夕虹を呼ぶ歌
第十一話


 前日のおかげか、ティシェリは幸せな気分で目覚めた。巫女が修行の期間中に暮らす広い石造りの部屋、高い窓からは日差しが差している。ティシェリは起き上がり、その明るさの中で伸びをして、布団を跳ね除けた。

 巫女の一日は朝食の後のお祈りから始まる。他の少女達は後ろに控え、ティシェリが祭壇に続く階段を上がっていくのを見守っていた。ティシェリは段を上がり切ると、澄んだ声で祈りの文句を捧げた。少女達がティシェリに続いて文句を繰り返す。
 膝を折って手を組み、めいめいの祈りをしていたときだった。
 ――もうだいぶ力がついたはずだから、そろそろ雨呼びの練習を。
 ティシェリは、降ってわいたような言葉に顔を上げた。デイル神の神託だった。

 急いで階段を降りて、教育係に伝えに行く。普段は厳しい彼女が、この時ばかりは笑った。
「もう一人前の巫女になる日は目前ですね、ティシェリ。よくやりました。祈りの歌の練習は先日やったばかりですが、神託があったなら今日早速、一度雨呼びの練習してみましょう」
 ティシェリは誇らしかったが、不安でもあった。気楽に構えていた「巫女になる」という現実が重いものに感じられてきたのだ。少女達も少しだが浮き足立った。砂漠の郷において、雨は死活問題、それを呼べるようになることは巫女として必須の能力だった。

 楽団と他の神官も呼ばれ、神殿の中でも最も高い塔のてっぺんにある祭壇に上がって、舞台を整える。たかが練習にもかかわらず、こんなに慌ただしく、やるのを急ぐのには訳があった。
 前の巫女が死んでから、もうかなり時間が空いている。それから雨の降る量は年々減って、最近はもう一年以上降っていない。郷がまだ水に事欠いていないのは、ひとえに川と貯水槽のおかげで、しかしそれもだんだん、いつまで保つか怪しくなり始めていたのだ。練習だろうとなんだろうと、皆は一日も早くティシェリに雨を降らせてほしいのである。
 そういうわけでティシェリは、固唾を飲んで見守っている神官達の視線の中で、前奏が始まるのを聞いていた。清流のような音が流れ出した。テベットを先頭にして踊りも始まる。皆やはり気を引き締めているのだろう、テベットはもちろん、他の少女達も完璧に一糸乱れぬ動きを見せた。
 祈りの歌には決まった音楽も歌詞もない。願いを一つにすれば、音楽は自然に生まれる。まったくの即興でも、楽団も音を外すことはなかったし、踊りも乱れることはなかった。

 ティシェリは既に歌を感じ取っていた。口を開けば、もともと知っていた歌のように、ためらいなく言葉が生まれる。
「ぽとり零れたひとしずく 揺らめき霞む水鏡
 細く糸引く雨粒は 夜行きわたる玉簾(たますだれ)」
 雨を、と願う心を一つに、歌は音に乗せられて天へ運ばれていく。
「夏の夜の花匂い 揺らめき霞む雨景色
 星月隠れた雨夜には 雨音唱う揺籃歌(ようらんか)」
 踊りが力を添えてくれているのを感じた。いける、とティシェリは直感した。
「草葉におかれた 露ひとしずく
 散り交い乱れて 地に染みゆく」
 急速に背後から暗くなってきていた。神官達がティシェリの背後に釘付けになり、喜びあふれる表情をした。届いたことを、ティシェリは確信した。
「夏の夜の小夜時雨 天つ神の涙雨
 揺らめき霞む雨景色 夜行きわたる玉簾」
 歌い終わったと同時に、ぽつぽつと滴が落ち始めた。成功だ。

 やったぁ、と少女達が一瞬浮き足立つ。しかし、真っ先にティシェリが祭壇に向かって手を合わせると、少女達は慌てて従った。
「お力添えを感謝致します、デイル様」
 郷神と巫女が力を合わせてこそ、この雨呼びは成功する。ティシェリは心を込めて感謝した。雨が少し強まって、地面を打つ音がし始めた。

 祈りが終わると、枷が外れたように全員で塔を駆け下りて中庭に飛び出した。雨は確かに降っていて、床を濡らしていた。
「本当に雨よ、シバーン!」
「アダル、あんまりはしゃぐと滑るわよ」
「ティシェリもテベットもはやくいらっしゃいな」
 口々に言っては、少女達は嬉しそうに、雨粒を浴びて跳ね回る。両手を広げて滴を受け止めている少女もいた。それは巫女補佐としてではなく、年頃の少女らしい浮かれようだった。

 ティシェリも雨の下に出て空を見上げた。灰色の柔らかそうな雲の間から、日が差している。筋となって降り注いでいる、ぼんやりとした陽光がとても綺麗で、ティシェリはじっと眺めていた。頬を滴が伝い、そのひんやりとした心地良い感触に目を細めながら、ティシェリはふと、エヴァイルもこの空を見ているだろうか、と思った。

 空は相変わらず美しかったが、急に、これは神殿の建物の縁で切り取られた空にすぎないことに気付いた。自分は、視界を遮るものが何もない場所で、地平線だけに縁取られた空を見ることはないのだ、と。それは閉じ込められた小鳥にも似た寂しさだった。籠から空は見えるのに、そこで飛ぶことは許されない。
 締め付けられるような悔しさが沸き上がった。巫女になれば、自分は神殿を出られないのだ。

 ――エヴァイルに、会いたい。強くそう思った。
 エヴァイルが静かな口調で楽器のことを語るのを聞きたい。あの控え目な微笑みが見たい。フィドルを、また聞きに行きたい。――側に、行きたい。
 エヴァイルはティシェリを、何も付随しないただのティシェリにしてくれる唯一の存在だった。けれども、神殿の塀が一番隔てているのは、空でも自由でもなく、エヴァイルなのだ。ただでさえ郷神にしか忠誠を誓ってはならない巫女が、郷に属さない旅人に想い焦がれるなど、許されることではない。それでも、会うことぐらいは許してくれるはずだとティシェリは思いたかった。


「雲間の光は雨の足跡 草葉にのった雫粒……」
 ティシェリはぽつぽつと口ずさんだ。少女達ははしゃぐのをやめ、ティシェリの歌を聞きながら空を見上げている。彼女達の幸福そうな顔を見ながら、ティシェリは、どうして私は皆のように、神殿で暮らすことを喜べないのだろうと思った。

 しとしとと軽やかに降る雨の中、ティシェリはひたすら、エヴァイルに会いたいと思いながら歌い続けた。
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