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次の日、朝のコーヒーを運んできたシャーリーは酷く不安そうな顔をしていた。
「坊っちゃまがひどく思い詰めた顔をなさっていましたよ。何をおっしゃったんですか」
「……なぜ私が何か言ったのだと思うのだ?」
「坊っちゃまが何かでお悩みになるのは、最近ではリタ様のことばかりなんですもの」
シャーリーはトレーを抱き抱えたまま、去る様子皆無で言った。
「坊っちゃまは半分妖精ですからね、嘘をつかれたり裏切られるのが一番ダメなんです。お願いですから坊っちゃまを裏切らないでくださいな」
何が裏切りなのだ? リタは始めから、ジェレミーを閉じ込めるためにここに来たのだ。だがそう言ってしまうとリタの決心がバレて、動きづらくなってしまう。リタはしばらく黙り、かなり曖昧なことを言った。
「……努力する」
どうせ仕事が終わればジェレミーには二度と会うことはないのだ。今さら何をしようが、関係ない。
「リタ様」
しかしシャーリーはしぶとかった。
「お願いです。お金ならどうにかします。そりゃあ旦那様は商売上手でお金持ちですけれど、本家の資金だって侮ったものではありませんよ。おっしゃる金額はきっと出せますから」
「…………」
リタは黙っていた。今はもう、お金の問題ではない。リタの進退に関わるのだ。
リタは棚の上の、完成した石化薬の瓶を見つめた。
「あなたたちは」
リタは聞いた。
「なぜジェレミーの味方をするのだ? 私情以外に理由はあるのか?」
話をそらす意図もあったが、リタは純粋にこれを聞きたかった。答えによって決定を変えることはないけれど。シャーリーはしかし、どうにかしてリタから良い返事をもらいたいらしかった。
「そりゃあ、ジェレミー様は人付き合いがお上手ですし、妖精の知識も豊富ですし、妖精との付き合い方も心得ておりますから。多少妖精に近過ぎるとは言え、坊っちゃまなら適度な距離感をご存知のはずです。もう8年近く、人間として妖精たちとお付き合いしていますし」
べた褒め。しかし間違った誉め言葉とも言えなかった。それでもリタは視線の端に荷造りしたトランクを捉えて、自分の気を引き締めた。決行は今日のつもりなのだ。
リタは口を開いた。
「……フルーエリンと話がしたいので少しはずしてくれないだろうか」
「……フルー様と? 何のお話です?」
リタは呆れた。
「メイドがそういうことに首をつっこむのか」
「だってリタ様もフルー様も、私の主人ではありませんもの」
あっさり言った。だったら客のプライバシーには踏み込んでいいのかと反論しかけたが、ここはぐっと飲み込む。
「……妖精の羽根のことで相談がしたいのだ」
用意していた作り話だ。シャーリーは少し迷うような表情をしたが、分かりました、と言った。彼女は少し不安そうながらも大人しく部屋を出ていった。
リタは息を深く吸い込んだ。
「キット」
「はいよ」
日の当たるテーブルで横になっていたキットが飛び起きた。
「開始か」
「うん」
「んじゃ、スタンバイしてるぞ」
「頼む」
キットは部屋の外に出ていった。
リタはまずジェレミーの部屋へ向かい、彼を呼んだ。できうる限り、感情が出ない顔をした。フルーエリンと話したいと言うと、彼は首を傾げた。
「フルーと? 何の話? 僕はいなくていいのかい?」
「時間はあるのか」
「あ、いや、ちょっと今手紙の返事を書いてるところで」
運が良い。リタは言った。
「では、後でもよい。どうせ聞きたいのはジェレミーとリチャード・アベリストウィスのことだから」
「そっか。上がる? 上で話す?」
リタは首を横に振った。
「妖精界の空気には触れたくない」
ジェレミーは苦笑した。
「繊細だなぁ。僕の部屋は大丈夫だよ」
「……でもやだ」
「そう? まあ、仕方ないか、僕も古傷を掘り起こされるのは嫌いだし。待ってて、フルーを呼んでくる」
ジェレミーはいったん階段を上がり、少ししてからフルーエリンを肩に乗せて戻ってきた。リタを見つけると、フルーエリンは開口一言「あの猫は?」と聞いた。よっぽど食われるのを恐れているようだ。
「キットなら散歩に行った」
リタが言うとフルーエリンは安心したような表情になった。
「そう。ならいいわ」
言ってぴょんと飛び降りてくる。
