるんじゃないかな」
「なるほど」
一瞬我に返って、私はかなり焦った。なんか色々と妙なことを口走った気がする。相手が久世くんでよかった。
「相談ってそれだけ?」
「まあ……少しすっきりした。サンキュ」
「うん。妹さんを心配する気持ちは分かるし。うちの姉も危なっかしいから」
「そうなのか。うちの妹は、どっちかっていうと将来が思いやられるタイプ」
私は思わず笑った。学校だと久世くんはあまり自分のことを話さないから、ちょっと新鮮だった。
「えーと、じゃあ私はこれで」
「ああ。変なこと聞いて悪かった」
「いえいえ」
私は軽く頭を下げて、玄関を出た。
車庫に停まっていた車に乗り込んで、壱原さんに「お待たせしました」と言う。車はすぐに発進した。透子が早速、しつこく聞いて来た。
「何の話だったの? 変なことされてない?」
「透子、それ失礼だよ。久世くんはちゃんとした人です」
「あんなチャラチャラしてそうなのが?」
見た目がそれっぽいのは否定しないけど。
「見かけで判断しちゃだめだよ透子」
「人は見かけが九割なんだよ」
「なんでそんなに久世くんに批判的なの」
透子は唇をとがらせた。
「涼乃ちゃんが味方するから」
「透子ったら……」
「今日のはよくなかった。家に上がったのは」
「玄関までだよ」
「涼乃ちゃんのことだから、また優しくして誤解を招くようなことをしたんでしょ」
「彰じゃあるまいし」
「彰くんと涼乃ちゃん、そういう意味では似てるの!」
私はいい加減にイライラしてきた。
「何が言いたいの!」
「はっきりさせなきゃダメって言ってるの。朔良くんのことを突っぱねておけないなら、他の男の子に近づき過ぎちゃダメだよ」
「付き合ってもいないのに浮気うんぬんって言うの? おかしいでしょ」
「涼乃ちゃん」
「透子、おかしいよ。はっきりしろって言ってるけど、私ははっきりしてる。付き合えないって言ってるじゃないの。付き合えないけど仲の良い幼なじみのままでいたいっていうのはいけないわけ?」
「涼乃ちゃんの、そういう甘えっぷりが半端なの! そんな中途半端なままなのが一番、朔良くんを傷つけてるんだよ!」
「透子さん」
突然、壱原さんが強い声を出した。
「言い方を選んで」
厳しい声だった。透子はバツが悪そうな顔をして押し黙る。私は壱原さんがちょっと怖かったことに驚いた。つっついたらあっさり倒れそうな感じの頼りなさがある人なのに、今のは何だろう。
でも、ひとつ気付いて私も考え込んでしまった。壱原さんは、「言葉を選んで」と言っただけで透子の言うことを否定しない。壱原さんも私の今日の行動は良くなかったというのだろうか。
なんで、ちょっと相談に乗っただけでここまで気にされないといけないの。朔良は私と付き合ってるわけでもなんでもない。それに、久世くんとは前よりちょっと仲良くなっただけだ。付き合おうってわけじゃない。片思いされていることを知っているというだけで、ここまで敏感に朔良の気持ちを尊重しなきゃいけないの?
