EVER...
chapter:2-story:48
牢の中

 


 翌朝、リオの目が覚めたのは悲鳴を聞いたからだった。一体どんな苦痛を感じているのか、怖くなって耳をふさぎたくなるくらいの悲鳴だった。
「……拷問ですよ」
 リオが目を覚ましたのに気づいて、隣の牢のクイが言った。
「今夜は眠れないのを覚悟した方が良さそうですね」
「夜通し続くの?」
 リオが聞くと、クイは頷いた。
「夜通しどころか数日続くこともあります。……いずれ僕の番にもなるのでしょう」
 リオは身震いした。
「なんて場所なのかしら……」
「悪魔に捕虜として捕まるというのはそういうことです」
 クイは絶望的にそう言った。

 しかし、しばらくして悲鳴は止んだ。リオはクイに言った。
「ねえ、終わったみたい」
「……目をそらしていた方が良いですよ」
「え?」
「娘さんには酷です」
 何のことか分からずにきょとんとしていたリオだったが、奥から担架に乗せられて運び出されてくる何かを見つけて慌てて目をそらした。心臓が早鐘のように鳴り響いている。――死んだんだ。そう理解した。声も出なかった。
 怖くて怖くて、涙が出そうだった。戦争って、なんて酷い。
 その上、代わりに別の悲鳴が上がり始めた。耳をふさいでも、どうしても聞こえてしまう。体が震え始めたのは、寒さだけが理由ではなくなった。悲鳴を上げさせている人達は、直にそんな光景を見ていて平気なのだろうかと不思議でならない。
 ――ウィルも、こうやって聞かせられていたのだろうか。
 悲鳴は本当に夜通し続き、リオは眠れなかった。じわじわと疲労が体を蝕むし、代わる代わる上がる悲鳴に、精神的にも辛かった。時折クイと交わす言葉だけが救いだ。

「……クイさんは、もう慣れたんですか」
 ぐったりしながら聞くと、彼は苦笑した。
「一カ月いますからね。さすがに」
「辛くない?」
「もう、諦めました」
 リオは黙っていた。一カ月したら自分も同じように諦めてしまうのだろうか。
「あたしは、諦めたくないな……」
 呟いた声はどうしても小さくなってしまうけど。
「俺は諦めないぞ」
 クイの斜め向かいの牢の人が、急に口を挟んだ。
「諦めたら本当に終わりだ。……そりゃあ、諦めが肝心なんて言葉も世の中には存在するけどさ、それは諦めでできた時間を他で有効活用できる場合に言うものだ。今の状況じゃ、有効活用する対象がないからな、活用するなら助かる方向にするさ」
 リオはそれを聞いて、少し微笑むことができた。
「あなたも、宮廷魔法使いさんですか?」
 聞いたら、笑われた。
「まさか。俺はそんなお偉いさんじゃねぇよ。俺はただの庭師」
「なんで捕まったんですか?」
「知るかよ、悪魔の考えることなんて」
 その悪魔の血が自分にも半分流れていると知れたらどうなるんだろう、とリオは暗い思いで考えた。
「あいつらは慈悲のかけらもねぇ。昔神様だったなんて絶対大嘘だな。どこが神だ、かたはらいたいわ」
 ちょっとそこまで言うのはまずいのでは、とリオは思って不安になって周りを見回した。
「……聞かれていたらまずいんじゃ」
 言った矢先、看守が彼の牢に近づいた。さすがに彼もびくりと肩を震わせて固まる。看守は牢を開け、彼に短く、出ろ、と言った。逃げることはできまい。リオは両手で顔を覆い、呻きたくなるのを我慢した。
 彼が牢から出る気配がしたのでリオはもう一度彼を見上げた。押さえ切れない恐怖が表情にあふれている。手を差し伸べたい。のに、できない。
「諦めないで」
 聞こえたかどうか分からないくらい、リオは小さく呟いた。彼はこちらをちらりと見たが、何も言わずに連れて行かれた。

 結局、彼は戻ってこなかった。こんな恐怖はない。次は自分なのではと思うと、希望すら口にできなくなってしまった。何にすがれば良いのか分からない。
「……分かったでしょう」
 クイがポツリと言った。
「いずれは自分の番が来ます。希望をつぶされる恐怖で怯えるより、希望など手放した方が楽なんです」
 リオには既に反論できなかった。お仕置きの意味が分かった気がした。ここに移されることは多分、クローゼラに嘲りの言葉を浴びせられ続けることよりずっと辛い。敵に何か言われるだけなら、意地と信念で撥ね除けることができた。けれど、ここは……。
「誰か……」
 もう、光りが。
「……助けて」
 見えない。


 翌日、空いた牢には新たな捕虜が入った。年の行った女性で、リオは一度話しかけようと試みたが、完全に怯え切っている彼女はどうにもならなかった。ずっと頭を抱えたままうずくまっていて、時々思い出したように悲鳴を上げる。見ている方が辛くなるくらいだった。

