EVER...
chapter:2-story:51
訪問者
 

 


 目の前に出されたのは契約書。自分の命を、魂を、意志を、自由を差し出すという神との契約書。リオは無感動に、その“紙切れ”を見つめていた。契約しても契約の呪いを自分で解いたりできるのだろうかと、ちらちらと燃えているクローゼラへの怒りで反抗的なことを考える。魂を繋がれるということは、自分の力の使い方にも制約が出るのだろうか。だとすればクローゼラの目的は、この魔法を操るという特殊能力を抑え込むことだろう。
 契約書を前に突っ立っていると、誰かが駆け込んで来た足音がした。
「姉ちゃん」
 リオは振り向いた。カインだった。
「姉ちゃん、大丈夫?」
「うん」
 リオは微笑もうとしたができなかった。
「……大丈夫」
「壊れるなよっ、契約済ませれば終わるから。壊れるなよ!」
 一生懸命、必死にリオのひびを埋めてくれようとしている。その気遣いが嬉しかったが、受けた傷があまりに深すぎてリオはやはり微笑めなかった。
「さあ」
 クローゼラが契約書をとんと指先で叩き、リオに小刀を差し出す。
「血の署名を、レオリア」
 レオリア。希望という意味の魔法言語、つまり神の言葉。なんという皮肉だろうとリオは思った。皮肉なことに、皮肉に笑みがこぼれた。最悪。
 受け取った刀を人差し指に当て、軽く引いた。赤が珠になって指先ににじむ。突き動かされるようにして、指を掲げ、その指を紙に這わせようとした。

 その時だった。ざわっと、急に大きく人垣が騒ぎ始めた。
「通すな!」
「しかしクローゼラの……」
「ベリアル様がおいでなのだぞ」
 そんな声が聞かれる。クローゼラは煩わしそうに言った。
「何の騒ぎ?」
「クローゼラ殿、ベリアル様。赤い風が――」
 一人がこちらに走って来ながら一際高く声を上げた。
「――導く者が、来ました!」

 どくりと心臓が跳ね上がった。

「え……」
 凍りつきそうなほどの衝撃だったのに、頭は勝手に振り返る。確かに一陣の赤い風とも見える深紅の髪がふわりと揺れたのが見えた。
「グロリア?」
 クローゼラが信じられないというように呟くのが聞こえた。オーリエイトは人垣の入り口まで来ると立ち止まり、懐かしすぎるくらい淡々とした冷静な声で言った。
「こんにちは、クローゼラ。ベリアル殿も、お久しぶりね」
「……随分若返ったではないか」
 ベリアルが言った。驚いてはいるようだが、さすがと言うか、表情の変化は少ない。
「何の用だ」
「その子を迎えに来たの」
 オーリエイトは、真っ直ぐにリオを指さした。懐かしい、静かで優しく鋭い金の瞳にからめとられて、リオは息ができなかった。その上、オーリエイトは一人ではなかった。
「リオ!」
 歌声と同じ、澄んだ声でリディアが声を上げた。隠し切れない喜びと安堵の声色が、どうしようもなくリオの心を揺さぶる。瞳の色で天使だと知れないように、瞳の色を細工してあるようだ。
 リディアは迷わず、リオに向かって駆け出して来た。こんな、悪魔の大群の中で。リオが多くの悪魔に囲まれているにもかかわらず。いつかの雨の森の中で、逃げたリオを追って来たことが思い出され、リオはたまらずに、包囲を破って同じくリディアに駆け寄った。今までの闇が濃すぎたばかりに、突然現れた光は強烈だった。
 ――オーリィ。リディア。みんな。
 抱きすくめた相手は、いつか慰めた時と同じ匂いがした。それだけのことに、涙が止まらない。どれだけ思い焦がれたことか。どれだけ欲した温もりか。
「リオ、リオ。会いたかった……無事で、よかった。私たち、間に合った? 何もされてない? されてないはずないわ。ああ、リオ。こんな顔をして。すごく辛かったでしょう、もう大丈夫だから……」
 リディアも泣きながらそう言っている。リオはがむしゃらに、ただただリディアを抱き締めて泣いた。離したくない。離したくないのに。
「リディアぁ……」
 情けないほど幼い、甘えたような声が出た。その、自分の甘えに恐怖した。自分は何をしているのだろう。だめだ。
「ダメ、ダメ、ダメ、ダメ、ダメなのっ!」
 自分の皮膚を引き裂くような勢いで、リオは無理やりリディアから離れた。
「あたしは、魔王の姪。それに、この契約にはたくさんの人の命がかかってる。ごめんなさい、ごめんなさい、ありがとう」
 ありがとう。ごめんなさい。ありがとう。
「でも、ダメなの」
 リディアは目を見開き、リオを凝視した。いやよ、と震える声で呟く。
「いやよ、せっかくまた会えたのに。ノアと約束したのよ……リオを連れて帰るって。ライリスが今どんなにいい顔をしているか、見せてあげたいのに。お兄ちゃんだって心配してた。アーウィンだって、いつも折に触れてはリオのことを話してて……」
 嬉しい。嬉しい、けれど。
「でも、あたしは悪魔なの……変えたくても、血は変えられない」
「そんなものに縛られているの、あなただけよ」
 リディアは優しい声で言う。囁くような声だった。
「あなたが悪魔なのと同じくらいには天使な私が、あなたに帰ろうと言っているのよ。それでも信じられない?」
「信じられるけど……でも、あたしは」
「ねえ、リオ。一緒に帰りましょう? あのね、リオ。クローゼラがいるからここまでは来れなかったけど、でも、この城の外で……」
 リディアの声が更に小さくなる。動いた唇の形に、リオは釘付けになった。

