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 リタは翌日、また八時に目が覚めた。恐るべき体内時計。いつの間にやらアベリストウィス・リズムが体に染み込んでいるとは。
 リタは寝ぼけ眼でもっそりと起き上がった。寝起きの悪いリタは、目が覚めてらしばらくはぼーっとしていないと頭がすっきりしないのだ。キットはまだ隣で丸くなっている。リタは布団の上に座ってぼーっと壁を見て、その後、もそもそと着替えに手を伸ばした。
 その時、軽やかな足音の後、ドアが開く音がした。
「リタ、八時を過ぎた……よ……」
 ジェレミーはさすがに硬直し、少し顔を赤くして「ごめん」と叫んでドアを閉めた。リタもリタで硬直していた。それから溜め息をついた。
 まあ、ハジャマ姿まで見られたのだから、着替え中も大差ない気がするが。……これじゃまるで節操無しはリタのようだ。まったく。

 リタは着替え終わると隣の部屋に移動し、既に日課となっているジェレミーとの朝食を済ませた。彼は酷く気まずそうに何度も謝った。多分明日からはせめてノックをして入ってきてくれるに違いない。……多分。

 自分だって雇われた身なのに、自分だけ家の主人と朝食だなんて不公平だなぁと思ったので言ってみた。ジェレミーは、リタは友人だし、特殊な事情で雇われたのだから良いのだと言った。ジェレミーらしい、結構強引な理由付けだ。
「それで、昨日は少し様子を見てたんだけど、リタ、もう大丈夫なのかい? 悪戯っ子たちに掘り起こされた古傷はもう痛まない?」
「今のところ」
 リタが言うと、ジェレミーはそっか、と言って安心したように微笑んだ。
「よかった。僕もちょっと嫌な気分だったからさ、昔を思い出して。……幻影で見たと思うけど、実は家督争いで12、3の時に一度誘拐されて監禁されたことがあってね。あの映像はその時のだよ。今でも閉じ込められるのが嫌いなのはそのせいなんだ」
 リタは少し驚いた。シャーリーですら人伝にしか聞いていないというジェレミーの辛い思い出。彼は自分から、リタに話してくれた。
「私は」
 リタは自然に言っていた。
「私は、売られた子供だったのだ。そこの男はとても怖い人で……だから、私は支配されるのが嫌いだ」
 ジェレミーもリタが話したことに驚いたようだ。
「そっか……だから、無所属?」
 リタは頷く。
「そっかぁ」
 ジェレミーは気が抜けるようなふわっとした声で言った。
「お互い色々あったんだね」
 リタも頷いた。なんだか話したことが心地よかった。

 朝食が済むと、リタは真っ直ぐ魔女部屋に向かおうとしたが、ジェレミーに呼び止められた。
「リタ、今日はちょっと付き合ってくれないかい? 屋敷の外に出たいんだ」
 リタは思わずジェレミーを疑いの目で見つめてしまった。
「……逃げる気?」
「ついてきて良いって言ってるのに」
 ジェレミーが傷ついたような表情をした。少し慌ててリタが言う。
「すまなかった」
 ジェレミーはこくんと頷いた。
「これで今朝のこととはおあいこで」
 ちゃっかりしている。
「どこへ行くのだ?」
 リタが聞くとジェレミーは少しの沈黙の後、妙に胆の据わったような声で言った。
「リチャードの家に」
 リタは目を瞬き、眉をひそめた。
「何をしに?」
「話し合いさ、もちろん」
「……話して納得する相手か?」
 リタがつっこむと、ジェレミーはおや、と言った。
「リチャードの性格、良く分かってるね」
「……やっぱり納得しないのか」
 ジェレミーは少し苦笑した。
「しないと僕は思う。でも賭けてみる価値はあるんじゃないかな」
 ジェレミーは窓の外を眺めて言った。灰色が地面に迫るような曇り空だった。
「僕が大人しくこの屋敷に閉じ込められていたのはね、リタ、フルーが羽根をもがれちゃって色々と厄介なことになったのも理由だけと、何よりリチャードと正面衝突するのが嫌だったからなんだ」
「なのに部屋からは出るのか」
「屋敷から出なければ、まだ軟禁の範囲内じゃないか。世間と接触しないから、リチャードもとりあえず沈黙しててくれる」
 ジェレミーはコーヒーのスプーンを持つ手を止めたままで言った。
「でも、僕もそろそろ待てないよ。リタが僕の身の上を知っちゃったことだし、行動するなら今だと思ってね。それでも建前だけは整えたいんだ。……だからリタ、一緒に来てくれないかい?」
 リタは考えた。
「……自宅にいるという保証はあるのか」
「あるよ。今日は日曜だから、リチャードなら家でのんびりしてると思う」
 会いたいと書いた手紙の返事はまだ来ていないが、押しかけていいのだろうか。返事をしあぐねていると、ジェレミーは立ち上がった。
「リタがついて来たくないなら、それでもいいよ。僕はフルーを呼びに行く」

