夕虹を呼ぶ歌
第十四話


 ティシェリは誰もいないのを確認して、観客のいない舞台に出てみた。祝福の歌を聞きにくる郷の民たちが、一杯に会場を埋め尽くしているのを想像する。
 一歩足を踏み出して、そこにエヴァイルがいるのだと想像しながら踊ってみた。クルリと回り、お辞儀をして、花を咲かせるように腕を広げてみる。
「音楽もないのに、よく踊れますね」
 呆れ半分、感心半分に聞こえて来た声の主はテベットだった。ティシェリは驚いて踊りをやめた。
「み、見てたの……」
「見えたもので。……踊り、上手になりましたね」
「そう?」
 ティシェリは少し嬉しくなって微笑む。
「テベットがそう言ってくれると嬉しいわ。一番の踊り子だものね」
 テベットは俯き、呟いた。
「……あなたには、絶対に敵いません」
「どうして? 私が選ばれたのはデイルさまが物珍しがっただけよ。本当ならあなたが」
「過ぎた事ですわ」
 テベットは静かに、冷静に遮った。ティシェリはそれでも言った。――言わずにはいられなかった。
「でも、テベットは本当にデイル様をお慕いしているんでしょう?」
 諦め、られるのだろうか。叶わないと、どうやって諦めるのだろう。
「……私だけではなく、郷の者は皆、デイル様をお慕いしております」
 テベットは囁くように言った。静かだからこそ、その気持ちの強さが伝わってくる。その気持ちを抱えたまま、それでも側に行けないことに満足できるのだろうか。
「私……」
 ティシェリは唇をかむ。リーメルと約束した。諦めると約束した。だから、今を楽しませてくれと。
 でも、楽しんでいるけれど、同時にこんなに苦しい。諦めきれない。こんなに、こんなに、好きになってしまった。
「私だったら、諦めきれない……」
 テベットは、皮肉を交ぜた笑みを浮かべた。
「あなたくらい感情に素直な方が、デイル様はお好きなのでしょう。羨ましいくらいですもの」
「私は、あなたが羨ましい」
 ティシェリの言葉に、テベットはわずかに目を見開いた。よほど意外だったらしい。それはそうだろう。巫女に選ばれた僥倖がありながら、他人を羨むだなんて、身の程知らずというものだ。
「私が?」
「そう。あなたが。あなたたちが。私以外の人がみんな羨ましい……」
 こらえきれない気持ちがあふれてきた。なぜ、自分は次期巫女ティシェリなのだろう。巫女でないすべての人が、そして神殿で暮らすことを誇りに、幸福に思える人が羨ましかった。自分が巫女でさえなければ……。罰当たりなのはよく分かっているが、思わずにはいられない。
「ティシェリ様……ティーシェ?」
 次期巫女に決定してからはリーメルしか呼ばなくなった愛称で、テベットが声をかけたが、ティシェリはあふれそうになる涙をとどめるのに必死で、答えられなかった。
 だって、エヴァイルの声が、フィドルの音が、仕草が、少し大きめの手が、静かに話す口調が、控えめな微笑みが、こんなにも頭から離れない。彼を思うと幸せで、そして耐え難いほどに胸が痛い。許されないのだと、指を突き付けられているようで。
「いけませんよ、ティシェリ。あなたがそのようでは。デイル様がせっかく選んでくださったのに、他を羨むなんて」
 ティシェリは顔を上げた。少し心配そうなテベットの表情に、ティシェリは現実を突き付けられたような気がした。
 そうだ。デイルはティシェリを選んでくれたのだ。郷中の女の子の中から、そして選び抜かれた十二人の中から、ティシェリ一人を。自分はその期待に応える義務があるはずなのだ。
「そうよね……」
 ティシェリは脱力しながら、静かに言った。
「ごめんなさい。大丈夫、もう血迷ったことは言わないから」

 ――もう、会わないようにしよう。諦めることができるようになるまで、時が過ぎるのを待とう。会わなければ、きっとこの気持ちが暴走したりはしない。

「私はデイル様の巫女だものね」

 テベットは頷き、少しほっとしたようだった。

 その時、リーメルが柱の影から現れて声をかけてきた。
「ティーシェ、あのね……」
 そしてテベットがいるのを見つけて足を止める。テベットが顔をしかめた。本来なら、一介の楽団員が気安く次期巫女を愛称で呼ぶなど、いけないことなのだ。ティシェリが全く気にしない上に、デイル神もそれで良いと言ったことをティシェリが皆に伝えてあるため、そんな身分制度は事実上無視されているが。
 それでもリーメルは一瞬迷った顔をしたが、何か大切なことを伝えたいらしく、そのままティシェリに近づいた。
「ちょっといい?」
 ティシェリはテベットを見た。
「ごめんなさい、外してくれるかしら。……話を聞いてくれてありがとう、テベット」
「いいえ」
 テベットはいつもの冷静な声で言うと、リーメルをちらりと咎めるような目で見て立ち去った。

「それで、どうしたの、リーメル?」
「うん、ティーシェには絶対伝えておこうと思って」
 彼女は少し頬を赤らめた。
「私、結婚することにしたの。楽団をやめてルーベンと一緒にいることにしたわ」
 ティシェリは一瞬驚いて言葉が出なかったが、すぐに嬉しくなって笑った。
「うわあ、ルーベン、ついに言ったのね。すごいわ、おめでとう」
「ええ、ありがとう」
 リーメルは笑って、それから少し表情を曇らせた。
「それで、エヴァイルなんだけど、あなたに会いたいって」
 ティシェリは笑みを凍りつかせた。
「で、できないわ……私、もう会わないと決めたの」
「あと5日なのよ。最後の一回ぐらい、お別れを言いに行きなさいよ。巫女だって事を隠したままで別れるのもあれでしょ」
 そうか、後5日なのか、とティシェリは唇を噛んだ。そういうことか。別れるために会いに行くのだ。巫女だと明かすことは、決別の意思表示だ。ティシェリは手で顔を覆い、俯いた。
 しかし、例えそういう口実でも、口実ができてしまうと、ティシェリは会いたいという気持ちに抗えなかった。決意の弱い自分に嫌気がさしつつ、言う。
「……行くわ」
「これで最後よ」
 リーメルは念を押した。
「これで、さようならよ」
「分かってる」
 だから、最後に。
 ――笑って、会いたい。


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