09
「おはよう。いい天気だね」
この日は珍しく、朝からジェレミーが下りてきた。じっとりと恨めしげに見つめるリタの視線を気にする様子もなく、窓辺から外を見て、彼は伸びをした。
「サー……」
「ジェレミーだよ、リタ。名前で呼んでくれないならキスするよ」
ひく、とリタの口元が引きつった。
「……どこからそんな言葉が飛び出るのだ」
「冗談だよ。そんな怖い顔をしないでくれよ。そういうのダメな方？」
「ちゃらちゃらした男は嫌いだ」
リタはぴしゃりと言い、ジェレミーを睨みつけた。
「それより、女性の寝室に勝手に入ってくるのは上流階級では良くあることなのか？」
リタはまだベッドの中で、しかもパジャマだった。たった今、突然乱入してきたジェレミーに驚いて目が覚めたばかりなのである。ジェレミーは肩をすくめた。
「もう10時だよ、リタ。まだ起きてこないなんて、何かあったのかと思ったんだよ。……リタは寝坊なんだね」
「魔女は夜型なのだよ」
リタはあくびをして、再びもぞもぞと布団の中にもぐりこんだ。
「自分の部屋から出ないでおくれ。私はもう少し寝る」
「こらこら。リタ、朝ごはんも食べないんじゃコックがかわいそうだ。起きろー」
ジェレミーが肩を叩いてくる。寝込みの女性に触れるなんて、本当に良家のお坊ちゃんだろうか。とにかく無視を決め込んだ。ちょっと静かになったと思ったら、なにやら「よいしょ」とジェレミーの呟き。こちらに歩いてくる気配がして、何かを下ろした音がした。
なんだと思って見てみると、ジェレミーは椅子をリタのベッドの隣に置いて、どっかりとその上に腰を下ろしている。
「ねえリタ、君は自分のしゃべり方を古臭いって言ったけど、僕は別に気にならないよ。むしろ媚びない感じで好きだな。君っていつも一日中何をしているんだい？ 僕は本を読むくらいしかすることがなくてね。女中が料理の本を持ってきてくれるようになってからは、ちょっとお菓子作りなんかにも手を出してみたんだよ。男のすることじゃない気もするけど、何せ暇だからね」
リタは無視して、布団をかぶった。キットはどこだ。この人を追い出して欲しい。
「リタは料理できる？ 魔女って普段の食べ物は普通なのかい？」
無視無視。
「クッキーは作れるようになったんだ。フルーは怖いって言って食べてくれなかったんだけどね。うーん、食べられないような代物じゃなかったはずなんだけど……才能ないのかな」
無視。
「今日は庭に出たいんだけど、かまわないかい？ もう1ヶ月以上土を踏んでいないんだよ。リタ、答えないなら勝手に外に出るよ」
リタは無視を諦めて、反応を返すことにした。
「いちいち私にお伺いを立てる必要はなかろう？」
「ああ、やっと喋ってくれたね」
ジェレミーは嬉しそうに笑った。
「一応君の仕事の邪魔をするわけだから、ちょっと聞いてみただけさ。さて、目が覚めたなら、リタ、早く服を着替えておいで。隣の部屋で待ってるから」
何を待つんだ、と聞く前にジェレミーは立ち上がり、上機嫌で部屋から出て行ってしまった。なんてつかめない男だ。
リタはまた眠ろうかと思ったのだが、このまま寝たっていずれまたジェレミーが起こしに来るだろうと思って、しぶしぶベッドから抜け出した。師匠でも寝かせておいてくれていたのに。あくびをかみ殺しながら、いつもの黒い服に着替える。用意されている洗面台の中の水を両手ですくって顔を洗った。最近では水道というものが上流社会で普及しているようだが、妖精と関係の深いフェイ・ファミリアのこの家では通していないらしい。いい選択だ、とリタは顔を拭きながら思った。妖精の中には鉄を嫌うものが多いのだ。
「終わった？」
ジェレミーの声がかかる。リタは大きなため息をついて、タオルをかけなおすと部屋を出た。
ジェレミーは、リタがいつも朝食をとる机について新聞を読んでいた。
「……何をしてるの」
「だって、一人で食べるのはさびしいだろう？ だからここで一緒におしゃべりでもしようかと思って」
余計なお世話だ。思ったが、言っても無駄なのではないだろうかと思ったので、とりあえず席に着いた。パン二切れ、バターつき。ちょっとしたサラダもあるから、結構豪華だ。リタはジェレミーにかまわず黙々と食べていたが、ジェレミーはリタを放っておいてはくれなかった。
「ああ、見てくれ、リタ。近くの劇場で、来週から『愛の妙薬』の上演をするようだよ。見に行くオペラはこれにしよう」
「……それはまた怪しげな題名で」
「何を言っているんだ、愛の妙薬は喜劇だよ。ちょっと遠いところで『後宮からの誘拐』もやるみたいだけど、どっちがいい？」
「オペラはよく分からない」
「じゃあ『愛の妙薬』で」
行くか行かないかというところではリタの選択権はないらしい。まあいいか、とリタは内心ため息をついた。いずれ貴族と付き合いを始めるときのために、見聞は広めておいて損はない。
「君の黒猫はどうしたんだい？」
ジェレミーが新聞をめくりながら聞いた。
「散歩だろうよ。フルーエリンは？」
「上にいるよ。キットに会うのはいやだって。話があるならあとで呼ぶけど」
「別によい」
「そっか。んー、あまり面白いことは書いてないみたいだな。食べ終わった？」
リタは皿を見せた。あとトマト一切れで終わる。
「それじゃあ、上着を取ってくるよ。君も用意して」
「は」
「あれ、庭に行かないの？」
リタはいよいよ呆れ果てた。
「誰が行くと言った」
「言ってないけど……じゃあ、行かない？」
「行かない」
「妖精がいると思うけど。それに、薬草園が裏にあるよ」
「…………」
もしかして自分の興味はすでに把握されているのだろうか。妖精の住むところに生える植物は、特異な魔力をまとうことが多い。珍しい材料が見つかるかもしれない。それも、タダでだ。ジェレミーはリタが断らないと確信しているかのように、にこやかに問う。
「行かない？」
「……行く」
敗北。もういいや、とリタは思った。この人の提案には抵抗しないでおこう。トマトを口に放り込んで、リタは席を立った。