EVER...
chapter:2-story:14
精神安定剤

 

血が繋がっていなくても、エルトはさすがにリディアの兄だった。
リディアは目が覚めて状況を理解すると、本当に半死状態になった。
いくら呼びかけても反応せず、
エルトに精神安定剤と称されたリオの話すら聞かない。
へたに話そうとすると逆に副作用でも起こしそうだった。
ライリスはそのリディアの様子を見て、複雑そうな顔で呟いた。
「父さんと引き離された時の母さんみたい」

一方のリオは途方にくれ、なす術なくて、本棚の本を読み漁るしかなかった。
しかしライリスの本棚にあるのは魔法書ばかりで、当然魔法言語で書かれているためリオに読めるはずもなく、他にあるのと言ったら、奇怪な記号の並んだ、えらく難しそうな数学や物理の本だけだった。
「……あなたって、普段からこんなものを読んでいるの?」
「まあね。教えてくれる師匠がいなかったから、独学するしかなかったんだ。
せっかく魔法使いに生まれたんだから、活用しない手はないし」
「じゃ、こっちの数学の本は?」
「ああ、それは頭の体操用」
こんなものを頭の体操に使っているのか。
一体どういう仕組みなのか、その頭をかち割って見せてほしいくらいだ。
「……あたしには読めないや」
リオは恨めしくなって本棚を睨んだ。
「他のはない?」
「王族の書庫ならあるけど」
それはちょっと畏れ多くて入れないと思った。

仕方ないので、リオは厩に行ってみた。
一番いい所にレミエルとケムエルがいた。
二頭揃うと、白と黒の対比が目を引く。
ケムエルはリオを見て嬉しそうに駆け寄り、頬を寄せた。懐かれたようだ。


その日一日、ライリスはやることがあるようだったので、リオはペガサス達と過ごすしかなかった。
ブラシをかけ、餌を与え、厩の掃除をして、水を換えてやった。
そうしているうちに一日はあっと言う間に終わった。

少々馬臭くなって、リオが戻ってみると、リディアは朝と同じ格好でベッドにうつぶせになっていて、微動だにしていない。
せっかく御飯も部屋まで運んだのに、手すらつけていないようだった。
堪忍袋の緒が切れた。
「リディア!何よ、何なのよ!ずっとそうしてるつもり!?」
リディアはやはり動かない。
リオは作戦を変えた。
地団太を踏み、大声で罵った。
「ノアのばか!ばかノアっ、ノアのばか!
なんでこんなに依存させるまでほっといたの!大ばかばか!」
これにはリディアも少し起き上がった。
「ノアは何も悪くないわ!」
リディアが言い返したので、リオはにやりと笑った。
ひっかかった。
リディアもはっと気がついて、悔しそうに唇を噛む。
リオは聞いてみた。
「御飯食べる?」
「いらない」
リディアはそっぽを向いた。
リオは機械的に繰り返した。
「ばかノア、ばかノア、ばかノア」
「やめて!」
リディアは怒ったように言う。
リオはつんとすました。
「明日になってもそうやって言い返す元気が欲しかったら、外にシチューがあるよ」
それから、別に敵意はないことを示すために、リディアの傍まで歩いて行ってベッドに腰かけた。
リディアは黙ってリオを見つめている。
しばらくそのまま沈黙が続いた。

窓の外はもう暗い。
行き倒れてオーリエイト達に拾われ、宿の部屋で目覚めた時もこんな暗さだった。
あの頃はまだ収穫の月だったのに、
もう葡萄の月が去って霧の月が来ようとしている。
夏もいつの間にか、冬が取って代わろうとしていた。

