15


 まず、優先順位。
1、この仕事を続けて安全どうか、正しいかどうか。
2、仕事に自信が持てたら、ジェレミーの弱みを探る。
3、ジェレミーのお母さんを探し出す。
 帰りの馬車の中では、ざっとこんな結論が出た。その日は屋敷に戻ると、あまりに疲れていたせいですぐにベッドに倒れ込み、そのまま朝まで寝た。

 早寝したおかげで早く起きた。なんとまだ6時だった。ジェレミーもまだ起きていないようだ。まだ洗顔用の盆が運ばれてきていないようなので、リタは自分から下に降りていった。もうそろそろ寒くなるのに外の井戸に出るのはなかなかしんどい。
 ローブを体に巻き付けて震えながら、桶のロープを手繰り寄せていると、ふと人の気配を感じた。振り返るとシャーリーだった。もうリタを怖がる様子はない。
「おはようございます」
「……」
 そう挨拶されたので、リタも会釈を返した。
「寒い朝ですね、魔女さん」
 リタはまた頷いた。汲んだ水をたらいに移し、ひょいと杖を振る。たらいは安定した状態でふわりと浮き上がった。
「何か用でも?」
 リタはシャーリーに聞いた。彼女は少し虚を突かれたような顔をした。
「え? 別に何も用なんてありませんけれど?」
 リタはシャーリーを振り返った。
「何も?」
「だって、偶然会っただけですもの。何か用がないとだめですか?」
 逆に問い返されてリタは戸惑った。
「……いえ」
 何の用もなくリタに話しかける人を、リタはジェレミーしか知らなかった。思えば、とリタは考えた。自分は魔女としての生き方しか知らず、魔女として接されることしか知らず、魔女として人と接することしか知らない。魔女は一種の、人とは一線を引かれる別種の人間だ。人でありながら妖精と同じ力を使う異種だ。だから、「違う者」としての生き方しか知らない。ジェレミーといていつも戸惑っていたのは、「同じ人」として接されたからだったのだ。

「……私は、あなたたちにはどう見えるのだ?」
 思わずシャーリーに聞いたのは、今まで気にしたこともなかったようなことだった。シャーリーは面食らった顔をして、少し苦笑した。
「本当に率直な聞き方ですね。……変わった方に見えますよ。寡黙で落ち着いていらっしゃって、なかなか表情を動かしてはくださらないのに、妙に面倒見が良い方だとお見受けしています」
 リタは目をパチクリした。初めてした質問に意外な答えが帰ってきた。
「……そうなのか」
「女中仲間の間でも話しているんです。魔女さんは実は良い人なんじゃないかって」
「私は良くも悪くもない人だ」
 リタはすぐさま言った。これは譲れない点だ。悪人にはなりたくない。でも、善人になるのも嫌だ。シャーリーは少し驚いたようだった。
「そ、そうですか?」
「はい。……ジェレミーのことだが、私はまだ何も決めていないですよ」
「……でも、旦那さまには会ってきたのでしょう?」
「リチャード・アベリストウィスには会ってきました。けれど彼は何も教えてはくれなかった」
 リタはシャーリーの茶色い瞳を見つめた。
「ジェレミーの母親は誰ですか」
 シャーリーは明らかに狼狽した。
「……言えません」
「なぜ?」
「この家が……フェイ・ファミリアだからです」
「フェイ・ファミリアでないなら、問題にならないことなのか?」
「それは……分かりませんが。良い結果をもたらさないことは確かでしょう」
 もどかしさに、リタは歯噛みした。ここの家の人は、なんて分かりにくい言い方しかしないのだろう。

「おーい」
 突然頭上から聞き慣れた声が降ってきて、リタもシャーリーもびくりとした。ジェレミーが上の階の窓から身を乗り出して、ひらひらと手を振っていた。
「おはよう、リタ。珍しく早起きだね」
「余計なお世話」
 リタは言ってジェレミーを睨み返した。
「なぜ私の部屋にいる?」
 ジェレミーが顔を出している窓は、明らかに最上階の彼の部屋ではなかった。その一つ下の階、例の扉のある部屋の隣り。
「まだ寝てるかなぁと思って覗きに来てみただけ。ベッドがもぬけの殻だったから驚いたんだよ。てっきりこの家を出て行っちゃったのかと思ったけど、キットがまだ枕元で丸くなってるし。で、誰かが下にいるような気がしたんで、覗いてみただけ」
「……ご丁寧な解説をどうも」
「水汲みをしてるのかい? 寒くない? 早く入っておいで。朝ごはんを一緒に食べよう。リタと朝ごはんを食べるのは初めてだな。シャーリー、君も入っておいで。そんな薄着じゃ風邪を引くよ」
 言うだけ言うとジェレミーは引っ込んだ。
 リタは呆れた思いで窓が閉まるのを見ていた。……言いたいことだけ言って、やりたいことだけやって、他の人の意思はかまう様子もなく、あとは放りっぱなし。あの性格をどうにかできないのだろうか。

「魔女さん」
 シャーリーが声をかけてきた。なにやら驚いたような顔をしている。
「あなたは本当に本当に、坊ちゃまに気に入られているのですね」
「……懐かれただけでは」
「同じ意味ですよ。きっと波長が合うのでしょう」
 どこが? シャーリーは首をひねっているリタに、思いもかけないことを言った。
「あなたもジェレミー坊ちゃまを憎からず思っているのではないですか?」
「まあ、憎くはない」
 シャーリーは呆れた顔をした。
「そういう意味ではありません。今までもたくさんの家政婦がジェレミー様の術中にかかったのを私は見ています。あなたもそうでは、と聞いているのです」
 リタもそこまで鈍くはなかった。“憎からず思っている”相手をどうにかしたいと言って魔女を頼る人は多い。リタは目を何回も瞬き、この人は何を言っているんだと思いながら口を開いた。
「どういう見方をしたらそう見えるのだ?」
「だって、魔女さんも、私たちとジェレミー様とでは態度が違いますもの。坊ちゃまの言葉にはよく返事をなさいますし、よく表情を動かされます。迷惑そうにしながらも、坊ちゃまを助けてさしあげています。この間のフルーツポンチ作りの時もそうでした」
 彼女は自信に満ちた表情で言った。
「ご自覚がないだけなのですよ。例え私が間違っているとしても、坊ちゃまが魔女様にとって特別な方であるのは間違いないのではないですか?」

 変わり者だとは思っているし、なんとなく目が離せいないし、自分にとって、他の人と一線を画した存在であるのも確かだ。ジェレミーと関わるのは新鮮で、でも彼がやりたい放題で振り回されてばかりなのがちょっと嫌で、けれど振り回されても結局逃げない自分がいる。抱いている感情がプラスかマイナスか問われれば、たぶんプラスだと答える。
 けれど、それはちょっと飛躍しすぎなのではないだろうか。リタは頭を振り振り、奇妙な感覚に陥りながら、浮かべたたらいを誘導し、シャーリーの脇を通って屋敷に戻りながら、彼女とすれ違いざまに言った。
「あっているけど、違う」
 だってリタは無所属の魔女だ。どこにだって属さない。誰にだって属さない。
 身元も、――心も。