リオの悲鳴を聞いたのだろう、ベリアルが駆けつけてきた。リオはメフィストフェレスに髪を掴まれ、引き立てられているところだった。ベリアルは驚いた顔をし、厳しくメフィストフェレスを咎めた。
「メフィスト、やめろ。仮にもサタン様の姪御なのだよ」
「何が姪だ、構うものか。全部こいつの仕業なのだからな!」
ベリアルは眉をひそめた。
「何故レオリアだと思うのだ? 証拠はあるのか」
メフィストフェレスは返事に詰まる。ベリアルは更に言った。
「神力も持たぬ小娘だ。宣伝力以外には大した価値もないとお前も言っていたではないか。なぜレオリアを疑う?」
メフィストフェレスは吐き捨てるように言った。
「他に疑わしい者がおらぬではないか! 我々の隊には目くらましの術がかけられている。外から見つかる可能性はない。外部の者が侵入して、その上兵器の存在を知って、かかっていた術だけを解いて去ることなど不可能だ!」
「お前の推理はもっともだがな、メフィスト。大事なことを忘れておるよ。かかっていた魔法ごと対象物を壊すのは可能だが、一度かけられた魔法を、効力があるうちに解いてしまうなどという能力を持つ者は、この世にただ一人だということを」
リオはメフィストフェレスに吊り上げられながらも、その言葉を聞いて目を見開いた。ただ一人? 魔法を解ける者が?
メフィストフェレスも黙っていた。そしてぽつりと言う。
「……行方不明のはずだ」
「そうだとも。歴史から消え去った存在だが、こんな時にひょっこり現れると思うか? それとも、レオリアがそれだというのか?」
「ありえなくはない。リリスが魂を保管していたと考えれば」
「まさか」
「ふん、それならば……」
メフィストフェレスはキッとリオを睨み、すっと手を上げた。
「試してみれば、分かることだ」
避ける暇など当然ないし、こういう展開になることなんて予想できなかった。閃光を見た瞬間、歪みの魔法だということに気付いたリオは、自己防衛するしかなかった。目を必死に瞑り、魔法を拒絶する。クローゼラにもこの魔法をかけられたことを、思い出した。
――そうだ、あの時も。ウィルの魔法を受けて無事だったのも。全部、この能力があったからこそ。
パアンと弾け飛んだ魔法を見て、ベリアルも、周りの悪魔たちも絶句した。さっきまでの騒ぎが嘘のように静まり返る。リオは、たった今時分がまずいことをしたのだと、直感的に感じていた。多分、この力は、見せてはいけなかった。
「レオリア……お前は……」
他のどの魔法使いとも、どの悪魔とも、どの天使とも違う。神々すら持たない、能力の持ち主。魔法を見、操作し、消すことのできる者。
「――闇の守護者、なのか?」
“もしかして、教会には元々、二人の聖者がいたの?”
“あたりです。リオは勘が良いですね”
あたしが――?
魔力も持たないのに? 魔王の姪なのに?
「……あたしが?」
「一目瞭然だ」
メフィストフェレスが言った。
「怪奇現象の正体が割れたな。さて、どう言い訳をするんだ? また綺麗事を並べ立てるか? ――何とか言え、レオリア!!」
メフィストフェレスの怒鳴り声が頭に響く。呆然とするリオに、ベリアルも冷ややかな目を向けた。
「お前がやったのか。今までの怪奇現象全部、その上我々が苦労して仕上げた兵器を台無しにしたのか」
リオは答えられなかった。どうせ黙っていたって肯定になってしまう。
「とんでもない拾い物だったようだな。クローゼラは気付いていなかったのか? ……間抜けなものだ、追っていたくせに。本人には自覚がなかったと見えるな。なんだ、そこら辺に転がっている能力だとでも思ったのかえ? 旧神の創った厄介者よ」
リオは答えられなかった。メフィストフェレスがフンと鼻を鳴らす。
「こいつは黒で間違いない。いつもの反抗的な態度が、今はどうだ? 言い訳も開き直りもしないではないか! 都に着いたら地下牢に閉じ込めてくれるわ! それまで手足を縛って、一歩も動けぬようにしておけ! ベリアル、もうこいつの肩を持つことは許さぬぞ!」
「我とてその気はない」
ベリアルは冷ややかに言った。
「お前を甘く見すぎていたようだ、レオリア。さすがはリリスの娘だな。メフィストが正しかったようだ。処断をせいぜい楽しみにするがいい」
怖くないといえば嘘になるが、まだ頭が冷えていないこともあって、リオは抵抗しなかった。メフィストフェレスの言葉は忠実に守られ、リオは本当に手足を縛られて(一応、痛くないような布を使ってもらえたが)荷車に放り込まれ、二人の屈強な悪魔に見張られることになった。
リオは冷たい外気の吹き込んでくる荷車の中で震えながら、目を閉じた。今考え事をしても、きっと自分の思考回路はこんがらがって、パニックになるだけだ。そう判断して、リオは眠ることにした――。
夢をみた。ウィルがそこにいた。眩しい光の中で、逆光を浴びて立っている。口ずさんでいるのはあの歌だった。
「暁の空に星ひとつ 海に落ちて波ひとつ
赤い花は地に落ちて 青い花は天に舞う
摘んで 刈って 摘んで 刈って
最後の星は溶けて消えた
あなたの星はどこにある?
