エルトが頻繁に呪符をもらいに来るので、他人には不干渉が基本のレインもさすがに聞いた。
「一体、こんなに呪符を使って何を作ってるんだい?」
「えーと、まあ物騒なもの?」
エルトはそう答えた。レインはまだ腑に落ちない様子で聞く。
「戦争用?」
「まあね」
「……何かの武器?」
「そんな感じ」
レインの瞳の色が冷たくなったので、エルトは少し慌てた。
「分かった、言うよ。爆薬の研究。爆破の呪符はあるけど、薬はないじゃないか。だから、薬にできないかどうか研究中なんだ。薬なら誰でも使えるだろう。これなら兵に魔力がなくても、悪魔たちと互角に戦えるかなって」
エルトはひやひやしながらレインの表情を見守った。四年近く付き合っていても、この人の冷たさには慣れない。しかしエルトが安心したことに、レインの冷ややかな表情はすぐに消えた。
「なるほど」
むしろ少し感心しているようだ。
「それはいい考えだね。成功作はできたの?」
「うん。今から大量生産に入ろうとしてたところ」
エルトは言いながら溜め息をついた。
「皆を驚かせたかったのに……」
「驚かせればいいさ。僕は誰にも言うつもりはないよ」
エルトはその言葉に、ちらりとレインを見上げた。こちらを見ていない、淡い紫の瞳。そこに映るものはいつもひとつで、他は全て、彼は見ない。
「レイン」
エルトが呼びかけると、レインはこちらを向いた。やっぱり自分の姿は映っていないな、と思えた。
「僕も、他の仲間も、君にとって、本当に駒に過ぎないの? 躊躇いなく犠牲にできてしまうのか? 自分自身ですら、オーリエイトを守るための、ただの盾?」
レインには迷いがなかった。ふっと感情のこもらない笑みを浮かべて、天気の話しでもするような気軽さで肯定した。
「そうだよ」
エルトは俯いた。どうしてこんな生き方しか彼に与えられなかったのか、哀れに思えた。
「それって、愛なのか? もう少しわがままなことも考えるのが、好きだってことじゃないのか?」
レインは少しの間、考えた。
「どうだろう。僕はこれしか知らないから。執着が愛だというなら、僕がオーリエイトに抱いているのは間違いなく恋情だよ。手に入れたいし独占したい。もっと手を差し伸べて欲しい、手を離さないで欲しい、他のやつなんて誰も見ないで欲しい。彼女に対する欲ならいくらでもあるさ」
「そうかな」
エルトはやっぱり腑に落ちなかった。レインの態度は、いつもいつも、どこまでも独りだ。そう感じていた。
「確かにレインはよくオーリエイトを口説いてるよ。キス魔だってリオが言うくらい、不意打ちだってしてた。でも、それ、見返りを求めてた? オーリエイトがどう思おうと、気にしてなかったみたいに見える」
「…………」
レインは困ったように黙り込む。すぐそばのいすに腰掛けて、足を組んだ。
「なんだろうね。もちろん見返りは欲しいよ。でも、見返りが来なかったからといってどうこうするつもりはないんだ」
なんて、一方的な。
「それに今は、彼女の安全が第一だからね。導く者なんて、戦争で軍を率いろだなんて、命と命のやり取りなんて認められない。けど、彼女がやるというなら仕方ない。僕は全力で彼女を守るだけ」
「それが、オーリエイトが望まないものだとしても?」
レインは笑った。
「そう」
どこまでこの少年は独りなのだろう。
「でもね、オーリエイト自身が本当に死を望むなら」
彼は眼を細めた。瞳の色がかげる。
「その時は僕が殺してもいいと思ってるよ」
エルトは歯を噛み締めた。レインは――やっぱり、怖い。
「君って余裕がないんだな」
思わずそう呟いた。
「その冷酷さ、冷静さ、距離感、愛情、全部切羽詰ってる。一緒にいると不安になる。正直に言うと、君が怖いよ、レイン」
レインはふうん、と呟いて、興味深そうにエルトを見上げた。隙のない笑みは、やはり切羽詰っていた。
「驚いた。そこまで僕を理解してくれてたんだね。そうさ、僕は余裕なんてないよ。あるふりをしてるだけ」
前髪をかき上げたレインの仕草の下に、ほんの一瞬、仮面をかぶらない本当の彼の表情が見えた気がしたが、はっきりと掴む前にそれは消えた。代わりに浮かんだのは驚きの表情。その表情だけは割合素直で、エルトもつられて、その視線の先にあった窓の外に目を向けた。
