EVER...
chapter:2-story:30
二つの決意
 

 

ノアはひたすら空を見上げていた。
―― まだかなぁ」
吐いた息がガラスを白くする。
ふと、ノアの肩に手が置かれた。
「どうした、ノア」
ノアは兄を振り返り、不安を訴えた。
「リオ姉ちゃん、みつからないの」
エルトはノアの頭に手を置きなおすと、彼の黄土色の巻き毛をくしゃくしゃとなでた。
「大丈夫、もうすぐさ。もうすぐ帰ってくるよ」
「うん」
ノアは兄にぺたりとくっつき、再び空を見上げた。
エルトはちらりと辺りを見回してノアに聞いた。
「リディアはどこに行ったんだ?」
「お姉ちゃんならいのってるよ。リオ姉ちゃんがもどってきますようにって」
「祈る?」
最近のリディアはやたら行動力がある。何かが起きると何かをせずにはいられないようなのだ。
そのリディアが、おとなしく部屋にこもってお祈り?
ノアは兄の困惑を感じ取ったのか、説明した。
「お姉ちゃん、神さまにいのりをとどけようとしてるんだって」
エルトは納得し、そして急にそれが意味することを悟って表情を曇らせた。
天使が祈ること、それは神に話しかけることを意味する。
リディアがしていることは、神を呼ぶことだ。これはなかなか大それたことだ。
「……ハーフの身で、そんなことできるのか?」
「ハーフだって天界にいたことあるもん。ぼくたちのほかにできるひとはいないもん」
「それはそうだけど……」
天との繋がりは、時の流れを経て着実に薄くなっていっている。
天使の血を引く者など希少で、クローゼラの側にいたエルトですら、自分の妹と弟以外、その存在を聞いたことがない。
いたとしても、きっと己の身の上すら知らないだろう。
できるとしたら、エルトの最も身近なこの二人だけだというのは明らかだ。
けれど、それほどに天から遠ざかった今、天に声を届かせることはどれだけ難しいことなのだろう。
「リディア……」
彼女は必死なのだ。
戦争が始まり、リオを失い、明らかに物事が動き始めている今の状況で、自分にできることを一生懸命探している。
「お姉ちゃん、自分はこれくらいしかできないから、って。これくらいやらなきゃって」
ノアの言葉に、エルトは唇をかみ締めた。
―― 自分は何をしているのだろう。


「あれ、ライリス、何やってんだ」
アーウィンに声をかけられたライリスは力なく顔を上げた。
ウィルと一緒に大神殿へ行ってきた帰りなのだろう、コート姿で、後ろにはウィルが立っていて、アーウィンと同じようにライリスを見て「何をしているんだろう」という表情をしていた。
「何も」
ライリスはぽつんと答えた。
「何も、って……お前、ついこないだまで走り回ってたじゃねぇか。兵を動かすために必死で」
「もう無理だよ。誰もぼくを信じない」
「それはまた弱気な発言ですね。あなたができなければ他に誰ができるんですか」
ウィルにも言われ、ライリスはキッと二人を睨んだ。
「簡単に言わないでよ。話しかける側から、あからさまに嫌そうな顔をされてみれば君たちにだって分かる」
「それで希望がなえたってわけか?そりゃ、相手の思うつぼじゃねぇか」
「じゃあどうしろっていうんだい?」
アーウィンはつっけんどんなライリスの声に、ショックを受けた表情をした。
そして怒ったように叫ぶ。
「オレにまでそんな態度取るんじゃねぇよ!」
「だったらそっとしておいてよ!」
「嫌だね!お前はほっといたって余計に自分の殻に閉じこもるだけじゃねぇか!」
ライリスは口をつぐんだ。
「動きゃいいじゃんか!強行突破すりゃいいだろ!お前ならできるだろ!」
「ぼくは万能じゃないんだよ!」
ライリスは怒鳴り返した。
いつもそうだ。自分を本当の意味で理解してくれる人などいない。
「万能だなんて思ってねぇよ!」
だからこそ、アーウィンにそう怒鳴り返されて驚いた。
「オレ、無茶なこと言ってるか?今までそうやってお前がピンチを乗り越えてたのを見てんだぞ。今のお前は閉じこもってるだけじゃねぇか。そんなんで誰も自分を見てないだなんてよく言えるな!そんな風に隠れてたら誰だって見えないに決まってるだろ!」
返す言葉がなかった。
ライリスは呆然と、いつになく怒りをあらわにする相棒を見つめていた。
ハシバミ色の瞳でライリスを睨みつけて、アーウィンは吐き捨てた。
「いつまでもそうやってたら、もう知らねぇからな」
そう言って、つかつかと部屋から出て行ってしまった。
黙って見ていたウィルは肩をすくめた。
「アーウィンにまで知らないといわれてしまったら、終わりですよ」
「余計なお世話だっ」
「そうですか。……あなたがそうしているのを見ると気分が悪くなりますね」
「……どういう意味」
「昔の私に似ています。何も変わりっこないと思い込んでいて」
ライリスは意味が分からず、ウィルのメガネの奥の瞳に向けて訝る視線を投げかけた。
「諦めたら終わりだということですよ」
ウィルは冷静にそういうと、やはり部屋を出て行った。

