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 荷造りしてあったトランクをひったくり、キットに声をかけ、リタは猛スピードで部屋を出た。キットはフルーエリンを追いかけるのをやめて、すぐにリタに追いついた。取り残されたフルーエリンは、リタたちが階段を駆け下りるころになってやっと何が起きたのか気づいたらしく、リタたちにも聞こえるような大きな悲鳴を上げた。
「ジェレミーっ!!!」
 フルーエリンの声に気づいて、数人の使用人が何事かと顔を出してきた。そして階段を駆け下りていく魔女に気づく。リタは振り返りもせず、次々と顔を出す人々の間をすり抜けて玄関までたどり着き、屋敷を飛び出した。

 門までの長い道を抜け、大通りまで走り続けて乗合馬車を拾う。乗ってきた魔女と黒猫に乗客も驚いたようだった。リタは馬車の隅に座り、三角帽をいつもよりさらに目深に被って俯いていた。
 そうやって馬車を何回か乗り継ぎ、日も暮れてあたりがほとんど真っ暗になった頃になって、リタは小屋に帰り着いた。師匠はいなかった。仕事に出ているのだろう。リタは荷を自分の部屋に置き、夕食の支度をした。
 フライパンを握りながら、これからどうしようかと考えた。三日後に、とりあえずリチャード・アベリストウィスの所へ行かなくてはならない。それでちゃんと依頼遂行を確認したら、代金をもらって終了だ。それでリタは、日常に戻る。それで良いのだと分かっていても、寂しいような空虚な気分になった。

 出来上がった料理をお皿に盛って机に運び、しばらく待って、冷めてしまうから先に食べようと思っていたら、師匠が帰ってきた。
「何だ何だ、坊やが浮気でもしたのか?拗ねた挙句に実家に帰りますとでもいったのか?やはり私が前回変身した女にでも恋慕したか」
開口一言目がこれだった。
ものすごく楽しそうに笑っているアシュレイの顔を睨みつけて、リタは聞いた。
「師匠……まさかジェレミーを誘惑するつもりで女に変身していたのか」
「いやあ、お前が妬くのを見てみたかったのだよ。なんだ、やはり帰ってきた理由はそれなのか」
アシュレイは楽しそうに言いながら、テーブルの上にリタが準備した夕食があるのが当たり前なのだというように席について、夕食を食べ始めた。
リタも溜め息をつきつつ、フォークを手に取った。
「違う。依頼を遂行してきたのだ」

 リタが言うと、アシュレイは一瞬黙り、ふむ、と言った。
「……それはどういうことだね?」
「依頼主はリチャード・アベリストウィスであって、しかも彼にはなんら落ち度はない。ジェレミーに味方する理由がない」
「そう言い切る割には、依頼遂行する決心をするまで長くかかったのだな」
 リタは言葉に詰まった。
「つまらぬ」
 アシュレイは心底つまらなそうに言った。
「つまらぬ。この際魔女も何も放り出してしまえば面白かったろうに。さんざん悩んだ挙句、結局何も変わらなかったではないか」
「面白ければ何でもよいのか」
 リタが反論すると、アシュレイはフンと鼻を鳴らした。
「お前の場合は面白みがなさ過ぎなのだよ。たとえば、リタ、金だって貯めて使わずにいたのでは稼いだ意味がなかろう?」
「……それは無駄遣いの言い訳ですか」
「黙れ。とにかく、人との出会いもそうだ。そもそも、お前のその行動は本心ではないのだろう?あんなに坊やと仲が良かったくせに」
 リタは恨めしさをこめてアシュレイを見つめた。
「ジェレミーをどうしようと私の勝手だと言ったのは師匠ではないか。私は魔女としての責務を果たしただけだ」
「ほう、責務な。誰がそんなものを定めた? 魔女というのは責務を果たすから魔女なのか? 世間一般に解釈される魔女であれば魔女なのではない。自分がこうありたいと思う魔女になってこそ、本当の魔女なのだよ」
 アシュレイは足を組み、深紅の瞳でリタを鋭く見つめた。
「自分がこうありたいと思う生き方のビジョンを持っていて、それが実現できるように努力するのが、“一生懸命に生きている人間”というものだ。魔女もそうだ」
 リタは口を真一文字に結んで、ただ師匠の視線を受け止めていた。
「坊やはちゃんとこのことを分かって生きているようだが、お前はひよっこだな、リタ。命令されたことをこなすだけの子供だ。それでも無所属のリタ・ベッセマーか」
 ぴしゃりと言われてリタは言葉を失い、ぷいっとそっぽを向いた。何も言い返せないのがひどく悔しい。なじられたことにも傷ついていた。ジェレミーに対する罪悪感で、もう十分に苦しいのに、今は師匠の言葉を十分に咀嚼する余裕もなかった。

