22


 翌朝、リタはジェレミーにではなくシャーリーに起こされた。
「リタさん、もうお昼ですよ。起きてくださいな」
 寝ぼけていたリタはうーんと寝返りを打ちながら聞いた。
「……何時だ?」
「10時半です。昨夜遅かったとはいえ、これ以上寝ると今夜寝付けなくなりますよ」
 リタはまだうーんと唸りながらうっすら目を開けた。
「……キットは?」
「俺ならここだぜ」
 キットの声がベッドの下から聞こえた。
 シャーリーはリタのベッドの前で動こうとしない。ジェレミーのように無理やり揺さぶって起こしはしないだろうが、どっちにしろ諦めてくれなさそうだったので、仕方なく起き上がることにした。

 シャーリーはリタが起き上がったのでずいっと身を乗り出して、期待に満ちた顔で言った。
「で、どうでした!?」
「……何が」
「何をとぼけてらっしゃるんですか。オペラですよ、オペラ」
「……わりと面白かったが」
 もう、とシャーリーは頬を膨らませた。
「劇のことなんて聞いてませんよ。ジェレミー様とお出かけしてどうでした、と聞いてるのですよ」
 そういえばこの少女は妙にリタとジェレミーの関係の進展に興味を持っていた、とリタは思い出した。ナンセンス。ジェレミーとはそんなんじゃない。そもそも魔女がまっとうな恋なんてできるものか。
「別に何も。ジェレミーの知り合いに会って、買物に付き合ってもらって、それだけだ」
「あら、それなら坊っちゃまがあなたをお姫様抱っこして帰ってきたのはどういうことですか」
「…………」
 一気に目が覚めた。そういえば夕べは帰りの馬車の中で寝てしまって、どうやって寝室まで辿り着いたのか覚えてない。お姫様抱っこって……。
「うわ……」
 リタはたまらずに赤くなって頬を押さえた。これはおおごとだ。魔女ともあろう者が、前後不覚の状態で、他人の傍で完全に無防備な状態でいたなんて。何より、この自分が誰かのそばでそんなに隙を見せるなんて。わけの分からない混乱は押し寄せてくるし、わけの分からない汗が出てくる。
 一方のシャーリーはにやにやしながらリタを見つめた。
「何かあったんですかぁ?」
「違うっ。ただ……寝てしまったのが信じられないのだ」
「あら、別に良いことじゃありませんか。寝顔を見せられるのは男のロマンですよ」
 そうなのか?
 シャーリーは笑った。
「坊っちゃまの隣りは気持ち良かったんですね? どうです? 自覚が出てきました?」
 リタはぽかんとした。
「自覚って」
「ですから、気があるのかどうかってことですってば」
 リタは呆れて答えた。
「恋愛にこだわるのだね」
「あら、女の子は大抵気にしますよ」
「魔女は別に興味を持たない」
「例外がいたって良いじゃないですか」
「では恋愛に興味のない女の子がいてもよいのでは?」
「まあまあ。で、どっちなんですか?」
 突っ込みは無視された。リタは溜め息をつき、早くこの尋問から開放されたいと思って答えることにした。
「ジェレミーは他の人とは違し、特別だと思う」
「はい」
「でも恋愛感情ではないと思う」
「はい?」
 シャーリーはきょとんとした。
「では何なのですか」
「ただ、傍にいて安心するというか。警戒しなくて済む相手」
「……リタさんにとって警戒しなくて済む相手は珍しいんですか?」
 リタは頷いた。珍しい。とっても珍しい。だからこそ、なかなかジェレミーに打ち解けようとしなかったリタは、フルーエリンにも鉄の女と言われてしまうのだと思う。
「だから恋愛ではない。ジェレミーも、私のことをただ『特別な人』だと言った。恋人ではないって」
 語弊があるかなと思ってリタは慌てて付け足した。今の言い方では、自分がジェレミーに自分を恋人だと思うかどうかを聞いたように聞こえてしまう。
「お店の人に、恋人なのかって聞かれた時に」
「そ、そうなんですか」
 シャーリーは明らかにがっかりした顔をした。
「難攻不落の坊っちゃまがついに落ちたかと思ったんですけどねぇ」
 落ちるって。
「……ジェレミーって難攻不落だったのか」
「そうですよ? ほら、結構鈍いですから。それに、節操ないほど人懐っこく見えますけど、あれでも注意深く人を見ているんですよ」
 シャーリーは意味深な目をしてみせた。
「坊っちゃまは、対人関係でそれはそれは苦労なされましたから」
 リタは眉をひそめた。
「どういうことだ?」
 シャーリーは腰をかがめてリタに囁いた。
「坊っちゃまは話して欲しくないでしょうけど、聞いていただきたいので言いますね。坊っちゃまは認知されたばかりの頃、何回も死にそうな目に遭ったんですよ」
「……家督問題で?」
「はい。旦那様の他にも反対する人がたくさんいたそうです。揚げ句の果てに誘拐されて監禁されてしまいまして、相当酷いことをされたみたいなんです」
 リタは黙って聞いていた。
「坊っちゃまって時々空虚な顔をなさるでしょう? たぶんそれが原因だと思うんですよね。先輩の話によると、やっとフルーエリン様が坊っちゃまを探し出した時には相当弱っていらして、怒った妖精たちが暴走して、坊っちゃまが監禁されていた屋敷を破壊する騒ぎになったそうです」
 ……なんだか想像していたよりずっとドロドロだ。リタは絶句して、思わずジェレミーの笑顔を思い浮かべた。
 ――彼はいつもどんな思いで、当主は自分だと言いながら笑っていたのだろう。
「それで坊っちゃまは、前の旦那様が事態を収拾するまで四年間、親戚の家に預けられたほどだったそうです。やっと屋敷に戻っていらしたのが2年半ほど前、坊っちゃまが今の私ぐらいの時です。私はこの屋敷に来たばかりでした」
「……ジェレミーはそんな酷い体験をしたと一言も言わなかった」
「思い出すのも嫌なんでしょう。基本、楽しく生きたいと思ってる方ですから」
 リタは黙った。これだから良家は、と思う。面倒臭いし陰湿だし、あんなに天真爛漫に見えるジェレミーにどれだけ傷を負わせたか。
「……ジェレミーは強いのだね」
 それでも彼は笑っている。笑って、誰にでも人懐っこく、親しげに話しかけている。リタには真似できない芸当だ。
 リタは窓の無い部屋の中で、他の子供たちと膝を抱えて寝ていた捨て子時代を思い出した。ジェレミーってただの、馴々しくて気紛れな青年ではなかったのだ。

「どうです? 坊っちゃまを助けてくださる気にはなりましたか?」

 リタは縦にも横にも首を振れなかった。