夕虹を呼ぶ歌 第十六話 ティシェリが会いに来ると言った日が来て、エヴァイルは上機嫌だった。 「本当に人間臭くなったなぁ」 仲間の一人がしみじみと言うほどだ。 「相変わらずの人間離れした音楽を奏でる奴だけどさ、天上の人って雰囲気はだいぶ和らいだな」 「ああ、良い傾向だ」 「人間臭いって、どういう感じ?」 エヴァイルが聞くと彼らは笑う。 「昔のお前はな、エヴァイル、人間が興味をもつものに無関心だったからな。今はどうだ、気になる女の子の一挙一動に感情を動かされることもあるということを、少なくとも理解できるようになっただろう?」 「うーん……うん」 頼りない返事だったが、とりあえず最後に肯定が来ただけでも大きな前進といえた。 「で? 今日は何かデートプランはないのか?」 仲間の一人に問われ、エヴァイルは目を瞬いた。 「デート、プラン?」 「何だよ、何も考えてないのか。こりゃ先が思いやられるぜ。おい、ルーベン、なんか言ってやれよ。いつもだったら率先してこういう話に入ってくるくせに、どうしたんだ?」 声をかけられたルーベンは、ちらりとエヴァイルを見た。エヴァイルは眉をひそめた。こういう態度はルーベンらしくない。何か、隠しているようだ。 「言いたいことがあったら言って、ルーベン」 エヴァイルがそう声をかけても、何故か溜め息をついて首を横に振るばかりだ。 「何があったの。この前リーメルと外で話をしてからなんか変だ。プロポーズしたんじゃなかったの?」 もっと、幸せそうな顔をしているはずなのに。婚姻というのはそういうものなのだとエヴァイルは理解していた。自分がしてきた婚姻は、人のものとは性質が随分違うようだったけれど、それでも巫女から「人間があこがれる婚姻」というものを聞いてきていることには違いない。ルーベンの態度はそれと真逆で、エヴァイルを戸惑わせた。これでは、人間になろうにもどんな風になればいいのか分からないではないか。 「あのな、エヴァイル……」 ルーベンが言いにくそうに話始めた。 「今さらなんだけどな……ティシェリに言うのはやめたほうがいいと思う」 仲間たちも、エヴァイルも、しんと静まり返った。 「お前、どうしたんだ急に」 もっともな感想を仲間の一人が告げる。 「あんなに応援していたくせに」 「事情が変わった。エヴァイル、後悔するだけだ。やめた方がいい」 「どうして?」 エヴァイルはわずかに不機嫌な声で言った。 「言ったはずだよ。ティシェリ本人の口から聞くまで、誰の気持ちも信じない。背中を押したのはルーベンだったじゃないか」 ルーベンは言葉につまり、視線をさまよわせた後、唐突に頭を下げた。 「悪かった。俺が浅はかだったんだ。この通り、だから怒らずに諦めてくれ」 「嫌だ」 エヴァイルがはっきりそう言った時、部屋の戸を叩く音がした。 「ルーベン、来たわよ」 リーメルの声だった。エヴァイルが弾けるように立ち上がり、ルーベンより先に扉にたどり着いて、扉を開けた。相変わらず人目を忍ぶようにショールを頭に巻いたリーメルとティシェリがそこにいた。 「いらっしゃい」 エヴァイルは二人に微笑む。ティシェリはほんの少し頬を染めて微笑み返してくれた。そんな彼女を見て、なんとなく胸の奥がじんわりとした。巫女にすら感じたことのない感情だ。これが、恋とかいうものなのだろうかと思う。 「しばらく会わなかったね、ティシェリ」 「ええ……このところ忙しかったの。私、いよいよ公の場で歌うことになったから」 「本当?」 ティシェリは頷く。嬉しくてたまらないはずなのに、何故か浮かない表情だった。浮かないというより、とエヴァイルははっとした。むしろ、追い詰められているような。いつも彼女に備わっていた飛び回る小鳥の風情が、なぜだか消えている。不審に思いながらも、エヴァイルは彼女たちを招き入れた。 「それはすごいね。