Rain

 

 その夜は寝ないで歩き通し、翌日の日暮れ、やっと泊まる場所を見つけて休むことができた。宿に入った途端、雨が降り始めた。クレオはかごの中で不満そうにみーみー鳴いていた。
 雨は翌朝になって土砂降りになった。
「出発は延期だな」
 宿の入口で、大尉が雨を見ながら呟いた。
「これじゃ、とてもじゃないが歩兵がついてこれない。馬車も、どこかで車輪がぬかるみにはまるのがオチだろう」
 ただの土砂降りというところが憂鬱だった。嵐ならいいのに。セイリアは嵐が好きだ。なんとなく、心の奥にぞくぞくするものを感じる。
「退屈かい?」
 大尉がセイリアのほうを向いて、言った。
「そうですね。退屈です。セレスが別の宿ですし」
 余りに人数が多い故の処置なので、これは仕方ない。
「君は退屈してると、本当に日頃の生気がなくなるね」
「わかります?」
「君ほど顔に気持ちが出る人は珍しいよ」
「そうなんですか」
「おや、無自覚だったのか」
「はあ……」
「そうそう、シェーン王子が呼んでいたよ。随分と王子に気に入られたんだね、チェスの相手をしてほしいそうだ」
 セイリアはパッと大尉を振り向いた。
「それを早く言ってくださいよ」
 大尉は笑った。
「少しじらしてやろうと思って」
「意地悪」
「ほらほら、早く行って差し上げなさい。殿下も退屈していたから、きっとじれている」
 大尉が原因でしょ、と内心突っ込みながらも、セイリアは階段を駆け上がってシェーンの部屋に急いだ。

「遅いよ」
 案の定、叱られた。
「文句は大尉にいってね」
 一応、言い訳をしておく。部屋に入ってあたりを見回した。さすが王子の泊まる部屋、王宮と同じぐらいとまではいかないが、調度品や装飾なども、それなりに豪勢だった。うらやみながらフカフカの椅子に座り、今日こそは勝つ、と意気込んだセイリアだったが、今日も見事に惨敗続きだった。しかし、回を追うごとに上手くなってきているのは確実で、シェーンが駒を前にして悩む時間が増えていったので、セイリアはそれだけで、してやった気分だった。
「単純だな、セイリアは」
 負けているくせにある程度機嫌がよさそうなセイリアを見て、シェーンが呟いた。
「あんまり心の中がごちゃごちゃしてると、疲れるもの」
「そういう楽天的な考え方ができるのはうらやましいな」
「シェーンはいつも最悪のパターンに備える方法を考えてるんだもの、自然に後ろ向きが身に着いたのよ」
「後ろ向きかなあ……」
「あたしから見ればね」
 ポーンをルークの隣に動かした。シェーンはその動きに罠が仕掛けられていないかどうか、見極めようと腕を組む。
「武芸に必要なのは勇気と技術、それに、相手を見くびらないと同時に、絶対に負けるなんて思わないことよ。前を向いていないと、正面をつつかれるの」
「それがセイリア流必勝術?」
「まあね。勝負事はいつもそう考えて動いてる。政治じゃ通用しないだろうけどね」
「まったくだ」
 迷った末に、シェーンはルークでポーンを取った。セイリアはまた考える体制になる。シェーンはその顔を見つめていた。
「負の感情って嫌い。憎むとか嫌悪とか。人の間はまだしょうがなくても、国同士ならあるまじき感情よ」
「……それは、さり気なく僕のやったことに対する非難かな?」
「ご自由に。でもまあ、政治についてはシェーンのほうがよく知ってるから、私が口を挟める話しじゃないことは分かってるわよ」
「……利口になったんだな」
「ところで、シェーン」
「うん?」
 セイリアの口許ににんまりと笑いが広がった。
「チェックメイト!」
「……え」
 確かに、セイリアのクイーンがシェーンのキングを取れる位置にあった。
「あ! いつの間に!」
「へへーん、今のルークが退いてくれたおかげ!」
 この程度の罠に気付かなかったなんて、とシェーンは唖然となった。原因は分かっている。俯き加減のセイリアに見とれていて、半分上の空だったからだ。それに自分で気がついて、シェーンは赤くなった。
「やあね、そんなに怒らないでよ。猿だってたまには木から落ちるわ」
 それをどう解釈したのか、セイリアは的外れな慰め方をする。シェーンは思わす口許に手をあてて、「いや、そういうことじゃなくて……」の後に何をつなげばいいのかを、熱でのぼせそうな頭で考えていた。
「強がらないの。たまには負けを認めなさいよっ」
 上機嫌のセイリアはそう言ってニコニコした。
「わかってるよ! 認めないなんて言ってないよ」
「おっ、聞き分けがよろしい」
 かなり嬉しそうだ。気取られていないようなのでとりあえずほっとする。

 その時、外が光った。続いて、雷鳴が轟く。
「う、わっ」
 シェーンが驚いて声を漏らした一方で、セイリアはパッと顔を輝かせて窓に駆け寄った。彼女が窓枠に手を掛けて身を乗り出したのと同時に、土砂降りに風が加わって嵐になった。
「素敵!」
 そう一言言うと彼女は身を翻し、部屋の中に戻ったかと思うと、すぐ部屋から走り出ていった。かと思えば、すぐに外から「シェーン!」と呼んでくる。窓の側によってみると、傘もささずにずぶ濡れになったセイリアが、宿の外に立って、ひらひらと手をふっていた。
「おいおい、風邪引くよ!」
「そんなにヤワじゃないから平気!」
 ヤワとかヤワじゃないとかの問題じゃないだろう、と内心突っ込んだが、本人が嬉しそうなので言うのはやめておいた。
「一度、こうやって嵐の外に出てみたかったんだ! 家じゃ許してもらえないから!」
 そりゃそうだ。本当に、子爵や侍女たちが可哀想になってくる。呆れたような溜め息をついて、シェーンは窓枠に頬杖をついた。
 セイリアは雨の中でくるくると回る。気持ち良さそうな表情で、シェーンが一瞬、自分も外に出てみようかと思ったくらいだった。
 それだけではなくて。
 興奮して赤く染まった頬を雫が伝うのも、髪から粒が滴っているのも、とても綺麗に見えて。
「……雨って、嫌いだったんだけどな」
 嵐の中、一瞬雲が切れ、夕日が差し込んだ。それがセイリアの周りをぼうっと光の中に浮かび上がらせている。それがこの上なく幻想的で、綺麗だった。
 チェスに負けたのも、その原因が見とれていたというのも、もうどうでもいい気がした。

 今この瞬間大切なのは、君を見つめていることだけ――



2005.06.11