夕虹を呼ぶ歌
第十八話


 ティシェリは膝の震えを止められなかった。こんな時に、デイルが出てくるなんて。
「わたしの巫女を横取りしようとは、いい度胸だな」
 デイルはそう言って、黒山の人だかりの中から、エヴァイルを見つけて真っ直ぐ睨みつけた。エヴァイルもフィドルを下ろしてデイルを見つめている。
「この郷の者ではないな。旅人か……おや」
 デイルが険しい表情をした。
「お前、郷神か」
 え、とティシェリはエヴァイルを見つめる。
 二人は他の干渉を許さない空気を作り上げ、ただお互い睨み合っていた。誰もかもが黙って成り行きを見守っている。ルーベンさえ割り込めなかったし、踊り子の少女たちも固唾を飲んで二人を見守った。
 エヴァイルはディルの言葉を否定しない。少しの間黙って、ぽつりと言った。
「郷はもう失った」
「だが、まだ神のようだな」
「いかにも」
「何ゆえ他の郷に入ってきた。郷神が他の郷に入ることは即ち、侵略の意だぞ」
「デイル様!」
 ティシェリは思わず叫び、デイルの腕にすがった。何が起きているのか分からないし、エヴァイルが郷神だなんて信じられないけれど、今はとにかく、エヴァイルを助けなくてはと必死だった。デイルのような大きな郷の神はそれだけ力も強い。エヴァイルの敵う相手ではないことは一目瞭然だ。
「デイル様、おやめください。どうか、式にお戻りになって。私、どんなに誘われても応えはしませんわ。ですから、どうかお戻りになって」
「ティシェリ」
 エヴァイルが焦ったように叫ぶ。
「ダメだ。嫌だ。僕を見て!」
 ティシェリは見れなかった。見てしまった瞬間、何もかも捨てて駆け寄ってしまいそうだ。

「……なぜそのように苦しそうな顔をする」
 デイルが呟き、ティシェリははっと顔を上げた。デイルはひどく傷ついたような、不機嫌な顔をしていた。
「なぜ歌が揺れた。わたしに全て捧げるはずの歌を、なぜあやつに分けたのだ」
 ティシェリは答えられなかった。強く唇を結び、必死にデイルの視線を受け止めるしかない。
「なぜだ!」
 デイルは一声吼え、手を振り上げた。はっとエヴァイルが顔を上げ、頭上に雲が集まっているのを見てとっさに腕で自分をかばう。まさにその瞬間に、エヴァイルの上に雷が落ちた。
 それを見てティシェリは悲鳴を上げた。
「エヴァイル!!」
 吹き飛ばされたエヴァイルだったが、どうやら無事のようだ。苦しそうに咳をしながらも、なんとか這い上がっている。それを見て、ティシェリにやっと理解が追いついた。エヴァイルは、本当に人ではないのだ。デイルと同じ、どこかの郷の神だったのだ。その瞬間に全てがつながった。
 ――だめなんだ、僕だけは。
 郷神に願い出て、この郷に定住すればいいと言った時、エヴァイルがよこした返事。だからなのか。あの人間離れした美しい音楽を奏でられるのも、このためだったのか。
 これではティシェリの恋は完全に禁忌だ。自分の郷神ではない人間どころか、他の郷の神に恋をしていたことになる。気が遠のきそうで、ティシェリの足が一瞬ふらついた。

「ティシェリ」
 エヴァイルの声がする。大好きな声がする。
「ティシェリ。僕と行こう。君に傍にいて欲しい。ねえ、ティシェリ」
「この娘はわたしの巫女だ!」
 デイルが叫ぶ。
「まだこの郷を去らぬというなら、わたしは郷神相手には容赦せぬぞ」
 デイルがまた、手を振り上げる。
 エヴァイルは今度は、身を守ろうとするような行動を取らなかった。ただ、ただひたすらに、ティシェリを真っ直ぐに見つめて。
「ティシェリ」
 だた、ティシェリだけを。
「君に、虹を見せてあげたかったのに」

 すべきだとかすべきでないとか、そんなことは頭から吹っ飛んだ。絶対に、エヴァイルを死なせたくない。ティシェリはデイルに飛びつき、振り上げられた腕をつかんで下ろさせた。
「デイル様! お願いです、エヴァイルを傷つけないで!」
 なりふり構っている場合ではなかった。郷中に醜態を晒してしまっていることも、眼中にはなかった。
「お願いします。一生涯あなたにお仕えします。すべて、あなたに捧げます。ですから、エヴァイルはもう関係ありません。彼のことは忘れます。……だから、許してください。」
「ティシェリ!」
 エヴァイルが叫んだが、ティシェリは彼には構わずに必死にデイルにすがりついた。
「私からのお願いです、デイル様」
 デイルはしばらくティシェリを見つめていた。すごく傷ついたような、悲しそうな顔で、ティシェリは罪の意識につぶれそうだった。こんな悲しい顔をさせてしまったのは自分だ。勝手にエヴァイルに恋してしまったのも自分だ。デイルには何の非もないのに。涙が出た。
「ごめんなさい、デイル様」
 デイルは少し動揺したようだった。
「だめな巫女でごめんなさい……」

 デイルは困ったようにティシェリの肩を叩いた。
「泣くでない。そなたらしくもない」
 デイルはちらりとエヴァイルに目をやると、一声かけた。
「去れ」
「嫌だ」
 エヴァイルも即答だ。
「ティシェリを連れて行く」
「許さぬ。即刻去れ。今ならまだ、わたしの郷を出るまではお前に手を出さぬと約束しよう。わたしの巫女を諦めて去れ」
「あなたのじゃない。僕のだ」
「聞こえぬのか。即刻、去れ!」
 エヴァイルはなおも反論しかけたが、ルーベンに肩をつかまれて思いとどまったようだ。ルーベンがエヴァイルに何かを囁いている。説得しているのだろう。エヴァイルは力が抜けたようにうなだれ、目を閉じて息を吐いた。そしてルーベンに何か返事を返すと、ティシェリにちらりと視線を送ってきびすを返した。真っ直ぐ、郷の出口へ向かって。

 ティシェリは緊張の糸が切れて、そのままへなへなと足の力が抜けた。ふらりと倒れそうになったティシェリを、デイルが受け止めてくれた。
「あやつのことは忘れろ」
 デイルが囁く。
「わたしがいる」
 ティシェリは頷けなかった。だってこんなに胸が痛い。足に力が入れば、今すぐエヴァイルを追いかけてしまいたいくらいなのに。
 あふれそうになる涙を必死にとどめて、ティシェリは目を閉じた。笑って分かれようと思っていたのに、結局こんな形になってしまった。泣いてばかりだ。確かにこんなの、自分らしくない。
 せめてこれだけは自分らしくあろうと思い、ティシェリは心の中でそっと、本人には言わなかった、むしろいえなかった言葉を呟いた。

 ――さようなら、エヴァイル。大好きだったよ。


 やがて、ゆっくりと、ざわめきが広場に戻ってきた。皆混乱したような表情で舞台の巫女と郷神に何が起きているのだろうと話をする中、ティシェリはゆっくりと立ち上がり、きびすを返すと舞台を降りた。


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