「ウィルが、待っているのよ」

 言葉が完全に失われ、リオは目を見開いた。
 リオがリディアの瞳を見つめている間に、ベリアルが背後に立っていた。
「勝手にしゃしゃり出て来て、こちらの陣の者を引き抜こうとは良い度胸だ」
 リディアはびくりと反応して、ベリアルから一歩離れた。ベリアルの手がリオの肩をつかむ。強い力だったから、怒っているのだろう。
「レオリアは私が引き入れたのだよ。横取りするとは卑怯じゃないのかえ、グロリア?」
「今日の私はグロリアとしてここへ来たわけじゃないわ」
 オーリエイトはそう言っただけで、ベリアルには答えなかった。リオだけを見つめて。
「私はオーリエイトよ。……ねえ、リオ。わがままになって」
 リオは目を瞬いた。
「私たちのために、わがままになって」
 ――誰かのためにわがままになれるかな。オーリエイトみたいに。
 湖のそばで、冷たい水に指をひたしてそう聞いた。出会ってからのいろいろな場面が、どっとリオの心に押し寄せて来た。行き倒れていたところを拾われた。ウィルに出会った聖者の屋敷。エルトの屋敷。捕らえられたこと。グラティア。歓迎パーティー。ウィルと聖神殿で会ったこと。クローゼラ。悪魔に囲まれ、ウィルが助けてくれた。王宮。雪遊び。レインの脅し。ウィルと雪道を歩いた。