そんなことをいったら彰はどうなっちゃうの。一番仲のいい男の子で、しかも私が好きだった人だ。彰については何も言わないのに久世くんだけって変だよ。
「あのね、涼乃ちゃん」
透子が口をきいたので私は飛び上がった。
「ははははい、何でしょうお姉ちゃん」
「涼乃ちゃんは、これっぽちもなんとも思ってないんだよね、あの男の子のこと」
「へ? 恋愛感情の意味なら、うん、もちろんなんとも思ってないよ」
「ホントのホント?」
「当たり前じゃん。彰とか朔良の方がよっぽど……」
ごくっと言葉を飲み込んだ。朔良の名前が今、いきなり滑り込んだ。透子は聞こえていたのかいなかったのか、大真面目な顔で頷く。
「それならいいの。透子の気にし過ぎなだけ。でも涼乃ちゃん、本当に、あんまり特定の男の子と近づき過ぎちゃダメだよ」
「はいはい」
「透子は真面目に言ってるの!」
「分かってるよ」
とりあえず、喧嘩は続けたくないのでおとなしく頷いておく。透子は不満が残ってる顔だったけれど、引き下がってくれた。
「それにしても、透子って本当に朔良びいきだね」
「そりゃあ、透子の認めた男の子だもん」
「年下趣味?」
「涼乃ちゃん」
透子はちょっと呆れた顔をした。
「透子のはそういう気に入り方じゃないよ。……涼乃ちゃん、透子が朔良くんを気に入ってるから朔良くんの味方したんだと思ってるでしょ」
「違うの?」
「もう」
透子は頬を膨らませてつんとそっぽを向いた。
「涼乃ちゃんのわからずや」
なんだか意味が分からない。
そうこうしているうちに、車は家についた。もうそろそろ帰ろうかなと呟いた壱原さんを、透子は強引に家の中へ連行した。私の知らない間に随分仲良くなってるみたいだ。壱原さんはまだ落ちてはいないみたいだけど。
頑張れ壱原さん、小悪魔の誘惑に負けるな。それにしても断り切れずに結局透子に押し切られているさまはやっぱり頼りない人という感じで、さっきの怖さはみじんも感じなかった。なんなんだろう。
透子がリビングに走って行って、お菓子とお茶を用意しに行くと、壱原さんは自分の部屋へ上がろうとしていた私を呼び止めた。
「涼乃さん。車の中で話してたことだけど」
「……はい」
壱原さんは、責めるわけでもないけれど優しいわけでもない、ただ静かな口調で言った。
「透子さんの言葉は感情ばっかり先走ってて、全然涼乃さんに伝わってなかったみたいだから、勝手に僕が解釈して涼乃さんに言うね」
「は、はい」
壱原さんはひとつ頷いて言った。
「涼乃さんの行動がまずかった理由ね。今の涼乃さんの態度は、確かに中途半端に映ると思う。朔良くんとはかなり仲が良いし。期待をもたせておいて裏切っているように見えるんじゃないかな」
私は一瞬黙ったけれど、何度も心の中で叫んでいた反論を口にした。
「私は何度も、付き合うのは無理だって言ってます」
「嫌いだとは言ってないでしょう。むしろ、好きだというのを否定できてない。付き合えないだけで本当は好いてくれているんじゃないかと思うと、朔良くんは希望が捨てられないんだよ。諦めが悪い性格なだけじゃなくて、希望があるから諦めたくないんだ。女の人の言葉は信用できないって、男は思ってるから、本当は付き合ってもいいと思ってるかも、とか考えてるかもしれないしね」
「…………」
言葉がでなかった。理路整然とした説明で、納得するしかない。
「透子さんはね、涼乃さんは朔良くんが好きだと思っているんだよ。だから、涼乃さんが自分の気持ちに嘘をついて目を逸らしてるんだと思ってる。それが嫌で嫌でたまらないんだろうね。何より、涼乃さんが、好きなはずの朔良くんを傷つけるなんて、後で涼乃さんが自覚したら絶対自分を責めそうなこと、させられないんだよ」
私ははっとした。そういうつもりで朔良に味方したわけじゃないって言ってたけど、そういうことだったの?
なんだか完敗した気分で、私は苦笑しつつ片手で額を押さえた。
「透子ったら……ホント姉馬鹿」
「それだけ涼乃さんが大好きなんでしょ。僕といるときもよく涼乃さんの話をしてるよ」
どうしようもないお姉ちゃんだな、と思いながらも、嬉しさは抑えきれなかった。透子とい彰といい久世くんといい、下の子に過保護なお兄ちゃんお姉ちゃんで、ほんとにまったく。
「壱原さん」
私は微笑んで、言った。やっぱり頼れる人なんだと認識を改めなきゃ。だってこの人、本当に優しいことを言う。どんぴしゃで嬉しい言葉を言ってくれる。それでいて、甘やかさない。やたら優しすぎる彰だってできない芸当だ。
「ありがとう」
壱原さんは笑みを返してくれた。いつかの、相手の悩みが解決してほっとしたような顔じゃなくて、自分の言葉で相手が喜ぶことを知ってたみたいな笑みだった。