夕虹を呼ぶ歌
第八話


「どうしたの、こんな所で……」
 ティシェリは震えそうになる声で言った。エヴァイルはぽつぽつと答える。
「一人でフィドルが弾ける場所を探してて、歌が聞こえたから」
 言いながらティシェリの方へ歩いてくる。
「ここは花畑?」
「ええ……」
「すごい」
 エヴァイルは呟いて、夜風にそよぐ花を見つめて微笑んだ。動揺のおさまったティシェリは言った。
「この花、待宵草というの」
「月の花だね。じゃあ、今起きたばかりかな」
 エヴァイルはティシェリの方を向いた。
「ティシェリ、仕事は?」
「え? ……その、実はサボリなの」
 言うと、エヴァイルは目を丸くした。
「戻ったほうが良くない?」
「いいの。集中できないの。どうしても気晴らしがしたくて……」
「そっか」
 エヴァイルは畔の坂の芝生の上に腰を下ろした。首を後ろに回して、ティシェリをうかがう。
「よくここにくるの?」
「ええ……」
 エヴァイルは少し考え、聞いた。
「弾いててもいい?」
 ティシェリは意味を把握するのに少し時間がかかった。よくここに来ると聞いて、ここがティシェリの“秘密の場所”だと思ったのだろう。それで、この場所の使用許可を欲しているのだ。生真面目なその発言にティシェリは少し笑った。
「いいわよ。私の花畑じゃないから、なんとも言えないけど」
 エヴァイルは少し笑った。
「じゃあ、花畑のオーナーさん、そしてデイル神様、少し土地をお借りします」
 言って、祈るように目を閉じたあと、エヴァイルはフィドルを肩に乗せた。

 流れるような音楽が本当に綺麗だ。詩をつけるなら、風の歌だな、とティシェリは思う。難なく歌詞を取り出せそうだったが、ティシェリはあえて歌わなかった。エヴァイルのフィドルの音だけが、風を伴って花々をなでていく。本当にどこまでも澄み切っていて、濁ったところも迷うところもない、それは理想を音にしたような音楽だった。その音はどうしようもなくティシェリの胸を突く。これ以上深入りするなと告げる理性と、もっと仲良くなりたいと思う本心とが葛藤を始めて、ともすれば前者が負けそうになるのだ。
 エヴァイルは一曲弾き終わるとそのままフィドルを下ろした。
「……ティシェリが歌ってないと、なんだか弾きにくいな」
「ええ?」
 ティシェリは驚いてエヴァイルを見た。エヴァイルは無表情ながらに眉を寄せて、フィドルを観察している。
「だって、手入れは怠ってない。なのに、望んだ音が出ないんだ」
 ティシェリはちょっと信じられなかった。エヴァイルが望んだ音を出せないなんて、そんなのありえない話に思えた。
「ティシェリの歌は、僕のフィドルと波長が合うみたいだ。だからかな」
 何の含みもないことは分かっているのに、自分とエヴァイルとがお似合いだと言われているような気分になって、浮かれてしまいそうなのはどうしてだろう。
「まあ、いいか」
 エヴァイルはぽつりと言うと、フィドルを脇において、ティシェリを見つめた。そして、自分から色々と話しかけてきた。
「ティシェリの仕事場、ここから近いの?」
「ええ……」
「じゃあ、神殿の近く?」
「う、うん……」
 エヴァイルは首をかしげた。
「本当に元気がないね」
 ティシェリは返事ができなかった。エヴァイルの口数がいつもより多いのは、気遣ってくれているかららしい。それにしても、せっかくエヴァイルと二人きりなのに。せっかく会えたのに、自分のほうが話しかけられないなんて。

 俯いているティシェリを見て、エヴァイルが言った。
「ティシェリ、虹って見たことある?」
「虹……?」
「そう。七色の橋が空にかかるんだ」
 唐突な話に戸惑ったが、それは興味をそそられる話だった。何しろ砂漠の郷なので雨は珍しいし、「虹」という名前だけは聞いたことがあったが、見たことは一度もなかった。
「遠い国では、虹は空に横たわる竜だと考えられていたらしいよ」
 淡々と、しかしはっきりと、エヴァイルは言う。
「太陽が高い位置にあるときは小さな虹が、夕方とか太陽が低い位置にあるときは大きな虹ができるんだ」
「へぇ……」
「雨上がりによく出るんだよ」
 ティシェリは少し俯いた。
「雨が降らないとダメなのね」
 雨を降らせるのは巫女の仕事だった。祈りの歌と郷神の想いが一つになった時、乾いた大地に恵みの雨を呼ぶことができる。
「雨じゃなくても、噴水とかでも見れる。今度見てみるといい」
 ティシェリはエヴァイルを見つめた。
「私の知らないことがたくさんあるのね。世界はとても広いのね」
 エヴァイルは少し微笑んだ。
「そうだね。旅人になってよかったと思えるのは、そこだね」
 星の瞬く空を見上げて、彼は言った。
「広い世界を知ることができる」

 ティシェリは聞いてみた。
「エヴァイルの郷はどうして滅んでしまったの?」
「隣りの郷神に襲われたんだ。僕たちの郷の辺りでは、水は豊富にあるのが当たり前で……」
 うつむいて、悲しそうに言う。
「だから、逆に日照りには弱かったんだ。向こうも水を手に入れるのに必死だったんだろうね」
「そう……」
 彼の悲しみが、なんとなく分かる。
 こんなふうに、二人きりで話ができるなんて、宝物のような時間だと思った。彼は虹の話をして、さりげなく元気のないティシェリを元気付けようとする。ティシェリはそれに気付いていながら、気付かないふりをして答える。小さいけれど、確実な、触れ合い。エヴァイルはこういう人なのだ。いつもいつも、こっそりと気を遣ってくれる。そういうところも好きだと思ってしまって、幸せだと感じてしまう自分が、恋に酔いしれているように思えて、情けない気がした。二人でこうやって、夜の花畑を見て、これ以上のものを望んでしまいそうで。

「ティシェリ」
 エヴァイルが突然言った。
「次はいつ会おうか」
 ティシェリは驚いてエヴァイルを振り返った。
「仕事が忙しいんだろう? 次はいつなら空いてる?」
 夢かも、とティシェリは思った。エヴァイルが、自分から「会おう」といってくれているなんて。そのたった一言で、理性と欲求と、天秤は大きく欲求の方に傾いてしまった。
「……明日は楽隊の練習があるの。私も出なきゃいけないの。明後日なら、空いているわ」
「じゃあ、明後日だ」
 エヴァイルは言った。
「どこで待ち合わせようか」
「私がそっちの宿に行くわ。私のほうが道慣れているし」
「わかった。じゃあ、待ってるよ」
 エヴァイルは笑って立ち上がった。
「そろそろ戻らないと。ルーベンたちに黙って出てきたから心配してるかもしれない」
 うん、とティシェリはうなずいた。

「また明後日ね」

 やっぱり嬉しい。その気持ちは抑えようにも抑えられないものだった。


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