「この牢にいる人達は、たとえ殺されなくても、遅かれ早かれああなるんでしょうね」
 空虚な声で言ったクイに、リオは尋ねた。
「いつもそんな絶望的なことを言ってるけど、クイさんには会いたい人とか、守りたいものとかないんですか?」
「それは……ありますけど」
 クイは視線をそらした。
「……妻と、息子が二人いるんです」
 リオは顔を上げた。
「そうだったんですか」
 クイはそれ以上何も言わない。リオは少し微笑んだ。
「やっぱり、生きましょうよ」
 クイはやはり何も言わなかった。

 しかし、クイと言葉を交わす時間も減りつつあった。一生懸命気を保とうとしていても、少しずつ自分が侵食されていっているのが感じられる。感情を押し殺していないと崩壊しそうだった。
 ところがそのまた翌日になって、突然リオの牢を訪れた者がいた。
「姉ちゃん」
 押し殺した声を聞いて、リオは顔を上げた。自分でも驚くくらいに嬉しかった。
「カイン! よかった、あなた、クローゼラに何かされてない?」
「俺は平気。姉ちゃん、自分のことを心配しろよ。すっげー顔色悪い。ちゃんと食べてるのか?」
 リオは泣きそうになりながら笑った。カインは戸惑ったように視線を泳がせたが、リオに顔を近づけて言った。
「クローゼラから伝言だ。血の契約をするなら牢の奴らは助けてやるって」
「……全員?」
「そう。全員」
「遅いよ。もう何人も死んだのに……!」
「俺に言われても困る。呑まなければ次は姉ちゃんだって言ってたぞ。なあ姉ちゃん、死ぬよりはマシだろ、呑んじゃえよ」
 リオは黙り込むしかなかった。そんなこと言われても。

「……カインは、好きな人と世界とだったら、どっちを選ぶ?」
 唐突な質問に、カインは目を瞬いた。
「さあ。世界かな」
「どうでもいいって言っていたくせに」
「それとこれとは別だ。感情に任せるのは良くない」
「……あなたも新神ね」
「当たり前だろう。姉ちゃんもだぞ。サタンの姪のくせに」
 カインはそう叱咤した後、いつになく不安そうな顔になった。
「お願いだよ、姉ちゃん、契約を呑んで帰って来て」
 リオは思わずカインを見つめた。……寂しいのか。自分を必要としてくれているのか。
「……カイン」
「そんな声出すな」
 恥ずかしくなったのか、カインは怒ったようにそう言った。
「あんまり長引かせると、クローゼラはもっと残酷な手に出るぞ。姉ちゃん、壊れる前に自主回避した方が良い」
「でも……」
「俺だって姉ちゃんの壊れるところ、見たくないんだからな」
 言うとカインは、格子の間に手を差し入れて、リオの手を握った。
「もう時間だ。行かなきゃ」
 そしてきびすを返すと走り去ってしまった。

 リオはまだカインの手の感覚が残る手をそっと握り締め、黙っていた。――もっと残酷な手って? 震えが背筋に走った。怖い。
「ウィル……」
 こんな時に、彼がそばにいてくれたら。

「リオ、さん」
 クイに声をかけられて、リオは顔を上げた。彼はひどく厳しい表情をしていた。
「今の、悪魔ですよね」
 リオは言葉に詰まった。
「姉ちゃん、と呼んでいましたね。あなたも悪魔なのだと言っていましたね。……魔王の、姪だと」
「そ、それは……」
「騙していたのですか。罠ですか」
「違うわ」
「なら、なぜ魔王の血族のあなたが牢にいるのです」
「あたしはあの人たちのやり方に反対して……」
「それでも、悪魔なのでしょう」
 また、仲良くなれた人が離れて行く。その感覚を感じてリオは言葉が喉につかえたように、何かを言いたいのに苦しくて言い出せなかった。代わりに、なぜか涙が出た。クイはそれを見ても表情を変えない。
「もう騙されませんよ……。希望を抱かせて潰すつもりだったんですね。親切に見せかけて。もう、何を言われても騙されませんから」
 違う、のに。
「違うわ」
 やっと、声が出た。
「どうしてそんなことを言うの。あたしにだって、会いたい人や守りたいものがあるの……自分が魔王の姪だったなんて、知りたくなかったくらいなのに!」
 クイは少し戸惑ったように見えた。リオは気持ちを吐き出し続けた。
「でも、あたしにはやっぱり悪魔の血が流れてて、どうにもできない。知っちゃったんだもの、気にしないなんて言えない。それでも、できることはしようと思ったから、ここにいるのに!」
「……リオさん」
 クイは呟いて、疲れたようにため息をついた。
「わかりましたから、あまり大きな声を出さないでください。……僕も少し混乱しているんです。少し、考えておきます」
 リオは頷いたが、クイの方は見ずに膝に顔をうずめた。

 遠くではまだ、悲鳴が続いている。じわじわと覆ってくる恐怖と絶望に耐えながら、リオはもう一度言った。

「あたしは、生きたい……愛して、愛されたい」

 たったそれだけのことが難しい世界でも、愛した人が生きた世界だから。――生き抜きたい、のだ。





最終改訂 2008/11/11