「あらあら、動揺しちゃって」
 冷たく降って来たのはクローゼラの声だった。
「幸せな記憶に溺れるのは楽よ。でもね」
 そして、やはり女神は笑んでいる。
「牢の人達はどうする気かしら。……今までは情けをかけて一思いに殺ってきたけど、苦しむだけ苦しませて捨て置くこともできるのよ? あなたはわたくしと約束をしたわね。破る気?」
 とくんと奇妙な鳴り方をした心臓の音が耳に響いた。聞き続けてきた悲鳴、運び出されて行く何か、無上な声で出ろと言う看守、目の前でとんだ儚い笑顔、希望から絶望へ落とされる瞬間。
「あたしは……」
 震えた。体が震え出して、息ができなくなった。苦しい。誰か。
「そんな身で逃げようというの? 全部投げ出して? やっぱり、人って醜いわ。見ていて吐き気がするくらい。今すぐここへ捕虜たちを連れてきて、“掃除”してしまいましょうか」
「やめてっ……」
「じゃあ、この二人を追い返して。あなたが契約するなら、この二人も逃がすことを約束してあげる」
「だめよ、リオ、聞いちゃだめ!」
 リディアがリオに飛びつき、抱き締めた。守るように。
「あなたがいなかったら、ウィルが崩壊するわ。私も錯乱してしまうかも。みんなもよ。ねえ、お願い、聞かないで。捕虜の人達なら、この人たちの言うことを聞かなくたってきっと助けられるわ。方法を考えましょう。ね、リオ……」
 抱き締めてくれる力の強さと、その腕が震えていることに気付いて、リオは動けなくなった。どうすればいいんだろう。
 いつの間にかオーリエイトまで近くに来ていて、リオに囁いた。
「リオ、あなたが契約をしてはいけないわ。あなたの魂さえ自由なら、他のみんなにも希望が出るのよ。ウィルが、あなたが闇の守護者だと気付いたわ。私たちも知ってる。守護者なら、欠けてはいけないわ。あなたは私たちと来る資格があるのよ」
 本当だろうか。資格などあるのだろうか。
「あなたの力がウィルたちの解放には不可欠だわ。ねぇ、お願い、帰って来て。あなたが必要なの」
 リオは口を開けたが、紡ごうとした言葉はちっとも音にならなかった。混乱が思考をさらっていく。ウィルがいる。すぐ近くにいる。目の前にはリディアとオーリエイト。温もりをこの肌に感じる。けれど、冷たさも感じる。とりまく悪魔たちの不快げな視線、明らかに冷たく見下ろして来ているクローゼラとベリアル。牢に残された人達のこと。
「……姉ちゃん」
 極め付けはその声だった。
「行くの?」
 深紅の瞳を振り返り、ああ、ここにも大切なものがあると気付いた。カイン。残して行ったらどうなるだろう。何度も心配してこっそり会いに来てくれたのに。
「姉ちゃんが、幸せなら」
 しかし、カインが呟いた。
「俺も、大丈夫だよ?」
「……カイ……ン」
 思った以上に彼の表情が静かで、その時初めてリオは、彼は始めからリオが自分たちと異質のものだと捉えていたことに気付いた。彼は、リオの属する場所がここではないと、リディアとオーリエイトと一緒にいるリオを見て確信したのだろう。彼は背中を押してくれているのだ。帰っていいよ、と言ってくれている。……俺は大丈夫だから、帰っていいよ。

 その時、ベリアルが動いてリディアの腕をつかんで捻りあげた。リディアが痛そうな悲鳴をあげる。
「やめて!」
 リオはとっさに言った。この言葉ばかり叫んでいる気がしたが、どうしようもない。ベリアルは深紅の瞳でリディアを冷たく見下ろした。
「違和感を感じると思っていたら、こいつは天使の眷属ではないか」
 オーリエイトが小さく舌打ちするのが聞こえた。リディアは息を呑み、強張った顔でベリアルを見上げている。悪魔に触れられて、みるみる顔色が悪くなっていった。ベリアルも決して気分が優れているとは言えない顔だったが。
「なるほど、裏切りの娘を再度旧神側とする気か。旧神め、廃れた老いぼれたちのくせに」
「その子を放して」
 オーリエイトが、ドスの聞いた声で言った。会ったばかりの頃、リオの追っ手の魔法使いを脅した声よりも、数段怖い声だ。しゃらんと杖を鳴らしてベリアルに突き付けている。
「放しなさい」
「どこの誰に向かって口をきいているのか分かっているのかえ?」
「あなたと同じくらいには分かっているわ」
 オーリエイトは繰り返した。
「放しなさい」
「残念ながら、ここは旧き天の者は排除という決まりがある」
「放しなさい!」
 オーリエイトが怒鳴った。ベリアルはにたりと笑う。
「レオリアは私を柔軟だと言った。だがね、私も新神なのだよ。その証を見せてあげよう」
 放たれようとした魔法が、激しい炎の呪いだと分かったリオは完全に理性が吹っ飛んだ。赤い炎が埋め尽くした村の記憶が頭の中に噴出す。――リディアが。

「 だめーっ!!! 」

 絶叫とともに、爆発音が響いた。



最終改訂 2008/12/24