26
ジェレミーが力強くリタを引っ張り込む。そのままジェレミーはリタをその胸に抱き込んだ。
「もう大丈夫」
その言葉の何と温かいことが。
「もう大丈夫だから」
ほっとしたら泣きそうになった。しかしそれよりも素早く、羞恥と動揺に支配された。
「……ジ、ジェレミー、放してくれないか」
「ああ、ごめんごめん」
言いながらジェレミーはまた一度リタを抱き締めてから放した。
見ると、また妖精界に戻ってきていた。だがもう気味の悪い歌は聞こえない。
「帰り道は大丈夫なのか」
聞くとジェレミーはニッコリ笑って自分の肩を指差した。不機嫌な顔をしたフルーエリンが座っていた。
「フルーが案内してくれるから大丈夫」
「なぁにが大丈夫よ。魔女、あんた一体何のつもりでこんな所に潜り込んだの?」
リタが黙っていると、ジェレミーが庇うように言ってくれた。
「今はそんなことを聞いている時じゃないよ。すぐにあの悪戯っ子達に見つかる」
「……悪戯っ子?」
リタが聞くとジェレミーが答えた。
「人の心を覗き込んで、その人のつらい出来事を引き出して喜ぶタチの悪い妖精さ。……ああ、ほら、来た」
くすくす笑いがまた聞こえ始めた。リタは無意識にジェレミーの袖を強く掴んだ。
フルーエリンはやれやれと言うように首を振るとジェレミーの肩から飛び下りた。
「走るわよ」
言葉通りにフルーエリンは疾走した。リタたちがついていくのが大変なほどの足の速さだった。ジェレミーも足が速くて、リタはほとんど引っ張られて進んでいる状況だった。しかし追っ手のほうも速い。くすくす笑いがリタたちを追い抜いた。
様々な幻影の中を走り抜ける。旅芸人、例の男、例の男、そしてリタはジェレミーの悪夢も見つけた。
真っ暗な広い部屋、蜜色の髪の幼い少年、怒鳴る男、集団暴力、美しいが冷淡な顔をした女――妖精のようだ。
リタははっとする。思わずどういう反応をするのかとジェレミーを見上げると、彼はいつになく厳しい表情をしていた。
「見ないで走るんだ」
まるで自分に言い聞かせるように。
「とにかく走るんだ」
先を行くフルーエリンが叫んだ。
「出口を見つけたわ!」
妖精にしか分からない感覚なのだろう、一体どこなのかリタにはさっぱり分からなかったが、ジェレミーはただフルーエリンが示した場所に向かって走り込んでいった。
視界がぐるりと回ってリタは大きく躓き、崩れるように床に手をついた。ジェレミーも隣で息を切らしていた。再びジェレミーの寝室に戻って来ていた。
「リタっ!!」
キットが駆け寄ってきてリタに飛び付いた。
「よかった、帰ってきたんだな!」
言いながらキットはリタの頬をざらざらの舌で舐め回した。リタは少しこそばゆかった。一方のフルーエリンはキットの姿を見た瞬間、早々にジェレミーの襟の中にもぐりこんだ。
ジェレミーがキットに聞いた。
「あれからどれくらい経った?」
「二日。みんな下で待ってる」
そうか、とリタは気付いた。そういえば妖精界と人間界では時間の流れ方が違うのだ。すっかり忘れていた。
ジェレミーがリタの顔を覗き込んだ。
「大丈夫かい、リタ? まだ顔色が悪そうだけど」
「……平気だ」
だがリタ自身、四肢が緊張していて震えているのに気付いた。自分でも少し驚いた。あの男に会っただけで、こんなにも自分は怯えるのか。もう自分はそんなに弱くはないと思っていたのに。ジェレミーはリタに手を差し出した。
「とにかく下に降りよう。この部屋も妖精界が混じり込んでるんだ。長くいると良くないよ」
下では使用人達が総出でジェレミーとリタを待っていた。全員無事だと分かってみんなほっとしたあまり泣いていた。
「ああ、坊っちゃま、よかった!」
「見つけたんですね。心配しましたよぉ」
「魔女さんもご無事で」
ウィルキンズだけは少し厳しい顔をしていた。
「魔女さま、今回は少しばかり言わせていただかなければなりませんぞ。一体何をそんなに嗅ぎ回っていたのですか。坊っちゃまを妖精界まで探しに行かせるなど……」
「トーマス、制止する君を振り切って勝手にリタを探しに行ったのは僕だよ」
