25


 ジェレミーやシャーリーにしつこく、リチャードと何を話していたのかを聞かれたが、リタは一貫して沈黙を守っていた。ジェレミーは少し不安そうだった。
「ねぇリタ、そんなに教えられないことなのかい? どうしても僕たち、敵にならざるを得ないのかい?」
 これもこれで良心の疼く発言だ。リタだってジェレミーとは敵になりたくなかった。できれば今の関係を保ちたい。それは確かな気持ちで、いつのまにかこんなに心の内側に入られていたことが怖くなるくらいだ。
 それでも、リタが誰よりも大切な魔女という地位を守るために、リタは公平な視点に立つことを決めていた。どちらにつくのかを決めるため、ほんの一時間ほどでいいから、ジェレミーもフルーもあの最上階の部屋からおびき出すのだ。

 朝から雨になったのを利用し、リタは出かけたふりをして、使用人達の住む離れの屋根を魔法でいじくった。すぐに使用人達が雨漏りに気付き、ばたばたと報告に行くのが見えた。
 しばらくして、ジェレミーが手を引かれて離れに到着した。
「これは酷いなぁ」
 ジェレミーの声がする。
「修理したばかりなのに」
「悪徳業者だったんでしょうかねぇ」
「さぁね。とりあえず直さないと。リタの方がこういうのは得意なんだろうけど、どこかに出かけたみたいだし。フルー、どうにかなりそうかい?」
「……本当はあたしの仕事じゃないわ」
「わかってるよ。お願いだ、あとで厨房でケーキをねだってくるから」
「……分かったわよ」
 溜め息混じりのフルーエリンの声の後、使用人が言った。
「よろしくお願いします」
 これで少しは時間が稼げた。

 リタは大急ぎで本館に戻り、例の扉の前に立った。この中に入るのは、ジェレミーに初めて会った時以来だ。あの時と同じようにキットが先行して階段を上がる。
 豪勢な部屋に顔を出した。キットが破いたカーテンは直されていた。懐かしいなと思いつつ、たった一つのドアを緊張しながら見つめる。開けるとそこは同じような部屋だった。本棚や暖炉、ソファや小机も完備。その部屋にももう一つドアがあって、リタはずんずん進んだ。 また同じような部屋だったが、今度はベッドルームのようだ。真紅の天蓋付のベッドで、本当に王子様の部屋のようだ。
「フェイ・ファミリアはよっぽど羽振りが良いんだな」
 キットがぼやいた。

 そしてまたもう一つドアがあった。
 このドアが曲者だとすぐ分かった。最上階全体に漂う奇妙な歪んだ魔法、その根源がこの向こうだとリタは確信した。それほど奇妙だった。
「リタ……やめよう」
 キットが言った。
「絶対やばいぜ、こりゃ。行かないほうが良い。あれは人の行く所じゃない」
 しかしリタは引き寄せられるようにドアに近付き、取っ手を握った。
「私は魔女だから大丈夫」
 扉は重々しい音を立てて開いた。

 中は真っ暗だ――いや、色がなかった。灰色のような、緑色のような、何色でもない色が広がっている。なんだろう、と思って手を突き出してみたが何も感じない。
「リタ、よした方が」
 しかしリタはこれこそジェレミーの正体を知るのに役立つのではないかと思い、思い切って一歩踏み出した。
「リタっ!!」
 キットの声が妙な響き方をして途切れたのと同時に、リタの視界がぐるりと動いた。

 くすくすと笑い声がした。振り返るとそこにはドアもなくキットもいなかった。
「……キット?」
 不安に駆られて呼んでみたが返事はない。歌が代わりに、遠くとも近くともつかない場所から聞こえてきた。

  魔女さん、魔女さん、迷子の魔女さん、キミの嫌なことなぁにかなっ?
  魔女さん、魔女さん、一緒に遊ぼう。
  ボクらが悪い夢を見せてあげる!

 リタは気付いた。ここは妖精界だ。すると周りが見えてきた。ぼんやりと薄暗い森のような場所の小道にリタは一人で立っていた。
 歌は続いていた。

  そうさキミは独りぼっち!
  だぁれも助けちゃくれないよ。
  だから魔女さん、キミの悪夢をボクらにちょうだい。
  おやつにして食べるんだ!