 いつの間にかアシュレイは夕飯を綺麗に平らげてタバコをふかしていた。リタはあまりタバコの臭いが好きではないので顔をしかめた。アシュレイはふうっと煙を輪状に吐いて言った。
「まあ、一つ学んだと思っておけ。今回のことはもう終わってしまったのだからな、終わったことは仕方あるまい。せいぜい請求代金を高くしておくんだな」
 リタは黙って夕飯に手をつけていた。


 翌日、アシュレイは協会の集まりで朝から留守で、リタはひたすら、ゴミ溜め化している師匠の部屋や書斎を片付けて回った。本当に、前回帰ってきてからの短い期間でどうしてこれだけ散らかせるのか不思議なくらいだ。ジェレミーは結構その辺がきちんとしていた気がする。上の階だって綺麗だった。服装もアシュレイとは違い、いつもすっきりとシャレた服を着こなして、いかにも育ちの良さそうな感じで。
 リタは片付けの手を止め、積み上げられた本の山を睨みながらため息をついた。まったく、自分はジェレミーのことばっかり思い出している。もう関係ないのに。忘れたいのに。リタは頭を振り、今度こそ何も考えまいと自分に言い聞かせて片付けに戻った。

 ようやく片付けが終わったのは翌日の夜で、次の日、リタはリチャード・アベリストウィスを訪ねることにしていた。
 その日アシュレイは仕事がなく、リタが出かける時も上の階でいびきをかいて寝ていた。どうせ昼まで起きてはこないだろうから、ご飯は作り置きしておいた。リタは料金を請求しに行くというのに気が進まなかった。だらだらと馬車を探し、何時間も揺られて都市に入る。電気灯や立ち並ぶ綺麗な店という景色に見慣れている自分が不思議だった。
 やっと屋敷に着き、取り次ぐとすぐにリチャードは現れた。一通の手紙を手に、とても喜んでいた。
「これは本家にやった部下からの連絡でしてね。上手くいったそうじゃないですか、魔女様。さすがアシュレイ・ベッセマーのお弟子さんですね!」
 リタは何も言わなかった。リチャードはリタの返事がなくても、かまわず嬉しそうな顔をして言う。
「約束どおり、言い値をお支払いいたしましょう」
「小切手にしてもらえまいか」
 リタが言うと、かなり機嫌の良いらしい彼は笑って頷いた。
「ええ、もちろん」
「では、2000ニルクで」
 一瞬固まったリチャードだったが、まあ払えなくはないと思ったらしく、すぐに頷いた。契約書に履行のサインをもらい、小切手をもらい、リタはそれを大切にかばんにしまって、盗まれたりしないように、念入りに強力な鍵かけ魔法をかけた。そしてリチャードにお辞儀をする。彼もお辞儀を返した。

 契約履行。すべて終わった。

 なぜか酷く喪失感を覚えながら、リタは屋敷を後にした。もうこんな豪邸に上がることも、いずれ有名にならない限りは無いだろう。

 馬車を探すために大通りを歩いていると、キットが提案した。
「なあ、リタ。少しアベリストウィス本家の屋敷を見ていくか?」
 リタは少し考えてから頷いた。
「それもよいかもしれない。少しは気分が良くなるかもしれない」
 そういうわけで、目的地が変わった。いつかジェレミーと一緒に立ち寄った魔法薬材料店を通り過ぎ、見覚えのある道に入って、やがて大きな門の前で馬車は止まった。門の前に立ち、リタは木立の向こうの屋敷を眺めた。たった二日で何も変わっているわけが無いのだけれど、屋敷はリタが覚えている通りの外観をしていた。赤いレンガ造り、無数の窓、黒い屋根。
 そして目は自然と最上階を捉えた。
 ――ジェレミーは、どうしているだろう。

 その時、キットが突然「みぎゃっ」と悲鳴を上げた。
「やっぱり来たわね、魔女に猫! よくもやってくれたわね! 今度は逃がさないわよ!」
 フルーエリンだった。