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朝、セイリアの寝覚めは最悪だった。
「おーきてーっ、お兄ちゃん!」
弓の競技大会で優勝した夢を見ていたセイリアは、何か重い物にお腹の上に飛び乗られて、悲鳴を上げた。全く悪びれた様子もなく、にこにこと笑っていたのはビアトリスだった。
「ビ、ビアトリス皇女!な、どうやって……」
「大丈夫、あたし一人よ。ビンス達から逃げてきたの」
「逃げた、って……」
「あたし、四六時中誰かに見張られているのは嫌いなのよ」
怒った風に言って、ビアトリスは部屋のソファに勝手に腰掛けた。
「あ、そうだ。あたしのことは皇女じゃなくて、ビアトリスって呼んでね。あと、敬語も嫌いだからいいわ」
ビアトリスは勝手にペラペラと喋り続ける。
「思ったんだけど、お兄ちゃんて髪を下ろすと女の子みたいね」
「着替える間もなく起こされちゃったんだから、しょうがないでしょ。髪留めを取りに布団から出られないんだから。皇女の前に下着姿で出るわけにはいかないし」
「だって、朝早くじゃないとビンス達から逃げられないのよ。朝早くなら、皆寝ぼけてて、あたしが何かしててもあまり気付かないの」
「……それより、何か用なの?」
ビアトリスは、腕に抱えていた、白くてふわふわした何かをセイリアの前にずいと差し出した。それは愛らしい声で「にゃー」と鳴いた。
「きっ、昨日の猫……」
「もらってくれない?」
「ええっ!?」
セイリアは別に猫嫌いではなかったが、この猫には散々な目に会わされたので、
どちらかというと恨みを持っていた。
「で、でも……」
「だめ?」
ああ、子供特有のおねだりビーム。……この子は確信犯だ。セイリアは心中そう毒づいて、仕方なく猫を受け取った。
「いーっぱい、可愛がってあげてね!」
「はあ……」
気のない返事をして、セイリアは子猫を見る。円らな青い瞳は、いかにも愛らしい。セイリア達を振り回したことなど露も知らない様子で、楽しげに尻尾を振っていた。
「元気でね。良い子にするのよ」
ビアトリスは子猫の頭を撫でて、別れの挨拶をした。
「そうだ、お兄ちゃん、名前は?」
「セ……アースだよ」
「壮大な名前ねぇ。姉様なんてヒースなのに。荒野に生えてる雑草の名よ」
「お姉さんをそんな風にいっていいの?」
「え、いけないの?」
「オーカスト贔屓だって言われてしまうよ」
「あら、オーカストとうちは同盟国同士よ」
「それはそうだけど……」
この子は、両国の間に流れている微妙な雰囲気に気が付いていないのだろうか。
「子供って純粋でいいなあ……」
「えっ?」
「ううん、なんでもないよ」
ビアトリスは、不思議そうに首を傾げた。
「……さて、どうしたものか」
ビアトリスが去ってからやっと着替え、セイリアは腕を組んで子猫を見つめていた。引き受けたはよいものの、セイリアには猫を飼うための心得など皆目分からない。ましてや要り用なものなど持っていないし、まず何が必要なのかも分からない。子猫が部屋の中を徘徊しては、自分の足に体を擦りつけるのをぼうっと眺めていた。
まず、この子猫がどれくらい大きいのかわからない。もう乳離れし始める時期なのだろうか? それとも、まだミルクだけで十分だろうか? 猫は犬に比べて自由気ままだというが、どこかへ行って二、三日帰ってこなくても、放っておいていいのだろうか?
「……誰かに相談するべきよね」
セイリアはそう考え、子猫を腕に抱いて、まず、一番知っていそうな大尉の元を訪ねた。
ところが、大尉は留守。早朝からどこかへ出かけているらしい。仕方がないので、セレスの所も訪ねてみる。しかし部屋からはわずかに公爵の声が聞こえていた。あの厳しそうな公爵の前で、セレスに猫の飼い方を聞く気にはなれない。すごすごと退散して、セイリアは頭を抱えた。
「……あとはシェーンよね……政治と一般教養には詳しいだろうけど、猫の飼い方なんて、あの子に分かるかしら」
子猫はお腹が空いたのか、しきりにミーミーと鳴いている。
「わかったから鳴かないで頂戴。シェーンに何か教えてもらうのはちょっと癪だけど……あんたのためよ、おちびちゃん」
セイリアは気が進まないまま隣のシェーンの部屋の戸を叩いた。返事はない。
「……呆れた。まだ寝てるのかしら」
取手を引くと、戸は開いていた。
「不用心ねえ……」
一人ごちて、部屋に踏み入れる。見てみると、ベッドは空だ。セイリアは首を傾げた。
「変ねぇ……」
どこかへ出かけているのだろうか。それならセイリアを叩き起こしにきているはずだ。この国で護衛無しで出歩くなんて、危なすぎる。もしかして、擦れ違っちゃった? まあいいわ、ここで待たせてもらおう。セイリアは手近な椅子に勝手に腰掛けた。
サービスの良くない国ではあるが、さすがに他国の王子には良い対応をしたらしい。柔らかくて高級そうな椅子だ。