「……私、ノアと違う屋根の下で寝るの、初めてよ」
リディアがぽつんと言った。
「今も、私がいなくて大丈夫かしらとか、そんなことばっかり考えてる。
大丈夫じゃないのは、ノアじゃなくて私の方だなんて、思ったこともなかったわ」
溜め息を一つ吐いて、リディアはうなだれる。
長い黒髪が彼女の表情を隠した。
「……醜いことね。醜くしがみついているのね、私」
「醜くてもいいじゃない」
リオは呟く。
「問題なのは、開き直って今の状況に甘んじたり、目を背けたり、絶望したまま閉じこもってることだよ。今のリディアはちなみに3番目だと思う」
リディアは顔を上げ、少し驚いた顔をした。
「醜いのは……問題じゃないというの?」
「だって、人は誰でも醜いよ。
笑顔を被って実は実は嘲笑だったり、平気で人を騙したり、殺したり」
リオはほうと息を吐いた。
「でもね、人が醜いからこそ、人は人が好きになるんだと思うよ。
ばかな子ほど可愛いって言うし、完璧な人よりは欠点もあったほうがいいと思うし。
それだって、結局自分の自尊心が傷つかないようにってことかもしれないけど」
「……そう、ね」
リディアは少し笑んで、リオの肩に腕を回した。
「リオがいると、本当にほっとするわ」
リオは顔が赤くなった。
褒められた時って、本当にどう反応したらいいのかわからない。
しばらくおたおたして、結局リディアが自分より年上だと言う事実は無視して、慰めるようにぽんぽんと彼女の肩を叩いてみた。
「そうそう、急がなくてもいいから、
ゆっくりノアに依存しなくてもよくなればいいんだよ」
すると、リディアはリオから離れて、悲しげに溜息をついた。
「でもね、そうすると、今の私はやっぱりノアを取り戻したいと思ってしまうのよ」
「……」
「ノアに私を必要として欲しいの。
ずっとずっと、あの子のためだけに生きてきたんだもの。
いっそ依存でも構わないと思ってしまうくらいに」
「それはそれでいいかもしれない。
でも、リディアはリディアであってノアじゃないんだから、―――自分の命なんだから、自分で生きないと」
リディアはまじまじとリオを見つめ、囁くように言った。
「リオ……それ、あなたがあなたの神父様に言いたかった言葉ね」
リオは悲しげに笑んで頷いた。
それから、小首を傾げて少し明るく言った。
「シチューはいる?」
リディアは頷いた。


ライリスは、夕食の席にリディアがいるのをみて、いささか驚いたようだった。
彼女はリオをしげしげと見つめて呟いた。
「君って本当に精神安定剤だね」
「今回はどちらかというと、興奮剤だったけどね」
リオが返すと、ライリスは声をたてて笑った。

翌日、ライリスはリディアの心の慰めに、と彼女を厩に連れていった。
リオもついていった。他にすることがなかったのだ。
ノアと同じにおいでもするのか、ペガサスたちはリディアにもよく懐いた。
ペガサスたちもノアがいなくなって寂しがっているらしい。
リディアはニンジンの切れ端を片手に言った。
「レミエルとかケムエルって、天使の名前よね」
ライリスは笑った。
「うん。ちょっと恐れ多い由来だけど。さすがに良く知ってるね」
「私、半分は天使だもの。ライリスこそ、どうして知ってるの?」
「王家の書庫には教会が知ったら焼きたくなるような、創世記とか天界に関する資料がいっぱいあるんだよ」
憚る様子もなく言った。
「それにしても、皆寂しがってるみたい。ノアの動物を操る力って、動物に異常なほど愛されてるからなのかな」
リディアはそれを聞いて黙り込んで、考える表情になった。
ライリスがふと気付いた。
「ああ、ケムエルの水がきれてる」
「あたしが汲んでくるよ」
リオは言って、バケツを持って出た。

しかし、これが間違いだった。
戻ってきてみると、ライリスはいなかった。
そのかわりリディアがペガサスたちに何やら話しかけている。
リオが妙に思ったのは、みんな囲いから出ていたからだ。
しかも、ペガサスたちは興奮しているようだった。
「ね、みんなも酷いと思うでしょう?」
リディアの声が聞こえる。
「ノアを助けたいと思うでしょう?契約なんて交わしたりさせたくないでしょう?」
応えるように、ペガサスたちは嘶きをあげる。
愛する少年への仕打ちを聞いて怒っているようだった。
「行きましょう、グラティアへ!ノアを助けに!」
リオは事態を悟って血の気が引いた。
ちょっと待て。

慌ててバケツを放り出して、リオは飛び出した。
「リディア、待って!」
リディアは既にペガサスの一頭に飛び乗っていた。
リオはどうすることもできなくて、リディアの元に駆け寄ろうとしていたレミエルとケムエルの手綱を掴んで引き止めるので精一杯だった。
リディアはさっきまでとは打って変わって、生き生きとしていた。
目には生気が戻って、天馬にまたがる姿はまさしく天使に相応しいものだった。
「私、ばかだったわ。泣いているだけなんてばかみたい。
ノアを取り戻したいと言っておきながら、茫然自失で何もしなかったなんて」
リディアは笑顔で天を見上げた。
リオは叫ぶことしかできなかった。
「リディア、戻って!」
馬上の少女は、多彩な青の瞳を細めて天へ飛び立った。
「今行くわ、ノア」

天馬たちの飛翔に合わせて、旋風が巻き起こった。




最終改訂 2006.09.29