リオが目を開けた時、体は寒さに震えていた。
暖炉はあるのに薪すら入っていない。
自分を凍え死にさせるためだろうかとリオは思った。
だが、寒い以外は意外と良い部屋に寝ていた。広いし清潔で、牢屋じゃなくてちゃんとした部屋だった。
ふと部屋を見回すと、黒い髪の男の子がうたた寝をしている。
寝所に、子供とはいえ男を入れるのかとリオが仰天していると、少年はぱっちり目を開けた。
猫のように細い真紅の瞳。
歳は11か12くらいだろう。
「目ぇ覚めたのか」
言うと彼はあくびをして立ち上がった。
「気力は回復したか?あんた、ここに来た時には心ここにあらずって感じで何も見えてないみたいだったけど」
ぞんざいな口調にリオは口をパクパクさせた。
台詞だけを見れば人懐こそうだが、気だるそうで、リオのことなどどうでもよさそうな声だ。
「回復してんなら返事しなよ」
「あ……ええ」
「助かった。俺も見張りから解放だな。メフィストフェレスのやつ、人をこき扱って……」
悪魔の少年は出て行こうとしたが、思い出したように振り返った。
「そうだ、ベリアルが、日が暮れたら来いって」
「待って。あの……」
少年は足を止め、胡散臭そうにリオを振り返った。
リオは戸惑いながら聞いた。
「ここはどこ?」
「ベリアルの陣中だよ」
少年は呆れた口調で言った。
「ええと、あなたは?」
「使い走り」
「そうじゃなくて、名前」
「カイン」
言い捨てて少年は出ていった。
一人で取り残されると、どうしようもなく、惨めさと絶望に襲われた。
寒さがよけいに空っぽな気分を増長させた。
リオはベッドによじ登り、毛布を体に巻き付けて震えた。
窓の外に雪が舞っていた。
胸が詰まった。
皆で雪遊びをした。
リディアは転んでばかりで、ライリスとアーウィンはやっぱりスポーツ万能で強くて、ノアは思いの外すばしっこくて、エルトは皆から狙い撃ちされていて、レインも珍しく楽しそうで、ウィルは子供のようにはしゃいでいた。
それから、雪道をウィルと一緒に手を繋いで歩いた。
ざくざくと雪を踏んだ音を覚えている。
離れた今になると、彼らの温もりが鮮烈によみがえった。
リオは膝を抱え、ぎゅっと腕を握る手に力を込めた。
寂しかった。
とてもとても寂しくて、悲しくて、自分が呪わしかった。
呪わしい身で彼らを思う自分が許せなかった。
自分はは魔王の姪だ。居るべきはここだ。
居場所というなら彼らの中だったけれど、居場所と居るべき場所とは皮肉にも同じとは限らない。
ふいに涙が頬を伝った。
枯れたと思っていたがそうではなかったようだ。
口をわずかに開いて出たのは、無意識に一番強く思う名だった。
「ウィル……」
言った瞬間に、強烈に好きだ、と思った。
好きだ、好きだ。
あまり一緒にいた時間は長くなかったし、まだ彼のことをよく知っているとは言えないけれど、でも、好きだ。
リオは唇を噛みしめ、より強く膝を抱いた―――。
カインと名乗った少年が再び現れたのは随分経ってからだった。
彼はベッドの上で毛布にくるまって震えているリオを見て慌てた。
「寒いなら言えよ。バカじゃないのか、あんた。暖炉があるだろう、火をつけろよ」
「だって、マッチも薪もないもの」
リオは言った。するとカインは暖炉に手をかざして、小声で何か呟いた。
パッと火がついた。
「あんた、神力が使えないの?」
カインが聞いたのでリオは首を傾げ、それから思い当たって頷いた。
「神力って、魔法のことね」
「だって神様の力だろ。神力って呼んで当然じゃないか」
どうも文化が違うようだ。
リオは閉口した。
カインがドアの方に向かって顎をしゃくった。
「来いよ。日が暮れた。ベリアルのお呼びだ」
外に出ると、どうやらそこは森の中のようだったが、グラティアではないようだった。
樹海も靄もなかった。
そして辺りにはたくさんの悪魔たちがいた。
悪魔がこんなにたくさん一時に集まっているのを見るのは初めてだ。
カインは彼らの間を通り抜け、陣中を歩いていく。数人がこちらをじっとみているのでリオは落ち着かなかった。
外見だけは普通の人間と変わりなく見える悪魔たちだが、神々への反抗を具現するために自ら姿を変えたという伝説の通り、猫のように細い真紅の瞳と尖った耳、そして天使の白い羽ではなくコウモリのような黒い翼を有していた。
自分が彼らの仲間なのだと頭で分かっていてもリオは怖かった。
慣れなきゃ、と思った。
きっとこれからはここにいなくてはならないのだから。
カインはずんずん歩いていき、一際大きな天幕にリオを入れた。
「来たよ、オバサン」
カインが吐き捨てると、オバサンとは呼ぶにはあまりにも似つかわしくない美しさのベリアルが機敏な動作でこちらを向いた。
「もう少し言葉を選ぶがよいよ、カイン。ベルセブブの息子とて容赦はせぬぞ」
カインは反抗的な目でベリアルを睨み返した。
仲が悪いらしい。
奥でフンと鼻を鳴らして軽蔑的な笑い方をした男がいた。
「坊主にかまうな、ベリアル。どうせ役立たずだ。その子がリリスの娘か」
「そうだ、メフィストフェレス」
ベリアルは女とは思えない程きびきびしとした声で言った。まるで司令官のようだ。