「うちにも一脚欲しいぁ……」
気分が良くなって、セイリアは足を揺らした。
「にゃー、にゃー!」
急に子猫が鳴いたので、セイリアはぴくんと跳ねた。どうしたのだろうと思って部屋を見回し、子猫の姿をとらえて、セイリアはあっと声をあげた。
「ち、ちょっと!」
セイリアが椅子の心地好さに酔い痴れている間に、子猫は勝手に部屋を探検していた。その子猫は着替えを入れる台の上にいて、足下には、黄色く濡れたような染み。さらに悪いことに、その染みがついているのは、明らかにシェーンの服。
「うっそでしょぉ……」
セイリアは頭を抱えた。そこへ、声が降る。
「さて、どうしてくれるつもりだい?」
明らかに不機嫌な声。セイリアは冷や汗がドッと吹き出したのを感じた。
「シ、シェーン……」
長い髪を結びもせず、バスローブ姿で、頬も暖められたせいでほんのり紅く、体中から湯気を立ち上ぼらせているという見事な風呂上がり姿だ。……今まで朝風呂に入っていたわけか。こんな状況でなければ見とれていたであろうが、その顔には声よりも鮮明に不機嫌さが表れていた。
セイリアは思わず縮こまった。絶対、怒られる。明らかに自分に非がある場合には、セイリアは言い返せない。
「……あの、えっと、もしかしなくても、これはこれから着る予定だった服?」
「そうだよ」
明らかにご立腹。ひいぃ。
「珍しいな、だらだら言い訳しないのは」
今度は皮肉。ひいぃ。
「すみませんごめんなさい……」
うなだれたセイリアを見て、シェーンは大袈裟にため息をついた。
「罰、その服、君自身が洗うこと。それと、そこに衣装ダンスがあるから、別の服取ってきて」
普段なら、こんな風に命令されたらセイリアは猛反発するはずなのだが、負い目のある今日はいやにおとなしかった。
……笑い種だ。絶対笑い種になるだろう。いくら護衛とはいえ、これでも一応貴族なのに。
たらいの中で、服と泡と格闘しながら、セイリアは罪悪感とともに沸きあがってきた不満にふくれっ面になっていた。陽光のさんさんと降る中庭で、腕まくりをして洗濯物。大体、家事なんてやったこと無いのに、どうしてセイリアに洗濯物がつとまると思ったのだろう。
「やあ、何してるんだい?」
ああ、こんな時に。セイリアは溜め息をついて、声の主のハウエル大尉を振り返った。
「何だっていいでしょう」
「おやおや、不機嫌だね。どうかしたのかい、洗濯なんかして」
大尉は笑い含みにたらいの中身を覗き込んだ。そして、笑いを引っ込ませる。
「シェーン王子の服じゃないか。何をしでかしたんだい?」
「……猫です」
「猫? ビアトリス皇女の?」
「今は私のですけどね」
「もしかして、押し付けられたのかい?」
セイリアはこっくりうなずいた。事情を全部把握した大尉は、ぷっと吹き出して大声で笑い始めた。
「……君の周りは、珍事件でいっぱいだ……!」
「笑い事じゃないですよ! 家事なんてやったこと無いんだから」
「ごめんごめん。そうか、君は新米で、戦場に出る訓練を受けたことが無いから分からないんだね。戦いに駆り出されたら、炊事洗濯、皆自分任せだから。ほら、貸してごらん」
セイリアは目をぱちくりさせて、席を譲った。大尉は手際よく布と布をこすり合わせ、繊維が傷まないようにするにはどうすればいいか、などとコツを教えていった。セイリアはふんふんと言いながら、時には大尉に手を添えてもらって、洗濯の仕方を教わった。帰ったら、メアリーの前で洗濯してみようかしら。驚くメアリーの顔が目に浮かぶ。
思ったよりもずっと早く仕事は終わって、大尉はいつもの爽やかスマイルで去っていった。
なんだかいつも入れ替わりな気がするが、入れ替わりにシェーンがやってくる。なぜか、まだご機嫌斜め。朝食を終えてきたはずだから、もっと機嫌が良いと思っていたのに。
「終わったの?」
「え、なに? あ、うん、終わったわよ」
「今、大尉が離れていったのを見たけど」
「手伝ってもらったのよ、私があんまり下手だから」
「そう。おかしいな、今日は大尉は予定がぎっしり詰まっていたはずなのに」
こんなところで洗濯の手ほどきをしている時間があるのだろうか。
「時間の空きが出来たんじゃない?」
「……いや、違うと思う。君、相当気に入られてるってことだよ」
最後の一言にたっぷり棘が入っていた。セイリアは首を傾げてシェーンをみる。
「それが何か悪いことなの?」
「べつに。君もまんざらじゃないみたいだね?」
また棘の入った言葉に、セイリアは困惑した。
「だって、誰かに好かれるって嬉しいじゃない? ねえ、それより、この服はどこに干せばいいの?」
シェーンは目をぱちくりし、ダメだこりゃと溜め息をついた。
「こういう感情的なことって、女の子の方が敏感だと思ってたけど……」
セイリアの場合は例外である。
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