EVER...
chapter:2-story:50
暗黒
 

 


 リオは膝に顔をうずめてずっとうずくまっていた。大したお仕置きだ。効果は抜群。もうリオは何もかも投げ出したくなっていた。たった1、2週間でこうだというのに、ウィルはこんな女神といてあの純粋さを保っていられたのか。強すぎる。
 気配がした時にもリオは最初、動かなかった。クイのあとがまに入ってくる人の顔なんて見たくなかったのだ。しかし、予想外の声に、リオは結局弾かれたように顔を上げた。
「リオさん」
 連れて行かれたはずのクイだった。
「クイさん! どうして……」
 思わず駆け寄り、格子の一歩手前で一瞬考えた。誰かがクイに変装しているとか、変身しているとか、こんなのは考えたくないが皮を被っているのではないかと思ったのだ。リオの迷いを見て取ったのか、クイは少し苦笑した。
「私ですよ。シュカとオーシスの父です。こう言えば信じていただけますか」
「クイさん……」
 何もされなかったのだろうか。少なくとも、拷問を受けたような様子はない。それが逆に不自然に思えた。
「大丈夫なの?」
「ええ、私は大丈夫です」
「よかった」
 思わず息を吐いたが、自分が言えた義理ではないなとリオは気付いた。クイが危険な目にあったのは自分のせいなのだ。
「ごめんなさい」
 言ったら涙が出そうになった。
「ごめんなさい。あたし、クイさんを殺してたかもしれないのに」
「いいえ……」
 クイの顔が不意に歪む。その表情に、リオは敏感に葛藤と強い願望を感じ取った。闇に属する負の感情。はっと顔を上げたら、クイの、ひどく押し殺した表情に出会った。
「私も、あなたに対して罪を負いますから」
 胸元に短剣が突き付けられていた。一思いに刺して来なかったのがクイの迷いの現れとも言えた。
 胸に当たる刃先の感触に呆然とするリオを見て、クイは歪んだ笑みを見せる。
「逃げないのですね。せっかく逃げる猶予を与えたのに。これではあなたを殺すしかないではありませんか」
「ど、どうして」
 クイは何も言わなかったが、理由の想像は付く。助ける代わりにリオを殺すように言われたとか、そんなところだろう。
 ぐ、と刃先が押し付けられる力が強くなった。痛い。逃げられない。逃げない。逃げたくない。これは、だれ? この人をこうさせたのはだれ?
 生きよう、と希望を与えたのは自分だ。クイは今、必死に生き延びようとしている。

 あたしのせいだ。

「いいよ」
 リオは目を閉じた。最後の最後でも命にしがみつく自分が許せなくなるが、こうすればクイが迷うと分かっていた。なんて卑怯な自分。
「好きにして」
 案の定クイはリオの態度に意表を突かれたように手を止めた。優しい人だ。弱いけれど、優しい人だ。どことなく神父様の陰を重ねてしまう。非情になりきれない、優しい人。
「私は」
 クイが言った。
「自分の代わりにあなたを犠牲にしようとしているんですよ」
「うん」
「自分勝手な理由であなたを殺そうと」
「うん。逆の立場でも、あたしもそうしたかも知れないわ」
 これは本心だった。リオだって弱いのだ。クイは顔を歪めてリオを見つめた。
「あなたは魔王の姪です」
「うん、いなくなったら随分地上軍には嬉しいことだろうね」
 自分で言っていて辛くなるがこれも事実だ。
「リオさん」
 クイの息が乱れる。
「……できません」
 ほら、やっぱり優しい人だ。リオは聞いた。
「見張りがいるんじゃないの? あなたがちゃんと仕事を遂行するように見張ってる人が」
「いますが……できません」
 リオは顔を上げてクイを見た。短剣がリオの胸元から降ろされる。
 ああ、人ってこんなに愛しいんだ。醜くて、綺麗で、優しくて残酷で。
「クイさん」
「……はい」
「あたしはみんなで生きたい。誰かを切り捨てて生きたいわけじゃないの。だから、自分が死んで誰かの代わりにもなりたくない」
 とんでもないわがままだ。誰が死んでもおかしくないのに、みんなで生きたいなどと。
「殺すなら、あたしが背負ってきた分の責任と役割を代わりに背負ってよ。それが人一人の命の重さよ」
 クイが苦しそうな顔をした。
「私は小心者です。背負えません」
 リオは微笑んだ。結局人が人を殺せない理由など、こんなものだろう。けれど、それでもその愚かさは優しいから、愛しい。
「じゃあみんなで背負おう? ねえ、あの人たちに何を言われたのかは知らないけど、こんなことダメだよ。子供さんになんて言うつもり?」
「…………」
「クイさんが無事でいてくれて嬉しい。殺していたのはあたしの方だったかもしれないもの。だからやっぱり、みんなで生きたいのよ。お願い、力を貸して」
 クイはしばらく迷うようにしていたが、やがて少し、微笑んだ。
「は……」

