夕虹を呼ぶ歌
第九話



 滑らかな白い石の床は、素足にとても心地良い。冷たく硬いその感触を踏み締めたティシェリは、楽団の奏でる前奏に耳を済ませた。楽団の中で笛を担当するリーメルは、ちらりとティシェリと視線を交わして微笑んでくれた。ティシェリも微笑み返した。
 今日は花日和だ、と感じた。なら、花の歌を歌おう。

 踊り子を勤める少女たちが、薄い生地の衣装をはためかせて軽やかに舞っている。ティシェリは息を吸った。

「ふわりふわり 踊るのは花の精 春と花の女神の祝福を 歌いてまわる花の精 
はらりはらり 吹き上がる花 夕紅に赤く染まって 一面に咲きわたる花」

 澄んだ歌声は白い神殿内によく響く。教育係の老婆が厳しい目で少女たちを見つめていた。

「月明りに青く佇む 花筵(はなむしろ)に落ちる星の銀色 
ほころぶ蕾に そっと優しく 口付けをして 花開くその一刻を」

 舞いの隊列は、ほとんど乱れがないように見える。しかし、完全にティシェリの歌と楽団の演奏に合っているのは一人だけだった。

「微笑む陽の光の下で ふわりふわり 踊るのは花の精
春と花の女神の祝福を 歌いてまわる花の精」


「ティシェリ、テベット、いつもながらとても良かったです。残りの10人、練習がないとやはり怠けるようですね」
 週に一度の合同練習は、いつもと同じにように終わって、いつもと同じコメントがきた。テベットと呼ばれた少女とティシェリ以外は、全員うなだれた。 ふりだけの少女も多かっただろうが。
「郷中から選ばれた巫女補佐がそれでどうするのです。お前たちはこれからずっと、ティシェリを支え、郷神さまにお仕えせねばならぬ身なのに」
 彼女たちは、幼い頃から巫女候補として育てられた少女たちだった。12人のうち、8歳になると郷神が、一番気に入った少女を巫女に決める。その際選ばれたのがティシェリだった。残りの11人はティシェリに何かあった場合に代役をつとめたり、補佐をする。
「いいですか、これからはもっとしっかり。デイル様の前で粗相は許しませんよ」
「はい」
 少女たちは恥じるように答えた。
 そして教育係はティシェリの方を向いた。
「ティシェリ様、踊りの方の練習はなさっているのですか」
 ティシェリは首を縮めた。実は踊るのは苦手なのだ。
「それが、そのぅ……」
「まあ、ティシェリ。歌だけではなく踊りもできなくてはならないと、あれほど言ったではありませんか」
 ティシェリはちょっと上目遣いに教育係を見つめる。
「でも、デイル様はそれでいいとおっしゃいました」
 教育係は言葉に詰まり、少女たちはハッと顔を上げた。デイル神に会えるのは巫女だけ、そしてデイル神の言葉を人々に伝えることができるのも巫女だけ。教育係にとっては巫女にデイル神の名を出されれば何も言えないし、少女たちにとっては憧れである郷神だ。郷神の名は大きな力だった。
「そ、それはそうかもしれませんが……」
 教育係は言った。
「百歩譲って、踊りはよしとしましょう。でも、ティシェリ。昨日の夕方はどこにいっていたのです?」
 うっ。うまくやり返された。普段なら彼女は、他の少女達の前でティシェリを叱ったりはしない。ティシェリが切り札を使ったことに対する軽い仕返しだった。
「ええと、それは……」
「ティシェリ、巫女としての自覚を持たなければなりませんよ。大地に根差したあなたの清さと生き生きとした活発さは確かに魅力なのでしょう。それでもあなたは次期巫女であって、自由に外へ抜け出すなどもってのほかです」
「はい……」
 ティシェリがおとなしく頷くと、彼女は溜め息をついた。
「今度こそその“はい”が本心であることを願います。今日はここで解散しましょう」
 はい、と少女達は言って、教育係は踵を返して去っていった。

 黙っていたテベットが口を開いた。
「言わずとも分かると思いますが、告げ口をしたのは私です」
「え? あ、うん……」
 それはそうだ。昨日ティシェリは彼女に外にいくと言って、出て行ったのだから。冷ややかな、落ち着いた大人っぽい雰囲気のテベットは、ティシェリが次期巫女に決定するまでは、最有力候補だと噂されていた少女だ。自分にも他人にも厳しく自尊心の高い彼女は、眉をひそめてティシェリを見つめた。
「あなたは私たちの見本となられるべきなのですよ。それを……」
 ティシェリは肩をすくめた。
「テベットは私を見習う必要なんてないわ」
「それでも、巫女はティシェリです」
 彼女は静かに言った。彼女とてティシェリが自分を差し置いて次期巫女に決定したことを残念に感じているはずなのに、割り切れるのはどうしてなのだろうとティシェリは思う。その冷静さがうらやましかった。
「よくよく行いにはお気をつけてください」
 一礼すると、テベットは二人のやり取りを息を呑んで見守っていたほかの少女達と一緒に、静かにその場を去った。

 一人特別な場所に自室を用意されているティシェリは彼女達と一緒に行くわけにはいかず、溜め息をついた。リーメルが急いで近付いてくる。
「相変わらず冷たい子ね、テベットさんて。それよりティーシェ、また叱られたでしょう。私にも内緒で外へ抜け出したの?」
「その……」
「エヴァイルに会いに?」
「会うつもりはなかったわ。偶然いたのよ。私が歌っていたら、それを聞きつけたらしくて」
「まさか、また会う約束をしたとか?」
「エヴァイルの方から誘ってきたんだもの……明日、会おうって」
 大きくため息をついて、リーメルは額を押さえた。
「あなたが巫女になるのは、納得できるようでできないわね」
「そうね、私はずっとテベットだと思っていたわ」
 ティシェリが真正直に言うと、リーメルが苦笑した。
「そういうことは巫女の言うことじゃないわよ。……それより、今だに本当に抜け出すつもりなら、明日まではおとなしくしていてね」
 ティシェリは顔を上げた。
「今度こそ、何がなんでも止められるかと思ってた。抜け出すのを手伝ってくれるの?」
「止めたってやるんでしょう? 一人で行かせるよりは一緒についていった方がマシよ。それに、私も会いたい人がいるから」
 言ったリーメルはほんのかすかに頬を染めた。おや、と思ったティシェリは、巫女としての心構え云々から考えがそれて、やっと気分が上向いてきた。
 そうだ、明日はエヴァイルに会えるのだ。それはティシェリに希望を与える事実だった。

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