夕虹を呼ぶ歌
第七話

「準備はできましたか、ティシェリ」
 侍女長に声を掛けられて、ティシェリは頷いた。
「いつもの歌でいいの?」
「は……別のが歌いたいのですか」
「ううん、気にしないで」
 口走ったことをちょっと後悔しながら、ティシェリは自分の気持ちを鎮めた。

 エヴァイルと共演したことはとても新鮮な体験だった。神殿で歌う時もいつも即興だが、どこか自由になりきれない堅さのある音楽には違いなかったのだ。だがあの時の歌は違った。だからティシェリは、もう一度あんな風に歌いたいと思ったのだ。まあ、それも神殿では叶わぬ夢だろうが。

 ティシェリはリーメルの方に目をやった。下座の楽隊の場所に座って、彼女は笛をかまえていた。踊り手の少女たちはもう準備が整っている。ティシェリは薄い半透明のレースが下ろされた壇上に続く階段をゆっくりと上った。
 ステージの中央に進み出る。レースの向こうには客達が小さく鎮座しているのが、わずかに見えた。思えば、人前で顔をさらして歌ったのは、この間が初めてだったのだ。客席は静かで、次期巫女の歌を介した神の祝福を待っている。

 音楽が始まった。いつもと変わらぬ旋律。ティシェリはいつものように歌い始めた。

「夜の調べは祭りの合図 奏では導く案内人
 言の葉ひとつ唄に託して 舞うのは人の乱れ恋

 一夜の夢に惑い誘われ 霞む幻は灯火の下
 花の色香に蝶は誘われ 蜜の在り処は夢心地

 移ろう宵の一時に 夢幻の彩りに心恋い
 卯の花霞みにけぶる月 蛍火灯る宵の夢

 歌を歌を 想い届ける祝詞を
 祭りの灯に垣間見た 刹那の香を散らす花

 蛍火の舞う朧影 花恋う蝶の乱れ恋
 夜の調べは祭りの合図 奏では導く案内人」

 歌い終わって、ティシェリは息を吐いた。歌の後にこんなに空虚な気持ちになったのは初めてな気がする。それでも、ティシェリほど音に敏感ではない客たちは、巫女歌姫の異常にまったく気付く様子もなく、いつもと同じ、惜しみのない拍手を送った。客たちには一応ティシェリのシルエットが見えているから、去り際に客たちに礼をしておく。祝福を送る儀式はそれで終わりだ。

 ティシェリが壇上から下りて、踊り手の少女たちと一緒に祭壇の間に向かおうとすると、教育係の女に呼び止められた。
「ティシェリ様、どうなさったのです?」
 彼女は不安そうに言った。
「あなたが神殿に来た日からずっとあなたの面倒を見ていますが、歌い終わった後にそのような表情をしているのを見たことがありませんよ。具合が悪いのですか?」
「……そう……かもしれない」
 外に出られないのが、エヴァイルに会えないのが、こんなに憂鬱なことだったなんて。具合が悪いと言うならそうなのだろう。恋の病という言葉があるくらいだから、あながち間違ってはいない。
「でも大丈夫よ。ちょっと元気になれないだけ」
「さようですか……」
 彼女は言って少し黙った。
「お体にはお気をつけなさいませ。もうじきデイル様の伴侶におなりになるのですから」
「はい……」

 この頃、頻繁に諭されるようになった。もうじき巫女になる、デイル神と共にこの郷の守りになるのだ、と。
 ティシェリは祭壇に向かい、最前列で祈りを捧げた。デイルは時折、この最中にティシェリに話しかけてくるのだが、今日は何も聞こえなかった。エヴァイルなら、返事はしなくても無視はしない。頷いたり首を横に振ったり、ティシェリの方を見てくれたりする。
 ああ、とティシェリは思った。私、浮気してるんだわ。デイル様だけを見ていなければいけないのに、エヴァイルのことばかり考えてる。

 禁忌。
 それでも、この想いは秘めてさえいれば大丈夫だと信じたい。ティシェリが求めなければ、エヴァイルは応えない。そうやって、彼が郷を去る日まで過ごすのだ。理屈は分かっているのに。

「……ティシェリ?」
 少女たちの中の一人が、祈りを終えたティシェリの表情に気付いて声を掛けてきた。
「どうしたのです。どこか苦しいのですか」
 ティシェリは顔を上げた。
「ねぇテベット、ごめん。お仕置は後で受けるから、許してって言っておいて」
「え?」
 少女が眉をひそめたのと同時に、ティシェリは使用人の使う裏口へと駆け出した。
 やっぱり我慢できない。会いたいけれど、会いに行くわけではなかった。約束もしていないのに押しかけるつもりはない。けれど、どうしても、せめて外の空気が吸いたかった。求められて歌うのではなく、歌いたいがために歌いたかった。エヴァイルの満面の笑みを初めて見た、あの時と同じように歌いたい。

 いつもお忍びで使う裏口から神殿を抜け出して、ティシェリは郷の外れに向かった。巫女候補に上がる前から、よく一人で歌を歌っていた場所。路地を抜け、どんどん住宅地から離れて、ティシェリは月明りに浮かぶ花の絨毯の前に立った。
 砂漠では貴重な花畑だ。近くには小さな泉があって、そこから小川が流れている。小さな木も立っていた。ティシェリはすこし落ち着きを取り戻した。 夜風がさわさわと花をなでていく。

 ティシェリは息を吸い、気の赴くままに歌を紡いだ。風が奏でる音楽から、詞を取り出してメロディーに乗せて。歌って歌って、歌い続けた。気持ちが晴れていくのが分かる。
 そしていつからか、歌に別の楽器の音が合わさっていた。ティシェリはハッと気付いて振り返る。花畑を区切る畔道の上に、少年がいた。ティシェリが歌をやめてしまったので、彼も首を傾げながらフィドルを下ろしたところだった。
「歌わないの?」
「エヴァイル……」
 だってここは宿とは逆方向なのに。

 ティシェリの道は、着実に許されぬ方向につながり始めてしまったようだ。


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