 い、と続くはずの肯定の言葉だたのだろう。リオはクローゼラと悪魔たちの残忍さを見誤っていた。
 目の前の顔が飛んだ。微笑みが飛んだ。文字通りに。

 何が起きたか分からなかったリオは格子の前で一歩も動けなかった。今のは、なに。顔にかかる温かいものはなに。どうして目の前が、悪魔の目の色でいっぱいなのだろう。

 喉の奥が引きつった。残された下の部分がぐらりと奇妙に傾いで、地面に重たげに倒れた。今まで笑っていたはずの、愚かで優しい人がモノになった。
 クローゼラが微笑んでいた。殺意を秘めた氷の微笑みで。
「バカな人。一字一句聞いていると想像もつかなかったのかしら」
 歌うような甘い声はいっそ場違いなほどだ。
「子鼠ちゃん、あなたって本当に悪魔ね。甘くささやいて何もかも奪ってしまう悪魔。あんなふうにこれを丸め込んでしまうなんて、見直したわ」

 瞬間、激しい憎悪がリオの中に吹き上がった。
 悲鳴を上げた。何もかも忘れてしまいたい。愛しそうに息子たちの名前を口にしていたクイ。小さく呟かれたはいという言葉。できませんと震えて言っていた。なのに。なのに。一緒に生きようと、そう言ったのは自分なのに。
 クローゼラはリオの悲鳴に、うるさそうに眉をしかめただけだった。
「捕虜を牢から出してちょうだい。それにこの子鼠ちゃんも。子鼠ちゃんにはもう少し付き合ってもらわないと」
 リオの牢が開けられた。リオは連れ出されるのに必死に抵抗した。いやだ。こんな人の側に寄りたくない。しかし近くまで連れ出されれば、今度は衝動的に、がむしゃらにクローゼラに飛びかかろうとした。クイが持っていた短剣を拾い上げて投げ付けたが、届かなかった。
「どうして!? なんで! こんなっ……ひどい、ひどい、ひどい!!」
「あなたが選んだんじゃない。血の契約をすれば助けてあげると言ったのに」
 リオはこんなに激しい感情で誰かを睨んだことはなかった。視線で人を殺せるかもしれないと思ったほどだ。クローゼラは笑った。
「まだ怒ってるのね。怒れるうちはまだまだよ」
 その言葉に凍りつく。まさか、まだやめないつもりなのだろうか。悲鳴のように言った。
「もう、やめて」

「クローゼラ」
 その時、ベリアルが牢に来た。
「話は聞いた。少しやりすぎではないか?」
「あら、利用価値のある人だったの?」
「そういうわけではないが。これ以上やるとレオリアが使い物にならなくなるかも知れぬ」
「好都合だわ。人形の方が扱いやすいもの」
「それはそうだが、仮にもサタンさまの姪だ」
 クローゼラの表情が一層にこやかに、冷ややかになった。
「サタンさまはサタンさま。誰も代わりにはなれないし、玉座に据えるなんてとんでもないわ」
 ベリアルは不満そうだった。クローゼラがリオを指さす。
「この子鼠ちゃんは頑固なのよ。これくらいでもしないと折れないわ。それとも、カインを連れてくる?」
「やめて!!!」
 全身で悲鳴をあげたら、ベリアルはちらりと哀れむような目でリオを見た。
「よかろう、捕虜は好きにするがいい。だがカインにはちょっかいを出すでないよ。あれも一応仲間だ」
「分かったわ」
 クローゼラは笑む。そして視線をリオの背後へ移した。リオが背後を振り返ると、捕虜たちがめいめいボロボロになりながらも集められていた。いよいよ殺されるんだ、と半狂乱の者もいる。
 クローゼラは女神のように微笑みながら、歌うように言った。
「皆さん、お静かに」
 面白いくらいに、一瞬で静かになった。
 リオは怯え切った瞳でクローゼラを、そしてベリアルを見上げた。
「……やめて」
 もうそれは懇願だった。
「魔王の姪が、汚い人間のために命乞いをするの?」
「あなただって、人間じゃない!」
 リオが叫ぶとクローゼラは初めて笑みを消した。
「わたくしは女神よ」
 その時になってリオは初めて女神という呼称の意味に気づいた。新神にとっての主神はサタン。その伴侶である女神。そういうことか。そういう願いだったのだ。そして、神々のように、人一人の重さを何とも思わない。それが女神だ。