きっとすぐにたくさんのファンがつくよ」 「……エヴァイルのフィドルには敵わないわ」 「そんなことないよ」 エヴァイルは少し俯いた。 「これでも、だいぶ下手になったよ。郷を離れると、やっぱり弱るみたいで」 「……弱る?」 「いや」 エヴァイルは言って、机の上に置いたままのフィドルをなでた。 「……そういえばね、僕の郷は、楽器作りの郷だったんだ」 「へえ」 ティシェリが目を輝かせる。少し、小鳥の風情が戻った。 「素敵! だからみんな楽器が上手なのね」 「エヴァイルはフィドルが一番得意だけどな、竪琴も笛もなんでもできるんだ。今度聞かせてやったらどうだ、坊」 仲間の一人がティシェリにそう声をかける。一瞬「うわあ」と嬉しそうに笑ったティシェリだったが、すぐにまた表情を曇らせた。エヴァイルはついに声をかけた。 「ティシェリ、どうしたの」 「……え」 ティシェリは視線を泳がせる。やっぱり何か隠しているようだ。 「ついこの前、ティシェリの歌を聞いた」 「え?」 「雨の歌だった。ティシェリ、歌ったよね」 「ああ……き、聞こえてたの?」 エヴァイルは頷いた。 「すごく悲しい歌だった。何か悲しいことがあったの?」 「……それ、なんだけど……」 エヴァイルはティシェリの手が震えているのに気付いた。少し驚いて、その手に触ってみると、びくっとおびえたように手を引っ込める。これには少し傷ついた。 「僕、ティシェリを怖がらせること、何かした?」 「え? ううん、そうじゃないの……」 ティシェリはそれきり口を噤んだ。エヴァイルは彼女が話すのを待っていたが、どうにもその気配がない。元々あまり自分から話す方ではないエヴァイルはじっと待っていたが、いつまでたっても黙っているのでついに声をかけた。 「ティシェリ」 ティシェリは顔を上げ、口をあけたが、やはり言葉にならないまままた口を閉じてしまった。何がどうしてしまったんだろう。 「……僕の、せい?」 「違うわ」 「じゃあ、誰かがティシェリを悲しませているの?」 「ええと……」 「なんなら、そいつを成敗してやってもいいよ」 「……え? エヴァイルが?」 「こう見えても、強いんだ」 いろいろな意味で。もう消えそうな力ではあるが、それでもまだエヴァイルは神だから。本来なら郷のために使うべき力だが、郷を失った今、何かのために使うとすれば、エヴァイルはティシェリのために使いたいと思っていた。 「ねえ、ティシェリ」 タイミングがどうとか、エヴァイルは考えていなかった。ただ、言いたくなった。だから言った。 「僕と一緒に来て欲しいんだ」 ターコイズのような色の瞳が見開かれる。こんなに綺麗な色だったと今まで気付かなかったのはなぜだろう、と不思議になるくらいだ。 「一緒に広い世界を見に行こう。ずっと一緒に。虹も、見に行こう」 「……坊!!」 ルーベンが叫んだ。 「何?」 首を傾げたエヴァイルはしかし、ティシェリのターコイズの瞳から涙があふれ出たのに気付いて、完全に戸惑ってしまい、ルーベンの叫びを気にしている場合ではなくなってしまった。 「ティシェリ……?」 「エ、エヴァイル……嘘でしょう? 私のこと、好きなの?」 いけなかっただろうか。ルーベンの推測はやっぱり間違いだったのだろうか。 「そう、だと思うけど……だめ?」 「だって……」 ティシェリは両手で顔を覆った。 「だって、一方通行だと……そうじゃなきゃ、いけないのに」 「一方通行、って……」 「ごめんなさい」 ティシェイは言い、唐突に立ち上がった。 「私もエヴァイルが好きよ。大好きよ、ずっとずっと好きよ。でも、だめなの」 エヴァイルは黙ってティシェリを見つめているしかなかった。 「……明後日、降神祭に来て。その時になれば、分かるから」 言ったきり、ティシェリは部屋を駆け出していってしまった。そして、それきり戻らなかった。 |