28


 久々にまともな夕食にありつけて満足したのか、アシュレイは翌日、昼まで起きてこなかった。一方のリタは8時過ぎには目が覚めた。毎日ジェレミーに起こされていたせいで体内時計が狂ったらしい。二度寝しても寝られそうになかったので、リタは庭に出て薬草の手入れをすることにした。
 月光浴をさせておいたエメラルドも、心なしか元気になったようだ。じょうろの水を撒いて、駆虫剤代わりのハーブティーを撒く。要らない葉を摘み採って集め、コッコッと首を前後に動かしている鶏に与えた。
 いつもの日常。変化も何もない、安穏とした日だ。とても静かだけれど、その代わり近くの丘で飛び交う鳥達の鳴き声がする。この辺で唯一の“妖精の丘”だ。
 リタは何となくジェレミーを思い出した。今頃どうしているだろう。リタがいないから召使いたちと朝ご飯を食べたのだろうか、それとも一人で食べただろうか。

「お、リタ、早いな」
 キットが足下に現れた。
「気分はどうだ?トラウマのぶり返しはないか?」
「今のところ」
 リタは言った。
「ちゃんと克服したはずだから」
「よかった。エボニー姐が心配してたんだ。リタは頑固だから、弱みを見せたくなくて強がってるんじゃないかってさ」
 リタは黙った。少し考えてから、ぽつんと言った。
「私は頑固か」
「頑固だろ。決めたらなかなか曲げようとしないじゃんか」
「……そうかもしれない」
「まあ、無理もないな。魔女業はリタがリタであれる唯一のものなんだし、それをぶち壊すようなことはしたくないんだろうけど」
 リタは言った。
「でも、ジェレミーは私を魔女としてじゃなくて、ただの女の子として接してきた」
 キットはきょとんとした。
「あ? ああ……確かにな。それがどうかしたのか?」
「嫌じゃなかった。むしろ嬉しかったかもしれない。そんなの変だ」
「変……か?」
「変だ。魔女でない、リタとしての在り方がある事を知ってしまった。だから怖い」
「言ってることが良く分かんないぞ」
「頑固なはずの自分が揺れているのが怖いのかもしれない。魔女にとって絶対のはずの契約を破りそうで」
 キットはやっぱりよく分からないというように首を傾げた。
「じゃ早く依頼を遂行しろよ」
「それも気が重いのだよ。ジェレミーを裏切るみたいで」
 キットが呆れたように言った。
「どっちつかずだなぁ。助けるならさっさと契約破棄しろ。駄目ならとっとと仕事を終わらせてこの家に帰ってこようぜ。どうせ、サーと契約したわけじゃないんだし、助ける義理はないんだし」
「“人”には、情というものがあるのだよ」
「で、その情に捕まっちまったわけだな。魔女のくせに」
 リタはまた黙り込んだ。自分で自分が分からない。契約を無視するのは、協会に入っている魔女であれば、即破門、そして資格剥奪の重い罪だ。
 魔女は契約を守り通すものだ。破ったら――魔女失格。
 なのに、とリタは胸元に手を当てた。エメラルドと琥珀のブローチが指先に触れた。自分にとって、ジェレミーは既に、師匠やキットとは別の意味で『唯一』となってしまっている。どうしてかって?そんなの分からない。今までは依頼に対して情なんか挟んだことはなかった。なのにリタはジェレミーに味方したいと思うのだ。
「……変だ」
 何かが変わってしまうのが、怖い。
「私は魔女でいたいのに」
 キットが困ってうーんうーんと唸っていると、エボニーが突然ヒョイと現れた。
「まったく、キット、子猫ちゃん。もうちょっとしっかりご主人様を支えてあげなくてはダメじゃないの。リタ? あなた今回の依頼のことで迷っているのね?」
「え、まあ……」
 リタは少し面食らった。いつから聞いていたのだろう。師匠にリタがジェレミーのことでくよくよ悩んでいるのを知られるのはちょっと、というかかなり嫌だった。また嫌味を言われる。
「やぁね、アシュレイには言わないわよ」
 エボニーはリタの心を読んだように言った。
「そのアシュレイが言ってたんだけど、アシュレイはあなたとあなたが監禁するはずの坊やに、オペラで会ったそうね?」
「そうなのか? リタ、何で教えてくれなかったんだよ」
 キットは不満そうに言った。
「まあ、とにかく、アシュレイから色々聞いたんだけど、私の個猫的意見だとね、あなた早めに仕事を遂行した方が良いわよ。フェイ・ファミリアと付き合うなら長い付き合いでないと。その気がないなら、早めに切り上げた方が良いわ」
「そう……なのか?」
「そうよ。妖精と付き合うにはとてもたくさんの知識が要るのよ。それにアベストウィリス家……だったかしら?面倒な苗字よね……あそこの家はややこしいもの。……あら、アシュレイが起きてきたわ」
 その通りで、開け放されたドアから、寝巻きのままの完璧な寝起き姿のアシュレイがこちらを見ていた。あくびをしながら、彼は眠そうな目で聞いた。
「リタ? ミルクはできていないのか?」
「机の上に置いてあるではないか」
 リタは呆れながら返した。アシュレイは肩をすくめ、ミルク壺を手に取ってカップに注いだ。一口飲んで顔をしかめる。
「生温いではないか」
「師匠が起きてくるのが遅いのだよ」
 アシュレイはやれやれと首を横に振った。
「全く、生意気で役立たずの弟子だねぇ」
 言いながらヒョイと手を振る。ミルク壺からは湯気が立ち上った。まったく、とリタは溜め息をついた。すぐ自分で魔法を使って温められるくせに。

 リタが三角帽を被って杖を手に取ると、気付いたアシュレイが顔を上げた。
「どこか行くのか、リタ?」
「少し散歩です。頭の中身を整理したいのだよ」
 やれやれ、とアシュレイは苦笑した。
「昼までには戻っておいで」
「……それでは一時間もないではないか」
「まあまあ」
 はぐらかされた。まあいい、どうせ大した用はないのだし。

 リタは小屋から出て、煙の立ち上る煙突と、コッコッというニワトリたちの鳴き声を背にして、頭上を木々のアーチで覆われた小道を下った。近くの街までは少しあった。この一帯はどこぞやの貴族の持ち物になっていて、カントリーハウスがある。アシュレイはよくそこの貴族から依頼を受けていた。
 なんとなくそのカントリーハウスの周辺をぶらぶらしていたら、後ろから馬に乗った誰かに声をかけられた。
「魔女さん? リタさんじゃないのかい?」
 振り返ったら予想もしなかった人物だった。
「あ……ええと、ニールさん」
「やあ、こんにちは。どうしてここにいるんだい? ジェレミーの所にいるんじゃなかったのか?」
「……諸事情で帰省中です」
「そうか、そう言えば魔女アシュレイの小屋が近くにあるって聞いたことがあるな」
「あなたこそ、なぜ」
「僕? 単に貴族の付き合いで呼ばれてるだけ。そこのカントリーハウスの持ち主に」
 そういうことか、とリタは納得した。
 ニールは馬を下りて、リタと面向かった。
「今忙しい? 君とちょっと話したいんだ。ちょっと立ち話するだけだよ。……ジェレミーのことについてちょっと聞きたいことがあるんだ」
 リタは顔を上げ、ニールを見つめ、こくんと頷いた。