取り残されたライリスはとことん嫌な気分に襲われてその場に座り込んだ。
(……本気で愛想をつかされたのかな)
怒ったアーウィンの表情を思い出して、不安になる。
いつでも見捨てずに受け入れてくれた相棒。お互いにパートナーと公言し合うほど、信頼しあっていた。
きっと世界中で、一番最後まで自分を受け入れ続けてくれるのが彼なのに。
(……ぼくは本当に独りぼっちになってしまう)
言いようのない恐怖を感じた時、人の気配に気付いた。
開いたままのドアから、今一番会いたくない人が入ってくるところだった。
「あの子とでも喧嘩をするんだな。だがさっきのはお前が悪かったと思うぞ」
「……父親面をするな」
あからさまな敵意にもめげず、クライド・ヘイヴンは肩をすくめた。
「父親面をしたつもりはないが?それとも、話しかけることが父親面というのか。それはまた斬新な解釈の仕方だな」
皮肉たっぷりの声色だった。
ライリスはさらに敵意を強めた声で返す。
「何の用だ。ぼくには関わらないんじゃなかったの?」
「気が変わった。あまりに見ていて腹が立つんでね」
何を言い出すのだとライリスは彼を睨みつけた。
「ところでお前、いつから『ぼく』なんて使い始めたんだ?確かに昔から元気のいい娘だったが、ここまで男っぽくなるような兆候はなかったぞ」
「自分で原因を作っておいて何を言うんだ」
「わたしが原因か。何があったんだ」
「……今さら聞かないで」
「ローズがお前をわたしだと思おうとしてることか。お前もわざわざ協力してやることはないじゃないか。自分は娘なんだって言い張り続けてりゃ、ここまであいつが病むこともなかっただろうに」
「ぼくのせいにするな!何もかも、あなたがいけないのに!」
「何もかも、か。そこまで言われると責任転嫁されてるとこっちも主張しなければならなくなる」
「じゃあどうしろっていうんだ!母さんが壊れるのを助けろって?それとも、壊れないように支えつつ、自分自身のことも守れって?なにもかもぼくに背負えって言うの!?自分は遠く離れたカートラルトでぬくぬく生きてたくせに!」
「ぬくぬく生きていたと、なぜ分かる?」
「っ……」
責めるような父の視線に、ライリスは口を噤んだ。
確かに言い過ぎたと感じた。父には父なりの苦悩があったはずなのだ。
その苦悩があると知りながら、それでも父を一方的に悪者扱いしている自分は、ただ甘えているに過ぎない。
そのことに気付いて愕然とした。
「お前は勝手なやつだな。心配して損した」
あまりにも冷え冷えしたその声は、ライリスの胸に深く突き刺さった。
すべてのものに見放されていくという、そんな感覚。
クライドはひどく冷ややかな笑みを浮かべて、自分の娘を見下ろした。
「捨ててよかった、こんな娘」
言葉が、出ない。
冷たい氷の刃が心に突き刺さって、傷口をえぐって広げていく。
「せいぜいあがけ。隠された王女がこんなだと民が知らなくて良かったな。まあ、そのうち誰からも見放されていくことになってもおかしくはあるまい」
皮肉って、クライドはライリスに背を向けた。
「じゃあな」
決別宣言の響きだった。