今日は晴れていた。雪の照り返しが目に痛いほど眩しい中で、裏庭園を歩く人影が二つ。常緑の植木が形作る通路の間を、どちらからともなくより添うように歩いている。
片方の人影は、よく見慣れた太陽の色の金髪を持っていたが、ライリスにしては背が高すぎるし、ライリスのように細い体ではない。呆気にとられてエルトは二人を注視した。なんで。いつから。
女王の表情は穏やかだった。その手をとるヘイヴン氏も落ち着いていた。二人は、安定した関係の恋人同士のようだった。崩壊の兆しも、暗い影もない、ごく幸せそうな光景。
「……あそこは上手くいったんだ」
レインが溜め息とともに呟いた。エルトは思わず彼の横顔を見る。複雑かつうらやましそうな表情に気づいて、ああ、オーリエイトのことを思っているんだなと簡単に分かった。うらやましいんだ。オーリエイトが絡む時だけはやっぱり素直で人間らしい表情が出るようだ。しかしそれは、むしろ不穏な兆候に思えた。
――手を差し伸べなければよかった。
オーリエイトはそう言っていた。「アリスの時もそう思ったのに」と。あの、地上軍を裏切った、レインと同じ水の守護者だ。どういう意味だろう。たった一人に、人の持つ執着の全てを傾ける、その危険性。
「レイン……」
思わず声をかければ、彼はすぐに元の、何を考えているか分からない、仮面をかぶった表情に戻った。
「そうだ、エルト。ちょうど分けて欲しい薬があるんだ。たまには僕の呪符のお返しをしないかい?」
綺麗ともいえるその微笑みに、この少年と自分が分かりあうことはないのだろう、誰も分かり合えないのだろう、とエルトは感じていた。
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ある夜に、夢をみた。最近よく見る降魔戦争の夢だ。リオはいつだって母の視線だった。日記が夢を見せてくれているのか、母が見せてくれているのかは分からないけれど、降魔戦争を知るにはちょうどよかったので、リオも起きた後も夢を覚えていられるように努力していた。どうせ今は天幕に軟禁されているので、昼間でも夢のことを考える時間は有り余るほどあるのである。
今度の夢で、母に話しかけてきたのはアリス・ラーナーだった。
「ねえ、エレイン」
この人は母をエレインと呼んでいたんだな、とリオは思う。まだ裏切る前のようだ。仲間だったんだな、と実感すると、その後のことを思えば切ない。
「グロリアがどこに行ったか知らない?」
母の視線が揺れた。
「何か大事な用事なの?」
「いいえ、別に」
「……ねえアリス、そういうの、よくないわ。あなたいつでもグロリアにくっついているじゃない」
母の声は心配そうだ。しかしアリスは、煩わしそうな視線を向けた。
「私に意見するのはやめて。命に換えてもも良いほど大切な友人がいるなんて、貴女にはわからないわよ」
明らかに、サタンの妹である母を信用していない様子だ。
「まあ、あなたたちは死なないものね」
皮肉るように付け加えたアリスに、母はむっとしたように言った。
「決め付けないで。命の尊さぐらい知ってるわ」
アリスは冷ややかに言った。
「いいえ、あなたと私たちは違うわ」
「……あなた、どうしてそんなに余裕のない生き方をするの」
アリスは下ろしかけた天幕の入り口をまた上げて、こちらを見た。
「余裕のない?」
「だってそうじゃない。あなたは必死すぎて、がむしゃらすぎるのよ。そんな生き方をしているのを見ると、アリス、あなたが怖くなるわ」
「驚いたわ」
アリスは少し、皮肉気に笑った。
「私をそこまで観察して、理解していたのね。あなたをみくびっていたようだわ。さすが魔王の妹」
「お兄様のことは私の前で口にしないで」
ふ、とアリスは笑い、今度こそ天幕を出て行った。
場面が変わった。リオが見る夢は頻繁に飛ぶ。母は走っていた。目の前の天幕に飛び込み、中にいたグロリアに駆け寄る。
「グロリア! おかえり、どうだった? 大丈夫?」
グロリアは青ざめていた。小机に手を突いて、やっと自分を支えているようにも見える。今のオーリエイトより、多少感情の揺れの大きい人のようだ。
「アリスには会えなかったわ」
グロリアはそう言った。
「大失敗よ。ざまないわね……」
「そんな」
「だから、戻ってくるように説得すらできなかったの。代わりに……」
グロリアはそこで言葉を途切れさせ、ごくりと唾を飲み込んだ。
