30
リタは翌朝、小屋を出た。また長いこと馬車に揺られて、都会へと戻っていく。
戻るという表現も本来なら当てはまらないものなのだと、きらびやかなショーウィンドウを眺めながらリタは思った。あそこはリタの家ではないのだから。
アフタヌーンティーの時間の頃になって、やっと屋敷についた。執事のウィルキンズよりもジェレミーが先に飛び出してきた。
「お帰り、リタ!」
それはもう嬉しそうに言ってリタを抱き締めようとする。リタはかろうじて逃げた。
「大勢が見てる前で、当主を名乗る人間がはしたないことをするのではない」
リタが三角帽子を被り直しながら言うと、ジェレミーは懐かしそうに目を細めた。
「ああ、その言いぐさ、リタだね。なんかやっと日常が戻ってきたみたいだ」
「私がジェレミーの日常とどう関係あるのだ」
リタが言い返す。ジェレミーは大真面目に言った。
「だって、リタがいなかったここ2日、僕はすごく妙な気分だったんだ。どうしても君が布団の中で丸まってるか、魔女部屋にいるか、そんな気がしてしょうがなかった。女中たちがたくさん話しかけてくれたのに、やっぱりどこか寂しかったんだよ」
「…………」
リタは目を瞬いた。あまりにストレートにジェレミーが自分の気持ちを話すのも、まあいつものことだが改めて驚いたし、寂しかったと言われたこと、そしてなによりそう言われて嬉しいと思う自分に驚いた。
ジェレミーはにこりと笑う。
「さあ、入って。ちょうどお茶が入ったところなんだ。リタが今日帰って来るっていうから、少し豪華にしてもらったんだよ」
リタは一瞬従いそうになったが、必死で自分を律した。今の私はただのリタじゃない。魔女だ。
「ジェレミー」
リタはあえて厳しい声で言った。
「二人で話したいことがある。どうしてもだ」
リタのただならぬ様子に気付き、ジェレミーは笑顔を引っ込めた。
「……そういう顔をする時のリタは、ビジネスについての話をするときの顔だね」
リタは何も言わなかった。
ジェレミーは溜め息をつき、リタに手招きをした。
「おいで、リタ。上に行こう。トーマス、リタの荷物を運んであげて。ミセス・ジョーンズ、ティーセットは扉の部屋に運んでくれ」
てきぱきと指示を出すとジェレミーは歩き出した。リタはその背中を追いかける。階段を上がりながら言ってみた。
「今の、当主らしかった」
ジェレミーの肩が少し揺れたから、笑ったのだろう。
「まあね、僕は結構普段から、当主の仕事をしてるから。今のリチャードじゃ効力のない取引とかがあるからね。そもそも彼は、妖精より人に関心のある人だから、人脈を広げようと社交界に出入りしてばっかりなんだ」
やっと階段を上りきった。リタは息を切らしながら言った。
「でも、ジェレミーだって妖精とばかり付き合っているのでは」
「そんなことないよ。僕は人好きだよ」
二人は例の扉のある部屋でテーブルについた。リタはジェレミーを見上げ、切り出した。
「妖精の、子どもなのに?」
ジェレミーは黙った。とろりと甘そうな蜂密色の瞳でリタをじっと見つめる。
「結局知っちゃったのか」
彼はぽつりと言った。
「必要な情報は全部揃っていたのに、私が気付かなかったのだ」
リタは後悔を混ぜて言った。……気付くのが遅すぎたのだ。
「妖精の子だから、ジェレミーは当主になるのを反対されているのだね」
「……そう」
ジェレミーは認めた。心配そうな顔でやってきたウィルキンズに微かに笑いかけて、彼の運んできたお茶にミルクを入れてゆっくりとかき回す。
そして口を開いた。
「僕は父に認知された十二歳までは妖精界で育ってね」
リタは頷いて相槌を打った。
「十二歳の時に妖精の女王に、妖精と人、どちらとして生きるか選べって言われたんだ。僕は人を選んだ。だから今、人間と同じ見た目になったんだ」
「……元は人の姿をしていなかったのか」
「あー、顔が変わるわけじゃないんだけどね。今より幼い感じになって、サイズも妖精と同じくらい小さくなるんだ」
ジェレミーは言って少し笑った。
「魔力があるのはもちろん、半分妖精だからだよ。自分じゃ使えないんだけどね。宝の持ち腐れ。だからフルーにあげてるわけだたけど」
「だから前に、ドレスが届いた事を知らせに行った時に、ジェレミーはフルーと一緒に扉を開けていたのだね」
「やっぱり聞いてたんだ」
「覚えていたのか。てっきりいつもの“まぁいっか”精神で忘れているのかと」
ジェレミーは苦笑した。
「ひどいよ、リタ」
リタも冷めないうちにと紅茶に手をつけた。紅茶にミルクを入れる飲み方は、ジェレミーに教わったものだ。どれだけ色々な非日常が日常になってしまったことかを思って、リタはかき混ぜたせいで渦巻く紅茶の水面を見つめていた。
ジェレミーが口を開いた。
「リタはどう思うんだい?」
「何が」
「妖精の子がフェイ・ファミリアの当主になるのには色んな利害がつきまとうだろう。それをリタがどう思うかによって、僕の運命が変わるじゃないか」
リタはまた黙り込んだ。少し悩んでから言う。
「ジェレミー、正直言ってジェレミーが当主になるのは危ないと思う」
ジェレミーは酷くガッカリしたような、傷付いた表情をした。
「リタまでそう思うのか」
「バランスが保てない。フェイ・ファミリアの役目は均衡を保つことだというのに」
「保てるよ」
ジェレミーはいつになく説得するような口調になった。
「僕は人間だ。人間になることを選んだんだ。よく考えてみてよ、リタ。僕が妖精のことをどれだけよく知っているか。妖精との交渉の時に、すれ違いや衝突を避けられる。これは大きなメリットにならないかい?」
リタは溜め息をついた。
「……わかっている。でもジェレミーの言うことだけを信じたのでは不公平なのだよ。ましてや私の雇い主はジェレミーではないのだし」
ジェレミーは溜め息をつき、呟いた。
「なんでリチャードより先に君と出会えなかったんだろう。信じてもらえるはずだったのに」
リタはそれを自問だと捉えて返事をせず、こう告げた。
「今度また、リチャード・アベリストウィスと会う。彼の意見も聞いて決める」
「リチャードの意見ならこうだよ」
ジェレミーは口を挟んだ。
「妖精や魔法なんて過去のものだ、妖精との取引で得たものなんて値打ちがない。今は産業革命の時代、もっと家の利益を増やすようなことをすべき。こんなのリタが聞いたら怒るだろうからリチャードも言わないだろうけど、フェイ・ファミリアを継いでどうするつもりなのか聞いてごらん。決して僕だけが問題児じゃないってわかるから」
真剣そうな蜂蜜色の瞳を見つめて、リタは深く考え込みながら黙っていた。