そうこうしているうちに、試験十日前だった。梅雨は真っ盛りで、連日雨が降って蒸し暑いことこの上ない。追い込みは個人でやる方がはかどるから、もう少し差し迫るまで、私は学校では百合と文子、家では彰と一緒に試験勉強をしていた。久世くんと帰りが一緒になった時は、教科書を手に、問題を出し合いながら帰ることもあった。問題を出し合っていて気づいたけれど、久世くんってかなり頭が良いと思う。だって一週間前にもなってないのに、出した問題には九割方、正解してくるんだもん。
朔良は余計にかまってもらえなくなって、少し不満そうだったけど、ぶーぶー文句を言ったりはしなかった。言われると思っていたのでちょっと意外。それを彰に言ったら、なんだか彰が感慨深げに呟いていた。
「朔良も大人になってきたなぁ」
自分のわがままで、相手が忙しいのに邪魔をしたりしなくなった、という事だろうか。うーん、まあ確かにそういう気遣いの仕方ができるようになったのは成長かもね。
その上「お疲れー」とか言いながら飲み物を持って来てくれたりする。気が利くなぁ。まあ、その飲み物、うちのだけどね。うちでのお勉強会なのに、朔良は時々彰について来る。私に会いたいだけなのかな、とちょっと自惚れてみたけれど、まあ自惚れるまでもなく事実なんだろう。
壱原さんにも、またお世話になった。あんまりただでおこぼれをいただくのも気が引けるから、お母さんに電話した時に、お金を払うことに同意してもらった。茶封筒を渡したら壱原さんはすっごく恐縮してたけど。でもこれは、教えてもらってるこっちの気持ちの問題だから、受け取ってもらった。本当は透子を壱原さんから引きはがすことで恩返しをした方が、壱原さんもありがたいのかもしれないけど。
まあ、壱原さんの上手な指導と集団勉強、そして最後の追い込みのお陰で今度のテストも悪くなかった。塾を休んだ甲斐はある。……本当に勉強できる子って休まないらしいんだけどね。くっ。
テストが終わった瞬間、クラス中に歓声が上がった。
「終わったーっ!!」
別の意味でも終わってないことを祈る。
「ねぇねぇ、明日なんだけどさ……」
「明後日は空いてる?」
「メールするね!」
「鈴木は誘っといてくれた?」
こんな声が轟々とクラス中に溢れる。私は今回は、百合とも文子とも約束をしてなかった。百合は弟と、文子は他の学校の友達と約束があるらしいし、私は二人が空いてる日はことごとく塾だった。ま、夏期講習は最初の一週間で終わるからいいんだけどね。
彰とも茉莉ちゃんとも何も約束していない。茉莉ちゃんに声をかけてみようかとも思ったけど、彰と約束をしていたら悪いし、万が一気遣って私もどうぞ、なんて言われて二人の間に挟まれたらあまりに惨めな気分になりそうだ。
試験休み、と聞いて朔良は、今度は不満を言った。
「ずるい! なんで中学になるとそういう休みがあるの?」
「試験が小学校より大変だからだよー」
雨が降っているので窓も開けられず、クーラーで暑さをしのぎながら、私はぼけーっと天井を見ていた。
「先生も丸付けに時間がかかるんだってー。それに通知表もつけなきゃいけないし」
「……俺も遊びたい」
「海の日まで我慢しなさい」
「そしたら遊んでくれるの?」
「……私と遊びたいわけ」
「そう」
欲求不満がたまっているらしい。うーむ。
「学校の子とは遊ばないの、朔良は」
久世くんの妹さんが頭に浮かんで、思わず言った。朔良はしかし、あっさり言う。
「だって放課後も遊んでるもん。でも涼乃とはなかなか遊べないし」
「他の女の子と遊んだりしないの?」
「俺はそんな浮気な男じゃないよ」
「……小学生の台詞かそれは」
「どっちにしろ、六年にもなって女の子とは遊ばないよ」
まあ確かに。一応反論してみる。
「だからって、年上の女の子と遊ぶ方が珍しいと思うけど?」
「遊ぶ相手は俺が自分で選ぶの」
「……さいですか」
なんというべきか。
「例によって二人だけで?」
「そりゃ、その方が嬉しいよ」
「そりゃ、っていうなら、けれどなに?」
「言ったら涼乃はそれに甘えるから嫌だ」
「……なにそれ」
ふん、と朔良は拗ねたようにそっぽを向いた。いや、うん、なんとなく言いたいことは分かるけど。つまり、朔良は無理を言ってまで「二人きり」にはこだわらないんだろう。でもそう言ってしまえば私はそれに甘えて絶対二人きりじゃないように他の人を誘ってしまう。うん、よく私のことを分かってらっしゃる。伊達に幼なじみやってないな。
お互い、譲らないもん、というオーラを出してにらみ合っていたら、その時にちょうど透子が帰ってきた。
「ただいまー涼乃ちゃん。誰か来てるのー?」
