夕虹を呼ぶ歌
第十九話


 神殿はとても静かだった。ティシェリはロウソクのあかりを持って祭壇に向かい、ロウソクを供えて手を合わせた。そしてすぐにきびすを返し、自室に戻る。噴水のある広場から、星の輝く空が見えた。街では祭りの余韻が残っているようだ。ティシェリはそっと拳を握り、部屋に駆け戻った。
 ベッドの上に座り、そっと溜め息をつく。この部屋で過ごすのも最後なのだと思うとひどく寂しかった。もう、空を飛ぶことは許されない。籠の中で過ごさなければならないのだ。

 そのまま窓の外を眺めていたら、誰かが戸を叩く音がした。出て見るとリーメルだった。
「リーメル」
 ティシェリは驚いた。
「まだ出発していなかったの」
「ええ。今出て行くところ。だからあいさつしておこうと思って」
 リーメルはそっとティシェリの手を取った。
「大丈夫? そんな生気のないティーシェなんて、ティーシェらしくないわ」
「……うん」
 ティシェリはうつむいた。唇を薄く開き、呟くように尋ねる。聞いてはいけない気がしたが、どうしても聞かずにはいられなかった。
「エヴァイルは……」
「もう郷を出たわ。ティーシェ、巫女になるなら忘れなきゃ」
「うん……」
「……まあ、無理なんでしょうけどね」
 ティシェリは何も言えなかった。リーメルは溜め息をつき、そっと教えてくれた。
「今、エヴァイルは郷の出口で野宿しているの。ルーベンたちも一緒。私を待っててくれているの」
「そう……じゃあ、あまり待たせてはだめよ。もう行った方がいいわ」
 リーメルは心配そうに言った。
「そんな顔、ティーシェに似合わない。どうしてそんな空虚な顔をするの」
 ティシェリはやはり黙っていた。こらえていた涙が頬を伝ってこぼれ落ちて、うろたえたティシェリは横を向いて必死に涙を拭く。
「ティーシェ……」
 リーメルもうろたえて、ティシェリの肩に手をおいた。
「だめよ。強く生きなきゃだめ。そんな、この世の終わりが来たわけじゃないんだから」
「うん……」
 リーメルはティシェリを抱き締めながら、そっと呟いた。
「あなたは野に咲く花なんだわ。手折って生けてしまったらすぐに枯れてしまう花。あるいは鳥なのよ。大空に羽ばたく小鳥……籠に閉じ込めたら死んでしまうんだわ。デイル様もそれがお分かりになればいいのに」

 そうしてしばらく抱き合っていたが、やがてリーメルがティシェリを放した。涙は止まっていたが、ティシェリは鼻をすすって言った。
「私って、巫女に似合わないわね。婚礼前夜にこんなに泣いているなんて」
 リーメルは苦笑した。
「似合わないから似合っていたのよ。デイル様はそこがお好きなんだわ」
「……エヴァイルも、そうだったのかな」
「そうね」
 リーメルは言い、もう一度ティシェリを抱き締めた。
「さようなら、ティシェリ。元気でね」
「うん……私は大丈夫。リーメルも元気で」
 一度背を向けたリーメルが、また振り返ってティシェリを見た。冗談にしては真剣な目で、盗みを働く前の泥棒のような緊張した面持ちで言った。
「本当に辛かったら、逃げなさいな」
 え、とティシェリは目を見開いた。リーメルは続ける。
「これから一生後悔しながら泣き暮らすなんて、デイル様にも失礼よ。精神が弱ってそのまま儚くなっちゃったりしたら元も子もないじゃない」
 縁起でもないことを言うが、それはティシェリに衝撃を与えた。逃げる? 考えたこともなかった。決してしてはいけないことだと思っていたから、選択肢から外していたのだ。まさかリーメルが、その選択肢を提示してくるとは思わなかった。
「そんな……」
「エヴァイルはそれを望むわ。ティーシェ、あなたも本心では逃げたいと思っているはずよ。……そうするのが一番幸せなら、そうしなさい」
「でも」
 物理的に不可能だとティシェリは思う。既に神殿は明日の婚礼に向けて準備万端なのだ。衛兵が神殿を囲んでいるし、行動を起こしたって神官や巫女補佐の少女たち、教育係や楽団員など、ティシェリを止めにかかる者は大勢いるのだ。
「逃げる……」
 しかしその言葉はティシェリには大きな誘惑に聞こえた。エヴァイルと一緒にいられる。それだけで、郷を捨てることもこれから始まるであろう辛い旅もなんでもない気がした。それに、郷を出られる。広い世界を見に行ける。それに……それに、きっと――虹を、エヴァイルと一緒に。
 ティシェリは辛うじて首を横に振った。
「や、やっぱり無理だわ、そんなのっ……絶対捕まるもん。エヴァイルだって、デイル様にあんなことされて、まだ私を好きでいてくれてるかどうか」
「一番郷を出るのに未練たらたらだったのは、郷の人間の私より、エヴァイルの方だったわよ」
 リーメルが呟いた。
「自分が一番に相手を想って、相手も一番に自分を想ってくれる。それって無敵なことなんだって言ってた。郷と郷神だってそういう関係なんですって。人も同じなんでしょう、って。そう伝えて欲しいって言ってたわ」
 ティシェリは呆然とした。……逃げようと、言っているの?
 リーメルは少し後ろめたそうな顔をした。
「すっごくいけないことを言ってるわね、私。でも、もうこの郷の人間じゃないから罪悪感は捨てるわ。……よく考えてね、ティーシェ」
 リーメルはそう言い残すと、今度こそ行ってしまった。