ジェレミーが口を挟んだ。ウィルキンズも言い返す。
「しかしその状況を作り出したのも魔女さまでありまして」
その言い合いに別の声が割り込んだ。
「話は後にしなさい」
ここでは聞くはずのない声にリタは顔を上げた。そして固まり、よくよく見つめてからやっと言った。
「し、師匠?」
ここにいることよりもさらに、女性の姿をしているのに驚いた。何のために変身しているのだろう。
「俺が呼んだんだ。リタが妖精界に飛ばされて、そこにタチの悪い妖精がいるってサーから聞いたもんで、師匠の助けがいると思って」
キットが言った。ジェレミーも驚いた顔をしてアシュレイを見つめた。
「師匠って……アシュレイ・ベッセマー?」
「二三日、リタは連れて帰るよ。悪夢を見せる妖精の直中に飛び込んだのだからね、アフターケアをせねばならないのだよ」
そう言ってつかつかとリタの傍に歩み寄ると、アシュレイはおもむろに、お荷物よろしくリタを担ぎ上げた。
「うわっ、師匠、ちょっと」
リタも慌てたがジェレミーも飛び出してきた。
「待ってください。僕は妖精に詳しいですし、妖精に受けた影響は妖精に治してもらうのが一番です。ここにはフルーが……うちの守護妖精がいますから、リタはここにいた方が」
アシュレイは妙齢の美女の顔で笑った。
「坊や、心の傷は妖精でも魔女でも治せないのだよ」
再び歩き出そうとしたアシュレイの前にシャーリーが進み出た。
「私たちではダメなのですか。リタさんにここにいてもらいたいんです」
アシュレイは首を傾げた。
「そんなに自分達の目の届かない所で何か画策されるのが怖いのか?」
「違います!」
誤解をされたことに少しショックを受けたようにシャーリーが言ったが、その抗議の声にアシュレイは肩をすくめただけだった。
「二三日だ。何も一週間ではないよ。……この屋敷に誰もかも閉じ込めておくのがこの家の趣味なのか?」
何て失礼なことを、とリタは思ったのだが、屋敷の人達は全員黙った。アシュレイはにやりと魔女笑いを浮かべると軽く手を上げて言った。
「それでは、アデュー」
キットが置いていかれまいとして、リタの背中に飛び乗る。アシュレイが後ろ向きになったため、背中に担がれたリタは黙って見送る皆と思い切り面と向かうはめになった。
複雑そうなウィルキンズ、混乱しているらしい女中たち、心配そうなコック、少し悲しそうなシャーリー。
そしてジェレミーはひどく思い詰めたような、寂しそうな表情をしていた。その表情にリタはハッとして、思わず言った。
「すぐ戻るから」
それは魔女としてでなく、リタ自身の言葉だった。扉が閉まる瞬間、ジェレミーが頷いたように見えた。
どこで用意したのか、師匠は馬車を停まらせていた。リタを担いだままアシュレイは馬車に乗り込み、出しなさい、と言った。
やっとリタは下ろしてもらえた。
「……なあ、アシュレイ師匠、その格好は」
リタの膝の上に陣取ったキットが師匠を見上げていった。これぞリタの聞きたかった質問だ。同じ深紅の髪と瞳、しかし艶っぽい曲線美は匂い立つような色気の美女。アシュレイは笑った。
「まあまあ、細かいことはよいではないか。それよりリタ、魔法石を見せなさい」
ぜんぜん細かくないだろうと思いつつ、リタはエメラルドを取り出した。手にとって吟味した師匠は言った。
「少し影響を受けているようだが……一晩月光浴をさせれば大丈夫だろう。おまえ自身はどうだ、リタ?あの男の幻影を見たのか」
リタは黙り、少ししてから頷いた。
「あいつは今、牢の中だ」
師匠が言った。慰めてくれているのだろうか。リタは膝の上のキットを撫でながら言った。
「……でも、その牢の中に飛ばされた」
「何?」
アシュレイは驚いたように声を上げ、呻いた。
「相当タチの悪い妖精だったのだねぇ」
くしゃくしゃ、とアシュレイがリタの髪をなでる。
「お前は私の弟子だ。どこにも誰にも属さない、無所属の魔女だ」
リタは頷いた。不器用な慰め方が少し嬉しかった。
馬車は都市の外へ向かって疾走を続けていた。