取り残されたライリスは、あまりのことに荒い息をしながら胸を押さえていた。
体が震える。
怖さというより、怒りが原因だった。
なんて世界を、神は与えたもうたのだろう。
―― 負けたら、終わりだ)
そう考えて、ライリスはこぶしを握り締め、自分が落ち着くのを待った。
ライリスはしばらく下を向いていた。
静寂の広がる部屋の中、冷たい空気があたりを漂う。
そして、しばらくしてから、ライリスはふと顔を上げた。
その木の葉色の瞳に、ふと強い灯が点った。
「……隠された王女?」
ふ、と口元に笑みが浮かぶ。その笑みには底知れない強さがあった。
「誰が、そんなことを言ったんだか。ぼくはちゃんとここにいるのに」
そして、部屋の隅にある鏡のところまで行き、それと向き合った。
映るのは、金の髪をした端正な顔立ちの、少年のような少女。
もう、泣いて喚いて嘆くライリスの姿ではなかった。強烈な存在感を放つ、王者の覇気をまとう少女。
「誰もぼくの存在を認めないというのなら」
形のいい唇が綻んで、決意を紡ぐ。
「認めさせてやる。全世界に、ぼくの存在の証を刻みつけてやる」



********************



―― 正しいとは思えないわ、兄様。

その声を聞いて、リオは目を覚ました。
(夢……)
ここ数日、時折目覚めの間際に、いつも同じ声で囁かれる言葉を聞くのだ。
(お母さん……)
直感的に、そう分かっていた。
(そう……そう。正しくないんだよね。間違ってるとも言えないけど)

外の雪は止んでいるようだった。
確か今日は、移動が始まる日だ。ついに戦場へ移動するのだ。
リオは小鳥の一件の後、さんざん考えた。
魔力を持たない非力な自分が、悪魔たちの中で何が出来るのか。
結局何も思いつかないのが悔しかったのだが、それは辛抱強く探していこうと思った。
とにかく、自分の行くべき方向を迷いなく見つめることが出来るようになれただけで進歩だ。

リオはむくりと起き上がり、空気の冷たさに震えて布団を体に巻きつけた。
悪魔たちには従えないと悟ってから数日が経った。
カインはリオがあれだけ叫んだことから心配して様子を見に来てくれていたが、リオは努めて平気だということをアピールしておいた。
あまり心配されてベリアルやメフィストフェレスに、例の小鳥の事件が知られるのが少し嫌だったのだ。
冷気に頬をさらして丸くなっていると、カインがノックもなしに部屋に入ってきた。
「姉ちゃん、起きろ。出発だぞ」
「もう?」
「もう、って……そっか、姉ちゃんは朝寝坊だからな。俺たちにとっては十分遅い時間だよ。早くしないと置いてかれるぞ」
「……んー……」
まだ眠気が去らず、リオのまぶたは重たかった。
それでもカインにしかられ、蹴飛ばされながらなんとか荷物の整理をし、寝ぼけ眼ながら外に出ることに成功した。