「サタンに会ったわ」
「お兄様に……」
母の声が揺れる。母がそっと手を伸ばして、グロリアの腕に触れた。
「酷いこと、されなかった?」
「酷いことはされていないわ。でも」
グロリアの声が小さくなる。
「私を手に入れたいって」
「はい?」
母の声はむしろ間抜けに聞こえた。あまりに予想外の言葉だったに違いない。グロリアは続けた。
「女としてか、人材としてか……とてつもなく興味をもたれているわ」
「変だわ。一人の人間に執着するようなお兄様じゃないのに」
グロリアは顔を上げ、深紅の髪の間から金の瞳を鈍く光らせた。
「でも、執着してきたわ。それこそアリスのように。……アリスが何か吹き込んだのよ」
「……それによって、あなたを守るために?」
「そんなところでしょうね」
ふう、と短く溜め息をつき、グロリアは乱れた髪を肩の後ろへと払う。ゆっくりとベッドの方まで歩いていって、彼女はベッドに腰を下ろした。こちらを見ようとはしない。顔を合わせるのが怖いようだ。
「幸い、隙をみて戻ってこれたけれど、危うく帰してもらえないところだったわ。……アリスが怖い。なにをするつもりなのかしら」
そして、呟いた。
「手を差し伸べなければ、よかった」
エレインはグロリアに駆け寄る。そしてそのまま彼女を抱きしめた。グロリアの深紅の髪が視界を占める。
「諦めないで、グロリア」
母がそういった。
「……諦めないで。あなたは私たちの導きなんだから」
そして、また場面が変わった。アリスが冷酷な、そしてどこか悲しげな目をしてこちらと向かい合っていた。周りには誰もいない。大きな岩と、石がごろごろ転がる荒れた場所。しかし、向こうのほうには煙が見えた。炎の紅を映してゆらめく煙。そして戦士たちの叫び。
風が強くて、母の銀髪が時折目の前を遮る。母がアリスに向かって必死に叫んでいた。
「やめて」
それはすがるような声。
「お願い、そんなことしないで。私たち、仲間でしょう。どうして……あなたは守護者なのに! 行かないで!」
暗雲の立ち込める暗い空。アリスのライトブラウンの髪も、日の光をはじいて金色に透けたりしない。濁った、世界の色。
「私たちには分が悪かったのよ、エレイン。神に逆らったのが間違いだったんだわ。もうこんな戦争、やるだけ無駄よ」
アリスの声は静かで、諭すようだった。もう覆らない決心でも、それでも思いを届けたくて、一生懸命に母が言う。
「そんなことはないわ。向こう側だった私がこちらに寝返ったのよ、それを希望だと思わない? 私がこちらに来たのよ。勝てると、勝たなきゃいけないと思ったからよ!」
「そうね。私もそう考えたのよ」
アリスは薄く笑って言った。あまりに揺らがない、それでいて刃の上を渡るような危うい笑顔。
「あなたも裏切り者だから、私の気持ち、分かるでしょう。やっぱり行かせてもらうわ。私は、この軍にはもう用はないの」
「分かるわけないわ! あなたの気持ちなんて、ちっとも分からない!分かってなんてやらないわ、アリス、行かないで。おねがい、グロリアだってあなたに行って欲しくないはずよ!」
アリスは一瞬表情を歪ませたが、やはり静かに言った。
「私たち、案外似ていたのかもね。自分の守りたいもののために、仲間すら見捨てる」
アリスはぽうっと魔法を灯した。そして、決意を秘めた者の哀しさと冷たさをたたえた瞳で母を見据え、静かに告げた。
「だから、餞別を贈る相手は」
魔法が放たれる。
「あなたを選ぶわ。さようなら、エレイン」
魔法の直撃を受けた母が悲鳴を上げた。魔法は本気だった。本気で命を奪いかねない魔法だった。
同時にリオは激しく揺さぶられる感覚を覚えた。はっと目が覚める。そこで初めて、リオは自分も叫んでいるのに気がついて、我に帰って叫び止んだ。たっぷり汗をかいていた。
「姉ちゃん、姉ちゃん、大丈夫か?」
リオを揺さぶっていた張本人のカインが、こわごわとリオに声をかける。
「平気。変な夢をみただけ」
リオは急いで言う。寝起きだというのに心臓が早鐘を打っていた。
心底目が覚めたことにほっとしながら、リオは漠然と思った。
――似ている。レインとアリスは、本当にとてもよく似ている、と。
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