「魔王の姪……」
 後ろでは捕虜たちにかすかなざわめきが走っていた。
「魔王の……」
 捕虜の一人がヒッと声をあげてリオの前に転がり出て来た。
「お、お願いします。故郷で許婚が待っているんです……なんでもします、なんでもしますから、どうか命だけは」
「わ、わたしも何でもします! こちらの陣に入りますから……助けてください!」
 誰もが必死だ。リオはしかし、返事ができなかった。なぜあたしにすがるの。危ないよ。あたしから離れて。助けたいと思った人をことごとく殺してしまう性質の持ち主なのに。
「なんと、醜く自分勝手な」
 ベリアルが嫌そうに顔をしかめるのが見えた。違う、とリオは思う。確かに汚いだろう。自分かわいさで自分たちの世界を裏切ろうとしている人達。最低だ。けれど、その必死さはいっそ眩しい。生きたい、生きたいとあがく姿が愛しいのに。
「ほんとう。醜いわ」
 クローゼラも言った。微笑みが戻っている。
 リオは息も絶え絶えに、もう一度言った。
「やめて」
「いいえ」
 “女神”が微笑む。
「やめないわ」

 クローゼラの杖が捕虜たちの方を向いて、一瞬光ったかを思うと、捕虜の半分ほどが石になった。隣人の突然の変貌に多くの人々が声をあげる。リオが反応する前にクローゼラはさらにもう一度魔法を使った。石になった人々が粉々に砕け散った。
 リオは悲鳴をあげてクローゼラの前に飛び出した。放出されようとしていた次の魔法を、ありったけの力で消し去る。邪魔をされたクローゼラは、一瞬激怒した顔をして、杖でリオをなぎ払った。吹っ飛ばされ、地面にしたたかに体を打ち付けたリオは一瞬息ができなかった。
 どうにか起き上がって背中を丸めていると、クローゼラが近づいてくる足音がした。
「このかけら、石化の魔法を解いてみましょうか」
 残酷にリオに囁く。
「あなたは私に魔法を使って欲しくないのね。願いどおり、かけた魔法を解いてあげる。そうしたら、あなたは満足? それとも、こんな粉々になってしまった人間は見たくない?」
 リオは顔をあげ、クローゼラを見つめた。クローゼラの薄桃色の瞳。甘く愛らしい色。血を薄めた色。

 唐突に笑いが込み上げて来た。どうしようもない。笑いながら、涙もこぼれた。泣いて笑うリオをクローゼラは笑みを崩さずに見つめている。
 そして、始めたと同じくらい唐突に、リオは笑い止んだ。ありったけの憎悪と嫌悪の目で、目の前の女神を睨んだ。

「契約するわ」

 もう、自分自身が崩壊寸前だった。リオには背負えない。こんな重いもの背負えない。背負いたくない。卑怯でもなんでも、背負いたくない。
「血の契約をする。だからこの人たちは放して」
「契約よ」
 クローゼラは満足そうに笑む。
「あなたは私達の人形ね。その代わりこの人たちは放してあげる」
「……あたしの魂、いらないの?」
「今はいらないわ。人形の方が役に立つもの。戦争が終わったら、その時に考えておくわ」
 鼻歌を歌い出しそうなクローゼラが背を向けようとしたので、リオは最後に精一杯の条件を提示した。
「この人たちを放さない限りは契約しないから!」
「大丈夫よ。契約は絶対だもの、わたしくしから破ったりはしないわ」
 にっこりと、笑みを残してクローゼラは牢を出て行った。残っていたベリアルがリオにちらりと視線を送る。
「自業自得だ」
「…………」
 その通りかもしれない。
「誰か、せめてレオリアを上の部屋に移してやれ。鍵は普通の鍵で事足りる。魔法錠では逆に解かれてしまうからな。私がクローゼラに伝えておこう」
 それだけ言うとベリアルも去って行った。

 誰かに体を起こされながら、リオは堅く口を閉ざして、泣いていた。
 クイさん。クイさん。
 ごめんなさい。あたしを許さないで。

 もう光が、
 消えた。





最終改訂 2008/12/11