立ち並んでいた天幕はすべて片付けられ、既に悪魔たちは出発の準備をしていた。
目覚めが悪いまま朝食を取り、リオは忙しそうに動き回る悪魔たちをぼんやりした目で眺めていた。
……眠い。
眠くて、リオはほとんど半目を閉じていた。
そのまぶたがさらに下がったそのときだった。
「……?」
天幕の周りを、何かが漂っているのが見えた。
しかし、なんだろうと思って目を開くと、それは見えなくなる。
試しにもう一度目を細めてみるとまた見えた。
天幕の側ではベリアルが手を一振りしていた。
魔法を使ったのだろう。天幕はパタンと崩れ落ち、勝手にくるくると畳まれていった。
リオには、天幕の周りを漂っていた光のようなものが回って天幕を閉じる様子が見えていた。
(……驚いた)
リオは目を瞬いた。
(魔法って見えるんだ)
明らかに今リオが見たものは、魔法の波長だ。
(普通は見えないんだよね……たぶん)
誰にでも見えるものなら、ウィルが「使った自覚がないから魔法を使ったかどうか確かめられない」なんて状況になるはずがない。
(魔王の血が流れてるから、見えるのかな)
ということは悪魔なら見えるのだろうか。とりあえず、役に立ちそうな能力があることは黙っておこうとリオは思った。
これが、自分に出来ることの一つ。協力しないこと。

そして、すぐに移動が始まった。
リオは嫌だったが、例の小鳥を食い殺したフェンリルという狼に似た魔物に乗った。
真っ黒いケムエルの背中が恋しい、と思った。
ケムエル、破壊の天使。リディアが「悪魔が載りそうな名前」と評していた。自分に懐いていたのはそういうことなのかもしれない。
まあ、フェンリルの背中はほとんど揺れなくて、快適ではあったのだが。

リオは近くを走っているベリアルに聞いた。
「これからどこへ行くの?クローゼラの所?」
ベリアルはクローゼラの名を聞いて、嘲るように笑った。
「会う予定はだいぶ先だ。あの女は嫌いだからね、なるべく会いたくはない。お前を見つけたと言う報告もしておらぬし」
リオは驚いた。
「あなたたちって仲間じゃないの?」
「サタン様の下にいるという意味では仲間だが、あいつは元は地上軍の側だろう。相容れぬことが多いのだ」
「え?クローゼラが?地上軍の?」
ベリアルは長いまつげをしばたいてリオを見つめた。
「知らぬのか。マーリンは知っているか?」
「はい」
「あいつは奴の弟子だったのだよ」
リオは目を見開いた。
―― クローゼラが、マーリンの?」
「二番弟子だがな。バカな女だ、恐れ多くもサタン様に懸想して、向こうを裏切った」
「クローゼラがサタンを?」
それは確かに大それたことだ。
それにしても、とリオは黙り込んだ。
オーリエイトの金色の瞳が脳裏によみがえる。
―― 姉妹弟子、だったんだ……」
オーリエイトとクローゼラが顔を合わせたときの事を、リオは思い出した。
ライバルともとれるような視線を交わしていた二人。そして、お互いのことを良く知っているようだった。
「相変わらず変わらないのね」と言っていた。
きっと千年の昔は、同じ師につく弟子として、姉妹にも等しかったに違いないのに。
「…………」

リオは早足に駆けるフェンリルの背にしがみつきながら、無言のまま考えていた。
クローゼラの所業はすべて、恋ゆえだったのだ。
千年を経た今でも、色褪せることなく想い続け、その恋が全てで、“女神”となった彼女。
(また、覆ったみたい)
正しいものと間違っているものが、どんどん入り混じって境がなくなっていく。

分からないなら、とリオは考えた。
自分が望むほうにつきたい。
ここでもそれなりに大切にされているし、カインがいる限りは寂しさも紛れるだろうけど、それでもやっぱりリオは彼らとは異質だ。
恐れ多くも、とベリアルは言った。
サタンに恋心を抱くなど、ベリアルにとっては、つまり悪魔たちにとっては狂気の沙汰であり、ありえないことなのだろう。
でも、リオにはそうは思えない。
誰かが誰かを好きになる、それはとても自然なことで、誰もが必要なことだ。
そして、そこには何の法則もなくて、義務も秩序も存在しない。
それを、ベリアルたちは知らない。でも、リオには分かる。

(あなたたちには見えないものが、あたしには見えるのよ)
リオはそう心の中で呟き、さらに決心を固くした。
―― もう二度と屈しない。
悪魔に囲まれて移動しながら、リオは思った。
悪いけど、邪魔できることはとことん邪魔させてもらうわ、と。




最終改訂 2007/11/12