星の鍵のありかには ひとつふたつと花が咲く」
強烈なほどに、懐かしい歌だと思った。ウィル、と思わず声を上げて叫ぶ。
ウィル、ウィル、ウィル。あたし、知ってる。赤も青も、白も黒も知ってる。ねえ、こっちを向いて。あたしはここにいるの――あなたの闇は、ここにいる。
ウィルは振り返って、リオを見つけた。嬉しそうな表情が、地平線からのぞいた日の光が天に広がるように、ぱあっとその顔に広がる。
「リオ! 探しました」
彼は、そういった。
「光と闇は表裏一体なんです。……もう、依存でも構いません。一緒に行きましょう、リオ」
その誘惑の、なんと甘いことか。嬉しくて涙が出て、リオは差し出されたウィルの手につかまろうとした。あたしはウィルと、切っても切れない縁があるんだ。
その時、突然声がした。クローゼラの、涼を振るような、しかし冷たい声だった。
「汚い手で、わたくしのウィルに触れないで。エレインの子――異端の子」
目が覚めた。荷車はガタゴト揺れていて、硬い床に寝ていたせいで体中が痛い。起き上がると、リオはこっそり、布の隙間から外を覗いてみた。
外は街だった。とても大きな街――だった、のだろう。今や崩れ落ちるやら燃えカスが残っているだけやら、散々な状態だ。人の影はなかったが、遠くの空が赤く染まっていた。その方向から、爆発音や鬨の声が聞こえてきている。
リオは慌てて布を閉めた。残酷な場面は、見慣れていても、苦手なものは苦手だ。――故郷を思い出す。
それにしても、とリオは膝を抱えた。良い夢だった。……ウィル。
「好きだよ」
ポツリと呟いてみたら、余計に悲しくなった。決して届かない告白。
「好き、だよ……」
闇だから、という単純な理由なのかもしれない。自分の持つ性質がことごとく闇なのは、闇の守護者だから。だから、光に惹かれる。光を慕う。そういう理由で誰かをこんなに好きになるのは、なんだか自分の本心から好きになったわけではないような気がして、少し嫌だった。
それに、自分はサタンの血縁者だ。悪魔の血が流れている。――魔性はこの体に染み付いているのだ。
闇の守護者か、とリオは思う。驚いた。まさか自分が。既にサタンの姪という、サタンに最も近い身の上を持っているのに、この上もう一つ、世界に唯一無二の身の上を背負ってしまっていたとは。
責任感とかショックとかを超越して、リオはただ、納得していた。それで、いつも闇を見ざるを得なかったのか、と。人の闇に触れてばかりだったのは、このせいだったのか、と。
もしかしたら、触れていないと不安だったからに過ぎないのかもしれない。闇だから、見ていないと不安になるのだ。汚くて醜いものを見ていないと、綺麗なものが分からなくて、光が分からなくて不安なだけ。闇の中だと何も見えないから、見るだけじゃ飽き足らずに触れていようとするだけ。
そして、見てくれる、触れてくれるリオに、皆は心を開いて、リオを愛してくれる。だから、闇と言われ続け、実際に闇だったと言われても、驚きよりも、これで辻褄が合った、という思いのほうが強かったのだ。
「帰りたいな……」
どうしてか、強烈にそう思った。悪魔は闇を必要としない。綺麗なのだ。彼らは綺麗で、何もかもが整然としていて怖い。帰って、みんなのあの闇の中に浸っていたい。
「会いたい」
皆に会いたい。
「ウィル……」
光が、欲しい。
「ウィル……ウィルっ……!」
愛されたい。そして何より――愛したい。
許されるなら、もう一度帰りたい。もういてはいけないあの場所に。
魔王の姪なんて、なりたくない。悪魔たちと一緒にいたくない!
――血の繋がりって、かたい?
――かたいよ。どうしても。
この魔性を、誰か助けて。秩序と責務を捨てきれない、悪魔の性を。
“異端の子”
帰りたい。
“君のせいだ。君なんて要らない”
レインの言葉が蘇ってきて、リオは力なく床にへたり込んだ。
「要らない、か……」
今になると、余計に心に突き刺さる言葉だ。
「ねえ、ウィル」
リオは空に向かって問いかけた。色違いの視線が脳裏に浮かぶ。
「今でも、何もないあたしが欲しいって、あなたは言える?」
外の喧騒が少し遠のく。周りで声がし始めた。目的の城に、もうすぐ着くようだ。
リオは膝を抱えて顔を伏せ、ただもう一度、会いたい、と呟いた。
|