「あたしもあなたと話したいことがあったの。行きましょ」
フルーエリンの言葉に僅かに不安を覚えつつ、リタは頷いた。
「ではジェレミー、少しフルーエリンを借りる」
「了解。何かあったら呼んでね、僕は上にいるから」
そしてジェレミーは上に登って行った。
リタはフルーエリンを手に乗せ、自分の与えられた部屋に戻った。フルーエリンはテーブルの上に飛び下りると言った。
「で、なんの話?」
「あなたこそ」
「あたしの話は分かってるでしょ。あたしがあなたに何かで用があるとすればジェレミーの事よ。あなた、本気でジェレミーを閉じ込めるの?そうならあたしも容赦しないわ」
リタは何も言わなかった。話を逸らそうと言ってみる。
「ジェレミーは妖精に好かれ易いのだろうか」
「そうね、妖精界でも人気者だったけど。なぜ?」
「それで人と妖精との適切な付き合いができるのだろうか。ジェレミーはいつだって、人より妖精寄りだった気がする」
「そんなことはないわ。使用人たちにだってあの通り好かれているじゃない。それに、年数にしたら、妖精界にいたのが12年、人間界は8年よ。ジェレミーは妖精も人もよく理解してる。自分がどちらでもあると心得ているの。だから客観的に両方を見れるのよ」
客観なんて存在するはずはない。誰だって自分自身以上のものにはなれない。なり得ないのだ。だからリタは魔女であることを選ぶし、そしてジェレミーのことでさんざん悩んだのだ。リタは言った。
「少しここで待っていてくれないか。やはりジェレミーにも話を聞いてみる」
フルーエリンは疑いもなく頷いた。妖精たちは正直者だ。リタの言葉をほとんど勘ぐらなかったようだ。
「いいわ。早く決めてね。あたしたちが敵なのかどうか、できるだけ早く知りたいんだから。その時は全面衝突は避けられないわよ。ジェレミーはどうやら相当あなたを気に入っているみたいだからあなたと闘わないでしょうけど、あたしは違うから」
リタは首を傾げた。
「……主人であるジェレミーの意志に反しても?」
フルーエリンは強い瞳で言った。
「そうよ。ジェレミーはあたしの一番大事な人なの」
好きなんだろうか、とぼんやり思いながら、リタは部屋を出た。すこしもやっとした気分になったが、急いで振り払う。やきもちなんて妬かない。妬いてどうする。もう二度と会わない人なのに。
リタは扉の前に立ったが、もとよりジェレミーを呼ぶつもりもノックをする気もなかった。前の晩に隠しておいた、泥の入ったバケツを取り出すと、扉とドア枠の間の隙間に詰めた。そして待った。
少しして、フルーエリンが悲鳴を上げた。スタンバイしていたキットが部屋に入ってフルーエリンを追いかけ回しているのだろう。罵りと悲鳴とが入り交じり、反撃されたのか、キットが痛そうな悲鳴を上げたのも聞こえた。魔法が使われたようなパーンという音もした。
「ちょっとぉぉ、魔女ぉぉーっ! 早く来てぇぇっ、この猫をどうにかしてぇぇーっ!!」
リタはその声を無視して、ポケットに忍び込ませていた小瓶を取り出した。その時、扉の向こうで跳ね戸が開けられた音がした。
「フルー?」
ジェレミーだ。階段を降りる足音。
リタは慌てて瓶のフタを抜き、中身を扉に目掛けてぶちまけた。扉はじゅっという音と共に石になった。
扉の向こうで足音が止まった。
石を通した、さっきよりくぐもった聞き取りにくい声で、ジェレミーの声がした。
「リタなのかい?」
ひどく傷つき、失望し、怒っている声だった。リタはたまらなくなった。もうこれでジェレミーはリタを見放したろうと思うと辛かった。
それでも、リタは魔女を選ぶ。
「……私は、どんな組織にも、誰にも属さない無所属の魔女だ」
リタは扉を正面から見つめて、一言一言はっきりと言った。
「ジェレミーのことは嫌いじゃない。けれど、私は魔女業の方を、どうしても選ぶ」
「……リタ、騙したね。話し合いなんて嘘だ。僕からフルーを引き離したかったんだろう」
隣の部屋から、花瓶か何かが割れた音がした。悲鳴も続いてる。酷いことになっているに違いない。
リタは静かに目を閉じ、言った。
「キットから逃げるためにフルーエリンも魔力を使い過ぎたはずだ。フルーエリンに石化の呪いは解けない」
リタは目を開き、大きな声で宣言した。
「さようなら、ジェレミー」
そして駆け出した。