 ティシェリはベッドの座り込んで、ため息をつくのも忘れるほどに考え込んだ。逃げる。どうやって。許されるのか。残されたデイルは。
 巫女の有事には補佐の少女から巫女を選ぶのが慣例だ。自分がいなくなったらテベットが選ばれるだろうか。彼女は喜ぶのだろうか。デイル神を慕っていた彼女。許されるかどうかで言えば、許されるはずがない。一生その罪を背負えと言うことだろう。身勝手な理由で逃げ出した巫女として。
 デイルだって怒るに決まっている。そしてとても悲しむだろう。彼には何の非もないのだ。全部自分の身勝手。だけれど、残って巫女になっても、リーメルの言う通りデイルを悲しませてしまいそうだ。エヴァイルを本当に忘れるなんて自信はないし、毎日別の男のことを考えて涙する巫女を隣りにおいて、デイルはどう感じるだろう。巫女として、それでは役目を果たせていない。
 ……でも、とティシェリは気づいた。私、考えるのは逃げることを前提にしたことばかりだ。
 それに気づいた瞬間、ティシェリは胸に何かがぐっと迫った。それは苦しさや悲しさとは無縁の、何かもっと別の、強い感情――切望、熱望。それを抱え込んで、ティシェリはしかし、それでも迷い続けた。デイルとの約束がある。ずっとそばでお仕えします、と……。

 そんなことを考えているうちに、結局ティシェリは一睡もできないまま婚礼の朝を迎えてしまった。

 朝、入って来た召使いに連れられて婚礼の衣装を身にまとう。薄い青色の、ティシェリの紺青の髪に合わせた衣装で、化粧を施せば立派な巫女ができあがっていた。
 そこからデイルのいる神の間へつながる回廊の前まで歩く。ゆっくり、一歩進むごとに回廊に近づく。この時点でまだ決心が付かなかったティシェリは、既に諦め始めていた。エヴァイルの顔が頭の中にちらつく。ごめんなさい、と彼に、デイルに、そして自分にも思った。
 回廊の前で立ち止まる。婚礼の歌の奉納だ。リーメルのいなくなった楽団が、厳かな音楽を奏で始め、巫女補佐の少女たちも踊りを始めた。
(堅い……)
 ティシェリは思った。小さな箱に押し込まれたような音楽だ。歌詞は取り出せそうだけれど、エヴァイルの音楽の方が何倍も好きだと思った。
(どうせ郷神に嫁ぐなら、エヴァイルがよかった……)
 郷を失った郷神に巫女がつくのはおかしいのかもしれないけれど、そう思わずにはいられなかった。デイルが嫌いなわけではないし、彼はとっても優しいけれど。でも、やっぱり……。
「我が郷に祝福を 幸あれと仰ぐ人々に
 天に照り輝く日の如く 御神の慈悲を、微笑を」
 ティシェリは歌い始めた。これからは、郷とデイルのためだけに捧げることになる、自分の歌。
「我らがつむぐ賛美歌を 現神称える祝詞を歌おう
 御神の加護に幸多かれと 祈りの歌の届かんことを
 春野に萌え出づ息吹を 夏がはぐくむ命を歌い
 秋がもたらす実りを 冬の抱く静寂を歌う……」

 そして、そこにティシェリはフィドルを聞いた。箱の蓋を開けるように、優しく、しかし力強く、悲しげであって風のようにながれるフィドルの音楽。
 空耳じゃないと気付いた瞬間、ティシェリの背中に奇妙な戦慄が走った。
 ――エヴァイルが、呼んでいる。


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