それからリオは男の方に目をやって、この人がメフィストフェレスか、と考えた。
それから、初めてカインにコウモリのような黒い翼がないことに気付いた。
リオが観察しているうちに、向こうもリオをとっくりと眺めていた。
「なるほど、リリスに良く似ているな」
「サタン様にもだ」
ベリアルが言って笑った。
やっぱりエレインとは呼ばないんだ、とリオは思った。
隣でカインがリオを振り向いて凝視した。
「神力は?」
「ないようだよ。少なくとも感じぬ。まあ、それはどうにでもなるだろう」
答えたのはベリアルだった。
「リリスらしいだろう?娘の正体を隠すために封印をかけておるよ。目が凡庸な色をしているのもそれ故であろう」
そこでカインが話に割り込んだ。
「ちょっと待て。リリスって、あの?」
メフィストフェレスはカインに向かって冷酷に笑んだ。
「そうだ、サタン様の妹のリリスだ。8年前にあのクローゼラが手を下したやつさ」
リオは母に対するそのあっさりした言い方に腹が立ったが、それよりみるみるうちにカインが青ざめたのが気になった。
母はそれほどまでに、サタン陣営にとっては脅威だったのろうか。
リオが首を傾げている前で、ベリアルとメフィストフェレスは話を続ける。
「カインの代わりか?」
「レオリアの方がよいだろう?皆の士気も上がる」
「だが、裏切り者の娘だ」
「リリスはこの子が小さいときに死んでいる。それに、我々のこともよく知らない。いくらでも教育できるであろう」
ベリアルが言うと、メフィストフェレスはリオを値踏みするように眺めた。
その目付きが嫌で、リオは後退った。
メフィストフェレスが笑う。
「なるほど。良いかもしれないな。サタン様の復活までに飾りにしておけば良い宣伝になる。その案、乗るぞ」
リオが自分は飾り物なのかと憤慨するより先に、カインが唸って凶暴な顔つきをした。
「お前らっ……俺をぼろ雑巾みたいに捨てる気か!?」
「いくらベルセブブがサタン様の右腕だったからといっても、お前には大して宣伝効果がないからな。レオリアに比べればお前は単なるハーフに過ぎぬ」
ベリアルは冷ややかに言った。
ハーフだったのか、とリオはカインを見た。
怒りと失望と悲しみで、真紅の瞳が火のようだ。
「俺が……行くとこないと知ってて言ってるのか!?」
「お前がもう少し可愛いげのある性格をしていたら考えていたけどね、カイン」
ベリアルは美しい唇で毒を吐いた。
メフィストフェレスがぐいっとカインの肩を掴む。
「タダ飯食いは置いておけない、カイン。お前は追放だ」
カインが悲鳴を上げて抵抗したが、メフィストフェレスはがたいが良くて到底かなわなかった。
リオは思わず叫んだ。
「ちょっと待って」
言いながら、自分でもまたか、と思った。
全く自分の利益にならないことを知っていても、なんとなく見過ごせないこの性質。
生きる上では結構やっかいだ。
今にもカインを放り出そうといていたメフィストフェレスは手を止めて、リオを見て目を細めた。
「ほう。お前が止めるのか」
「同情してくれなくたって結構だ」
カインが吐き捨て、リオを睨んだ。
「よくもぬけぬけと『待って』なんて言えるな。お前が来たせいじゃないか!」
リオはひどくむっとした。
「悪いわね、同情なんかしてないよ。あんたがもうちょっと可愛いげのある性格をしていたら済んだことじゃない」
ベリアルがそれを聞いて、声を立てて笑った。
面白そうにリオを見つめる。
「なかなか言うね、リリスの娘。それでも君はカインを引き留めるのかえ?」
「そうよ」
カインは信じられない、という顔でリオを見つめた。
「やっぱ馬鹿じゃないのか、あんた」
「黙ってなさいよ」
ほんと、可愛くない。
「そういう方針には賛成できない。カインの使い道がないなら、せめてあたしの世話係にでもしてよ」
「ご冗談!」
カインが心底嫌そうな顔をしたが、リオは彼を睨み付けた。
「行く所がないんでしょ?」
カインは黙った。
メフィストフェレスは手にカインをぶら下げたまま思案している。
ベリアルが言った。
「よいではないか、メフィスト。カイン一人くらい」
「しかし」
リオは冷ややかに言ってやった。
「あら、これから世界を滅ぼそうって人たちが、子供一人おいておくほどの余裕もないの?」
ベリアルも肩をすくめてメフィストフェレスに言った。
「敵にもそう思われかねぬよ。まあ、レオリアの歓迎の印だ。一つくらい願いを聞いてやってもよいではないか」
「……よかろう」
メフィストフェレスがやっとカインを下ろした。
リオはほっと息をついた。
カインは乱暴にメフィストフェレスの手を振りほどき、彼に敵意に満ちた眼差しを向ける。
ベリアルがカインに声をかけた。
「レオリア殿に感謝するがよいよ」
そして、ベリアルとメフィストフェレスは天幕を出ていった。
「戻るぞ」
カインがリオに吐き捨てた。
「言っとくけど、感謝はしないからな」
「結構よ」
リオは言って、カインに続いて天幕を出た。
本当に可愛くない奴だと思った。
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