「ジェレミー」
 リタは思わず呼び止めた。ジェレミーが振り返り、少し期待を滲ませた瞳でリタを見る。しかしリタは少しの沈黙の後、こう言った。
「前回リチャード・アベリストウィスから聞いたのだが……」
「なに?」
「フルーエリンの羽根は、もう処分したそうだ。もし話し合いが上手くいかなかったら盗むつもりならば、もう無いと教えておく」
 ジェレミーは目を見開いた。見開いて、動揺したように視線を泳がせ、それから唇を噛み締めて黙り込んだ。彼の顔が朱に染まっていく。リタはその表情の変化に少し驚いた。
 ジェレミーは怒っていた。リタが見た、初めての本気の怒りだった。
「リチャードっ……」
 彼の声まで震えていた。
「大バカ者! フェイ・ファミリアを何だと思ってるんだ!フルーを何だと……! 妖精の羽根は二度と蘇らないのに!」
「……彼なりの理由があるのだろう」
 リタは短く言った。
「もうジェレミーに勝ち目はないのだとリチャード・アベリストウィスは言っていたよ」
「…………」
 ジェレミーは唇を噛み締めたまま、拳を握り締めて崩れるようにいすに座った。リタは極力刺激しないような声で声をかけた。
「それでも、話し合うのか?」
「……いや、やめた」
 ジェレミーは短く言って、また立ち上がった。
「フルーと話し合わないと。ごめん、リタ。今日は魔女部屋には行かない」
 そのままジェレミーは、例の扉を開けて最上階に戻って行った。

 リタは少し後ろ髪を引かれつつ、魔女部屋に向かう。キットがトコトコとついてきた。
「起きたのだね」
 リタが言うと彼はあくびをした。
「最近リタ起きるの早いから、俺も見習おうと思って。サーは今日は来ないのか?」
「来ない。フルーエリンの羽根はもう処分されたと教えたらショックだったようだよ」
「あー……」
 キットは納得したように言った。
「フェイ・ファミリアにとっちゃ存続の危機だもんな」
「リチャード・アベリストウィスも何を考えているのだろうね、まったく」
 キットはリタを見上げた。
「で、決めたか? どっちにつくか」
 リタは黙っていた。
 ジェレミーは妖精の子、リチャードは妖精を理解しない。どっちに転んでも倫理的に問題がある。情はジェレミーに傾くが、魔女の責任感はリチャードに味方する。
どちらを取るのかと言われたら……。
 魔女になると決めてからしてきた努力と苦労、そしてジェレミーと出会って知った“ただのリタ”である状態を、頭の中で繰り返す。

「所詮、魔女は魔女でしかないのだろうか」
 リタはぽつりと呟いた。
 キットはリタを見上げ、少し首を傾げてから、「そうかもな」と言った。