 リタは怖くなった。こういう時はどんな魔法を使うべきなのだろう。
 杖を出して道標の魔法の魔方陣をなぞってみた。呪文を唱えたが、作動した光は四方に散って、これではどの方向を指しているのか分からない。

  無駄だよっ
  だってここはボクらの世界!
  おとなしく悪夢を見せておくれ。

 歌がそう言ったのと同時に、リタの目の前に場面が浮かんだ。
 薄汚く暗い部屋の中、子供たちが肩を寄せ合っている。旅芸人らしい格好をした男が、一人の子供を引っ立てた。リタだ。連れていかれたのは小さな部屋で、別の男が品定めをしていた。男はリタを見ると一目で気に入ったのか、リタの顔をなで回し、髪をくしゃくしゃと撫でるとリタを抱き上げた。代金を請求されると男は相手に向かって発砲した。
「っ!」
 リタは思わず悲鳴をあげた。手を撃ち抜かれた旅芸人は悲鳴を上げて悶え、発砲した男はそのままリタを抱きかかえて連れて去った。

 これはタチの悪い妖精が見せる幻影だ。分かっていても逃れられなかった。だってこれはリタの過去だ。リタの持つ悪夢だった。

 場面が変わる。さっきの男が壇上に立ち、怪しげな演説をしていた。宗教的とすら言える儀式のようなもので、リタは祭壇に横たわる死体を前に座っていた。貧しい地区にはごろごろ転がっているものなのだが、リタは嫌で嫌でたまらなかった。
 なぜ私にこんなもの見せるのと男に聞いた。お前の髪と目色は変わっている、お前は妖精の持つ力を、人間なのに生まれながらにして持っているからだと男は答えた。お前は俺の言うことだけを聞いていれば良いんだと男は言った。
 エメラルド色の瞳の幼い少女は、少し反抗的な表情をする。すると彼は幼いリタの首に手を絡めて、ぐっと力を入れた。リタは暴れたけれど、栄養失調の小さな体では無駄だった。もうしません、と唇だけを動かしていって、やっと開放してもらえた。男はリタを激しい瞳で見下ろして、咳き込んでいるリタの腕をひねり上げると、誰が主人かよく覚えておけ、と脅した。
 リタは小さな部屋に閉じ込められて、そこで知識がなくても使えるような、いくつかの魔法を行わされた。ほとんどが黒魔術で、失敗をすると手酷くぶたれた。リタは支配の下だった。

 恐怖が津波のように襲ってきて、リタはもうその記憶と向き合うことができなかった。必死に回れ右をするが幻影はついてくる。ただの幻影なんだからと自分に言い聞かせて、リタはその幻影の中を駆け抜けた。ぱっと束縛が晴れてもとの小道に戻る。それでもこの場を逃げ出したくてリタは走り続けた。くすくす笑いと歌がまだ微かに聞こえる。
 また別の儀式、ずっと小さい頃に売られた家で受けた暴力、そんな影像が脇を通り抜けていく。
 ――助けて。

  誰も助けちゃくれないよーだ。
  諦めて希望を手放しなよ!
  ボクらが悪夢を食べてあげる。

 歌を振り切るように走り抜けて、リタはハッと妖精界から抜けたことに気付いた。歌ももう聞こえない。しかしここはどこだろう。
 石造りの陰気な部屋で鉄格子が壁の代わりにはまっていた。牢屋だ。
「リタ?」
 しゃがれた男の声がしてリタは飛び上がった。部屋の隅に男がうずくまってこちらを見ていた。リタは声にならない悲鳴を上げた。幼い頃に苦しめられ、逃れたはずの相手だった。
「リタなんだな?」
 男は奇妙に高揚した声を上げてよろよろと立上がり、リタに近付いてきた。気味が悪いほどの満面の笑みにリタは狼狽して、杖を握ると大声で呪文を叫んだ。男は吹っ飛び、壁に頭を打ち付けた。
 リタは格子を握り締めてかすれた声で叫んだ。
「ここから出して!!」

 その時、別の声が聞こえた。
「リタ!」
 振り返ると、壁に歪みができていて、そこからジェレミーの顔が覗いていた。リタは無我夢中で差し出された手を握り締めた。