朔良から目をそらし、リビングの戸が開くのを見た私は、また溜め息をつきそうになった。
「……透子、また壱原さんを運転手代わりにしたの?」
「あっ、朔良くんだぁ。最近よく来るね。嬉しいよ」
「またお邪魔してます、透子お姉ちゃん。こんにちは、先生」
「こんにちは、朔良くん。……涼乃さん、気にしなくていいよ。透子さんの高校はうちに近いんだ」
透子がまるっと無視してくれたと思ったら壱原さんがフォローしてくれた。きちんとした人だ。透子にはもったいなさ過ぎる。
「いえ、本当にご迷惑おかけします」
私は言って、姉の代わりに頭を下げる。ほらほら透子、妹に頭を下げてもらうことを、少しは恥だと思いなさいよ。壱原さんがフォローに入ってくれたからか、透子は会話に戻ってきた。
「涼乃ちゃん、頭下げなくていいんだよ。先生もいいって言ってるじゃん」
「……透子、調子に乗るんじゃないの」
「ひどーい。それがお姉ちゃんに対する態度?」
「だったらもうちょっとお姉ちゃんらしく、妹のお手本になるような行動をしてよ」
むう、透子が膨れた。表情だけは文句なしに可愛いんだけどなぁ。本性を知っているとどうも。
その時、私は思いついて、言ってみた。
「……そうだ。透子ってもう試験終わってるの?」
「うん? 今週中には終わるよ」
「じゃあ週末の用事は?」
「先生とお出かけ」
「……それはまだ行くって言ってないよ、透子さん」
壱原さんが慌てて言った。……なんかもう、壱原さんに慰謝料を支払いたくなってくる。こめかみの辺りを押さえつつ、私は提案した。
「夏休み入る前に朔良が遊びに行こうって言ってるんだけどさ、透子も一緒にどうかと思って」
透子は目をぱちぱちと瞬いた。
「二人きりのほうがよくない?」
「いえ全然」
「涼乃酷い!」
透子の質問に即答したら朔良に抗議された。
「甘えるから言わないって言ったのに!」
「じゃあ朔良は来なくてもいいよ? 久しぶりに姉妹でお出かけ楽しんできます」
朔良は私をじっとりと見つめた。
「……涼乃って俺に対しては意地悪だよね」
「……あはは」
ごめん、なんとなく朔良って苛めるのが楽しいタイプなんだもん。
「どうしても二人がいいって言ったらどうする?」
すると久しぶりに、朔良が粘ってきた。ありゃ。いじくりすぎたかな。朔良の負けず嫌い根性を刺激してしまったらしい。
「……それは勘弁」
「じゃあこれなら?」
ポケットから何かを取り出した朔良は、タンッ、と小気味のいい音を立てて指で机を叩いた。その朔良の指と机の間に挟まっているもの。
「……朔良、卑怯」
「意地悪のお返し」
に、と笑った朔良の顔が透子みたいだった。
朔良の誕生日にあげた、何でも言うこと聞いてあげます券。
言うことを聞くといった手前、粘るのは約束違反だろう。ううう。その手あったか。やっぱり朔良の負けず嫌いを刺激するんじゃなかった。
「なに、それ」
事情を知らない壱原さんがきょとんとして紙を見つめている。朔良が自慢げに説明した。
「誕生日にもらったものです。涼乃が俺のお願いを3回まで聞いてくれるって」
「……個性的なプレゼントだね」
それ褒めてるんですか。
とりあえず、私の負けは決定した。
「こんなことで消費しないで、もっと大きなお願いにすればいいのに」
その後、上機嫌な朔良を眺めながら、私は思わず言った。朔良は麦茶をぐいっと飲み干しながら聞く。
「例えば?」
「キスしてーとか」
横から透子が茶々を入れた。それ、ある意味「付き合って」より困るお願いなんですが。
「それはいやだ」
朔良はしかし、反論した。
「券でお願いするんじゃなくて、自然とそうなるほうが良い」
「そうかなぁ。その気になるからキスするんじゃなくて、キスしたからその気になるって事もあるんだよ?」
あのね透子。
「透子。一応朔良はまだ純な小学生なんだから、そういう不純なことは教えないでよ」
「なんでー。全然不純じゃないでしょ。立派な恋愛テクニックだよ」
「……そもそも、キスしてその気になるくらいなら、元から好感抱いてないとダメでしょ。嫌いな人にキスされたって嫌じゃないの」
透子はうーんと考え込んだ。ちょっとちょっと、誰でもいいの、透子!?
なんか嫌な予感がして壱原さんを見てみたら、私の視線を捕らえて慌てて顔をそらした。……えー。実践済みですか。透子ならやりかねん。
しかも朔良も私のことをじっと見つめていた。え、何。お断りですよ。
「別にしないよ」
顔に出ていたらしい。朔良が苦笑するように言った。
「今はね」
条件付だったのか。ほっとしかけて固まった私の表情を見て楽しそうに笑いながら、朔良は言った。
「今週の日曜日、9時に迎えに来るね」
……私、朔良にはかなわないのかもしれない。